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神の知恵は深淵である

 いま朗読した聖パウロの考えを思い起こしましょう。「ああ、神の富と知恵と知識のなんと深いことか。だれが、神の定めを究め尽くし、神の道を理解し尽くせよう。『いったいだれが主の心を知っていたであろうか。だれが主の相談相手であっただろうか。だれがまず主に与えて、その報いを受けるであろうか』。すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」。神の言葉に照らしてみると、主が定められたことを変えようとする人間の企てのなんとちっぽけなことでしょう。

 しかし、今どこにでも見られる人間の奇妙な能力について話さないわけにはいきません。神に反抗しても何もできなかったので、執拗に人間を攻撃しています。悪の恐ろしい道具となって、罪の機会を与えたり、勧誘したり、混乱の種蒔き人となり、内在的に悪い行いを善い行いとして実行させます。

 いつの時代にも無知はありました、しかし今日、信仰と道徳に関する粗野な無知は、時として、見たところ神学的で勿体ぶった名前のもとに姿を隠しています。そこで、いま朗読された福音書にあるように、使徒に対するキリストの命令は差し迫った現実性を帯びてくると言えるでしょう。キリストは「行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と仰せになりました。知らん顔をしたり、腕をこまぬいていたり、自分の殻に閉じ籠ったりすることはできません。神のために、平和と落ち着きと教えの偉大な戦いに出ていきましょう。

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