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すべての体の復活を信仰告白する真のキリスト教は、物質的だというレッテルを貼られるのを恐れず、「体から離れた純霊説」とは、当然ながらいつも対立してきました。そこで、霊魂には扉を閉ざす物質主義と真っ向から対立した「キリスト教的物質主義」とも称すべき立場を主張できると考えます。

 昔の人が受肉された〈みことば〉の足跡と称した秘跡は、私たちを聖化して天国へ連れていくために、神が選ばれた道をはっきリ示すものであることに、疑いの余地はありません。各々の秘跡は、創造する力と購う力をすべて備えた神の愛であり、物質的な手段を使って私たちに与えられることもお分かりでしょう。これから始まるユーカリスチア(聖体の祭儀)とは、購い主の尊い御体と御血にほかなりません。私たちはそれを、最近の公会議が指摘したように「人間が栽培する自然のもの」(大地の恵み、労働の実り)であるこの世の慎ましい材料、パンとぶどう酒という形で受け取ります。

「一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」と、使徒聖パウロの書いたわけが分かるのではないでしょうか。私たちの心に注がれた聖霊がこの世で興す動き、地上から主の栄光に向かう上昇運動について述べているのです。そして、聖パウロはその動きの中にいかにも平凡な事柄が含まれていることを明らかにするため、「食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」と書き記しています。

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