堅忍

  始めることは誰にでもできる。堅忍するのは聖人たちだけである。

あなたの堅忍が、最初の衝動の盲目的な結果、あるいは惰性にならないようにと願う。むしろ、内省の結果からくる堅忍であるように。

  主に申し上げなさい。「あなたがお呼びになったので、ごらんください。わたしはここに居ります」と。

  あなたは道から逸れてしまい、恥ずかしいから戻らなかった。間違いを正さず、誤りを正さないことこそ恥ずかしいというほうが筋は通っているのだが。

「風変わりなことも信心ぶったこともせず、必要に応じて危険を避けつつ堅忍して歩みを続けるには、ことさら英雄になる必要はありません」と、あなたは告白し、付け加えた。「いただいたプラン、秘跡や信心の業の規定を実行している限り、周囲の悪巧みや噂話に心を煩わされることはありません。私が怖いのは、そんな些細なことに怯えることのほうです」。素晴らしいとしか言いようがない。

  あなたの心の中に生まれたばかりの、その真に気高い理想をさらに燃え上がらせ、そして守りなさい。春には無数の花が咲き乱れていても、実のなる花は少ないことを考えなさい。

  落胆は堅忍の敵である。落胆に対して戦いを挑まなければ、まず悲観に襲われ、次いで生温さがやってくる。楽天家になりなさい。

  おや、おや、「十字架を、主よ、十字架を!」と、あれほど願っていたのに、やはりあなたは、自分の好みにあった十字架を望んでいたようだ。

  根気強く、何ものにも挫けない忠実。それがあなたに欠けている。主に願いなさい。そして、あなたの側からは、それを得るためにできるだけのことをしなさい。これこそ、歩みを始めたばかりの実り多い道から離れないため、真に優れた方法だからである。

  もうそれ以上〈昇る〉ことができないと言うのか。まあ、無理もない。あのような罪を犯したのだから。

しかし、忍耐すれば、〈昇る〉こともできるだろう。あの霊的著作家の言葉を思い出しなさい。「あなたの哀れな心は、翼を泥まみれにしたままの小鳥である」。

翼にこびりついている泥、すなわち、悪い傾き、想像、気弱さを取り除くためには、小さな戦いをたゆみなく続ける努力と、天から降る暖かい日差しとが必要である。

そうすれば、あなたが自由になったことに気づくだろう。堅忍すれば、〈昇る〉ことができるのである。

  助けてくださった神に感謝し、勝利を喜びなさい。恵みに応えた後で心に感じるあなたの喜びは、なんと大きく、深いことか。

  あなたは筋を通して考える…すこぶる冷静に。その働きを止めて当然と思われる理由がなんとたくさんあることか。中には、決定的と思われる理由もある。

確かにあなたの考えは筋が通っていると思う。しかし、やはり、あなたは間違っている。

  あなたは私に、「高揚した気分が消えました」と書いてきた。あなたに高揚心があろうとなかろうと、神の愛ゆえに、つまり自己放棄という義務を意識して、働くべきなのだ。

  不撓不屈。そう、あなたは不撓不屈でなければならない。他人や自分の惨めさを見て、堅忍がぐらつくと言うのなら、あなたの理想は惨めなものであると考えざるを得ない。

今度こそ、きっぱりとした決断を下しなさい。

  冷淡になったと感じるとすぐ道を見失ってしまったと思うのなら、自らの道について分かっていないことになる。試練の時なのだ。だからこそ、感覚的な慰めが取り去られたのである。

  寂しさや孤立は、弛まず堅忍するための試練である。そして、聖なるミサ、祈り、秘跡、犠牲、さらに聖徒の交わりは、試練に打ち勝つための武器である。

  水車を回すロバの幸いな堅忍。いつも同じ歩み。いつも同じ回転。来る日も来る日も、まったく同じである。

これがなければ、果実は熟さず、園の瑞々しさもない。庭の草花も薫らないだろう。

この考えを、あなたの内的生活に当てはめてみなさい。

  堅忍の秘訣は何だろうか。愛である。神の愛に夢中になれば、あなたが〈神〉を見放すことはないだろう。

この章を他の言語で