教 会

   Et unam, sanctam, catholicam et apostolicam Ecclesiam!…、エト・ウナム・サンクタム・カトリカム・エト・アポストリカム・エクレジアムと祈るとき、あなたが一言一句を噛みしめ、味わいながら唱える気持ちがよく分かる。私は、一、聖、公、使徒継承の教会を信じる、と。

  心からの熱意を込めて、私の母にして聖なる教会を愛すると言えるのは、なんという喜びだろう。

その「私は仕える」という叫びは、財産と名誉と生命を投げ打っても、神の教会に心底から忠実に〈仕える〉という意志の現れである。

  カトリック的、使徒的、ローマ的。あなたがローマ的であってくれれば嬉しい。さらに、〈ペトロに会うために〉、ローマ〈巡礼〉を望んでほしい。

  ご自分の教会に秘跡を残してくださったキリスト、なんと素晴らしい御方だろう。秘跡は私たちの必要一つひとつに応じた薬である。

秘跡を尊びなさい。そして、私たちの主と教会に深く感謝しなさい。

  教会の聖なる典礼とその個々の儀式を尊び、そして敬いなさい。すべてを忠実に果たしなさい。分かるだろう。私たち哀れな人間の場合、いくら偉大で高貴な事柄であっても、五感を通って入ってこないと、理解できないのである。

  教会が歌うのは、言葉だけでは祈りとして足りないからだと言う。キリスト者、しかも選ばれたキリスト者であるあなたは、典礼にそって歌えるようになるべきである。

  心から迸り出るように歌う時だと、愛に燃える人が叫んでいた。主が、その人の職務を通してなさった感嘆すべき事柄を見たからである。

あなたに同じことを勧めたい。歌いなさい。神への感謝にあふれて夢中になった心が快い調べとなって流れ出るように。

  〈カトリック〉であるとは、誰にも負けないくらいに祖国を愛し、同時に、あらゆる国々の気高い望みを自分のものとすることである。どれほど多くのフランスの栄光が私の栄光であることか。同じく、ドイツ人、イタリア人、イギリス人、アメリカ人、そして、アジア人とアフリカ人が誇りとする多くのことは私の誇りでもある。

カトリックとは、広い心、開かれた精神のことである。

  司祭と修道者の身分をこの上なく敬わないとすれば、神の教会を愛しているかどうか、疑わしい。

  ベタニアの重い皮膚病を患うシモンの家で、主のみ頭に高価な香油を注いだあの婦人は、神礼拝に関する事柄においては、気前よく寛大になるべき義務を、私たちに思い出させてくれる。

神礼拝において、いくら贅沢や荘厳さと美しさの限りを尽くしたとしても、私にはわずかに思える。

聖器具や祭服、レタブロ(聖櫃のある祭壇背後の聖画像や彫刻)の豪華さを批判する人々に対して、ベタニアでのイエスの称賛の声が聞こえてくる。「わたしに良いことをしてくれたのだ」と。

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