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子として教会を愛する

今日こそ声を上げ、聖ペトロのエルサレムの長老たちへの言葉を繰り返さなければなりません。「あなたがた家を建てる者に捨てられたが、隅の親石となった石です。ほかの誰によっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」。

 キリストがその上に教会を建てられた岩、すなわち初代教皇は、主に対する孝愛に動かされ、自分に委託された小さな群れに対する心遣いから、こう話しました。初代の信者は、ペトロとその他の使徒から愛情をもって深く教会を愛することを学んだのです。

 ところで、日々およそ孝愛の念を欠いた態度で、母である聖なる教会について話す人がいることはご存じでしょう。教父たちがキリストの教会に投げかける、燃えるような愛の言葉を読むと心が慰められます。聖アウグスチヌスの言葉を読んでみましょう。「私たちの主なる神を愛そう。その教会を愛そう、神に対しては父に対するように、そして教会に対しては母に対するように。『そう、私は今も偶像を拝み、霊に憑かれた人とまじない師に相談するが、神の教会を離れてはいない。私はカトリック信者だ』などとは言わないように。そのような人は、母なる教会に属しているとはいえ、父なる神を侮辱している。また、こう言う人もいる。『神がこんなことをお許しになりませんように。私は占い師に相談しないし、悪魔憑きにものを尋ねたりもしない。汚聖の占いをせず、悪魔を礼拝せず、石の神々に仕えることもない。しかし、ドナトの仲間だ』。神は母なる教会を侮辱した者に復讐される。それなら、父なる神を侮辱しないといっても、それが、一体なんの役に立つのか」。聖チプリアヌスは簡潔に宣言しています、「教会を母として持たない者は、神を父として持つことができない」。

 最近、大勢の人は母である聖なる教会について本当の教えを聞くための耳を持っていません。なかには、制度を作り直そうと望む者もいます。キリストの神秘体の中に社会で言う民主主義、はっきり言えば、すべての人はすべてにおいて平等という自分たちの望み通りの民主主義を取り入れようという愚かさを主張しているのです。この人々は、教会が神の制定により、教皇と司教、司祭、助祭、信徒、その他の信者で構成されていることが納得できないのです。これがキリストの望まれた制度であるにもかかわらず。

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