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このようなキリスト信者であれば、自分は教会を代表するために教会から社会に下っているとか、自分の提案する問題解決が〈カトリックの解決法〉だとか、考えたリ述べたりすることはありません。およそあり得ないことです。万一そのようなことになれば、それこそ聖職者主義、〈官僚的カトリシズム〉とでも称すべきでしょう。呼び名は別にしても、物事の本質を著しく歪めることに変わりはありません。皆さんはあらゆる所に本物の〈社会人としてのものの考え方〉を広めてくださらなければなりません。それには三つの原則があります。

* 自分の言動について責任を負うという高潔な態度を維持すること。

* 誰もが自由に意見を述べうる事柄に関して、同じ信仰の兄弟が自分とは異なる解決法を提案したとき、彼らを尊重できるキリスト者であること。

* 人間的な派閥争いを母なる教会に持ち込み、教会を自らの利益のために利用しないカトリック信者であること。

どの分野でも同じですが、この分野においても明らかなのは、神の似姿として造られた人間の尊厳と教会が、共に認める自由を享受できなければ、私たち人間が日常生活の聖化という理想を実現させることはできないという事実です。個人の自由は、キリスト教的生活をするために欠くことのできない条件です。ただし、私が自由と言うとき、常に責任を伴った自由を考えていることを忘れないでください。

 私の言葉を文字通りに受け取ってください。緊急の場合に限らず、日々、自らの権利を行使しなさいとの呼びかけです。また、政治や経済の分野で、大学で、専門職で、市民・国民としての義務を高潔な心で果たしましょう。ただし、自由に決定した結果として生じたことをすべて勇敢に引き受け、自主性に伴う責任を負いましょうという呼びかけです。このように、キリスト教的な〈人としてのものの見方〉を持っているなら、偏狭や狂信に陥らずに済むでしょう。言い換えれば、人々と平和に暮らし、社会生活のあらゆるレベルで共存を育んでゆけるでしょう。

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