使徒職

  海の轟きが、一つひとつの波のざわめきから成り立つように、あなたたちの使徒職の聖性も、一人ひとりの徳から成り立っている。

  あなたは〈神の人〉、内的生活の人、祈りと犠牲の人となる必要がある。あなたの使徒職は、あなたの〈心の中〉の生活が溢れ出たものでなければならない。

  一致。一致と服従。どんなに精巧な作りであっても、時を告げない時計の部品なら、無用の長物である。

  あなたたちの仕事においては、〈派閥〉を作らないようにしなさい。それは、使徒職を小さくしてしまう。そのような〈派閥〉が、やっとのことで、普遍的な広がりを持つ事業を支配するようになったとしても…、その普遍性は瞬く間に単なる〈派閥〉になり下がってしまうからである。

  あなたは困り切って、こんなに多くの道があるのですねと、私に言った。各々が多種多様な道の中から自分の道を選ぶことができるよう、たくさんの道がなければならないのである。

当惑しているのか。最終的にきっぱりと自分の道を決めなさい。そうすればあなたの当惑は確信に変わるだろう。

  他の人々が立派な使徒職に従事しているのを見たら喜びなさい。彼らのために豊かな神の恵みを願い、彼らがその恵みに応えるよう祈りなさい。

それからあなたは、自らの道を進みなさい。あなたにはこの道以外の道がないことを確信しなさい。

  他の人々が、あなたの協力を求めずにキリストのために働くのを見て心が痛むとすれば、あなたの精神は間違っている。聖マルコの次の一節を思い出しなさい。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。イエスは言われた。やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。あなたたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである」。

  神への愛が不足しているなら、おびただしい外的活動に熱中しても無益である。それはちょうど糸のない針で縫い物をするようなものだから。

 〈主の〉使徒職ではなく、結局のところ、〈あなたの〉使徒職をしてしまったとなれば、まことに残念なことだ。

  使徒としてのあなたの、自らの使命に対するその信仰を、わが子よ、私は大喜びで祝福する。あなたはこう書き寄こしたのだった。「将来が確実であることに疑いの余地はない。おそらく私たちのような者が働くにもかかわらず。ただし、『皆が一つになるように』と言われるように、祈りと犠牲によって、皆が頭と完全に一致しなければならない」と。

  活動を他人に任せ、祈り、そして苦しむ人々は、この世では輝かず、目立たないかも知れない。だが、永遠の生命の国では、その人たちの冠は眩いばかりに輝くことだろう。〈苦しみの使徒職〉は賛美されますように。

  あなたの慎み深い使徒職を〈黙々として果たす効果的な使命〉と呼んだのは本当だ。今もそれを訂正するつもりはない。

  初代教会の信者へのあなたの信心は、とても素晴らしいと思うし、それをできるだけ育てるよう助けたい。初代の信者のようにあなたも、慎みと親しい打ち明け話という効果的な使徒職を、日毎より熱心に実行するように。

  〈慎みと打ち明け話の使徒職〉をするとき、何を言ってよいか分からないなどと、言わないでほしい。なぜなら、詩編の言葉で言うが、「主は福音を宣べ伝える者たちに力にみちた言葉をお与えになる」、主はご自分の使徒たちの口に効果的な言葉をお与えになるからである。

  ぐらついている友に折よく漏らした言葉。巧みに誘い出したあの有益な会話。また、あの人への、大学での仕事を改善するために役立つ専門的な助言。そして、かの人には、思いもよらぬ使徒職の可能性を示す幸いにも軽率な言葉。これらすべてが〈打ち明け話の使徒職〉である。

  〈食事の使徒職〉。これは、古く太祖らの時代の手厚いもてなしであり、ベタニアでの兄弟愛の暖かさを備えている。この使徒職の実行を見るとき、ラザロの家で主席に着かれるイエスを見ているような気がするものだ。

  民衆の祝いや行事に再びキリスト教的な意味を加えることが焦眉の急である。それらが退屈になったり、異教的になったりすることは、早急に避けなければならない。

 〈娯楽の使徒職〉とも言うべき、この急を要する分野で働く人が現れるよう、主に祈りなさい。

  あなたは私に、〈手紙の使徒職〉に対する素晴らしい賛辞を書いて来た。「手紙を受け取る人のためになることを書くのに、便箋を埋めるだけというわけにはいきません。私は手紙を書き始めるとき、この手紙を何らかの役に立たせて欲しいと、守護の天使にお願いします。つまらないことしか書けない場合でも、相手が最も必要としていることのために祈りながら過ごした一時を、私からも受取人からも、奪うことは誰にもできません」。

「わけもなく悲しんでいた時、ちょうど手紙が届きました。そして皆の働きぶりを知り、殊の外元気づけられました」。別の人は、「あなたの手紙を読んで、兄弟たちの近況を知ると、周りを取り巻く現実の最中でも幸せな夢を見ているようで、すこぶる大きな励みになります」と言う。また、ある人は「手紙を受け取り、自分がこのような人たちの友であることを思うと、本当に嬉しくなります」と書いて来た。さらに別の人、大勢の人々は、こう語る。「X君の手紙を受け取り、彼らと比較して私の活気のなさを思って、恥ずかしくなりました」。

 〈手紙の使徒職〉がいかに効果的であるかが分かっただろう。

「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」。主が魚に対するように人々を獲る漁師という言葉を使われたことには深い意味がある。人を獲得しようとすれば、魚と同じで、頭を掴まなければならないのである。

 〈知性の使徒職〉には、なんと深い福音的な意味が秘められていることか。

  あまり骨の折れないものは、誰もありがたく思わない。これが人の常である。だから私は、〈与えない使徒職〉を勧めている。

あなたの職業があなたの使徒職の手段であるのなら、あなたの仕事に見合った公平で妥当な報酬を必ず受け取るようにしなさい。

「わたしたちには、他の使徒たちや主の兄弟たち、そしてペトロのように、信者である婦人、キリストにおける姉妹を連れて歩く権利はないのですか」。

これは聖パウロがコリントの人たちに書き送った第一の手紙の言葉である。やはり、〈使徒職における女性〉の協力を軽く視ることはできない。

  聖ルカ福音書の第八章にこう書いてある。「すぐその後、イエスは神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡って旅を続けられた。十二人も一緒だった。悪霊を追い出して病気をいやしていただいた何人かの婦人たち、すなわち、七つの悪霊を追い出していただいたマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの家令クザの妻ヨハナ、それにスサンナ、そのほか多くの婦人たちも一緒であった。彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた」。

私は聖書を写しただけだが、これを読んだ婦人のうちの誰かが、聖なる妬みにかられて燃え上がり、豊かな実を結ぶよう神に願ってやまない。

  苦難の時になると、女性は男性よりも一層強く、より一層忠実である。マグダラのマリアとマリア・クロパ、サロメを思い出してみなさい。

この婦人たちのように勇敢で、悲しみの聖母と深く一致した婦人たちがいれば、どれほど偉大な使徒職が世界中で展開されることだろう。

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