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そろそろ結びにしなければなりません。神の偉大さと慈しみについて少しばかりお話しするつもりでしたが、日常生活の聖化について述べた今、私の望みは達せられたと考えます。言うのも、世俗の現実の中で、心静かに単純に、真実を愛する心で聖なる生活を営むことこそ、世を救うため小止みなく働かれる神の深い慈しみ、「大いなる業」の最も心を打つ表れであるからです。

 詩編作者と共に、皆さんにお願いします。私の祈りと賛美に心を合わせてください。「わたしと共に主をたたえよ。ひとつになって御名をあがめよう」。皆さん、信仰に従って生きましょう。

 少し前に朗読されたエフェソの信徒への手紙の中で聖パウロが力づけていたように、信仰の盾、救いの兜を身に帯び、神の言葉である霊の剣をとりたいものです。

 信仰はキリスト者にとって非常に必要な徳ですが、教皇パウロ六世の公布された「信仰の年」である今年には、特に必要です。信仰がなければ、日々の生活を聖化するための土台そのものを欠くことになるからです。「信仰の神秘(聖体)」に近づく今、篤い信仰が要求されています。神の慈しみの集約であり実現である主の過越にあずかろうとしているからです。

 皆さん、間もなく祭壇上で再現(現実化)される「私たちの贖いの業」を宣言するために信仰が必要です。クレド(使徒信条)を味わい、今この祭壇の上、この集いの中で実現するキリストの現存を、身をもって体験するためには信仰が必要です。キリストの現存のおかげで、私たちは「心も思いも一つに」して、一、聖、公(カトリック)、使徒継承のローマ教会、つまり普遍の教会となることができるのです。

 愛する皆さん、最後にもう一つ。日常生活は聖化され得ることを人々に示し、先に述べた事柄はいずれも単なる儀式と言葉ではなく、神的な現実であることを世界に証明するためには、信仰が必要なのです。父と子と聖霊、聖母マリアの御名によって。

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