22

可視的(目に見える)教会と不可視的(目に見えない)教会を分けることのできないわけがもうお分かりでしょう。教会とは神秘体であると同時に法的な体なのです。「教会は体であるため、目に見えるものである」と、レオ十三世は教えておられます。教会の目に見える体、言い換えればこの地上の教会を構成する人間の振舞いには、惨めさや迷いや裏切りが現れます。しかし教会はそれだけで終わるものでも、そのような誤った行為と同一視されるものでもありません。それどころか、今この地上において、物惜しみしない態度や英雄的な信念、聖なる生活がたくさん見られます。ただ、彼らは騒ぎ立てず、信仰における兄弟やすべての人々に仕えるために喜んで骨折っているのです。

 次のことも考えてください。仮に、義務を果たさない人やすぐに屈伏する人の方が勇敢な人々よりもずっと多いとしても、感覚で捉えることはできないけれど明白で否定しがたいこの神秘的な現実、すなわちキリストの体、私たちの主ご自身、聖霊の働き、御父の慈しみ深い現存が依然として残っています。

 従って、教会は人間的であると同時に神的なものです。「教会はその起源から見て神的なもの、その目的と目的に向かうための手段から見て超自然的なものである。しかし、人間によって構成されているので人間の共同体である」。この世界に生き、活動するけれども、その目的と力は、この世にではなく、天にあるのです。

 俗に言う、真にキリストによって設立されたと称されるカリスマ(賜物)的教会と、人間の業と歴史的偶然の結果と称される法的あるいは制度的な教会とに分けて考えるのは大変な間違いです。教会は一つだけです。キリストは唯一の教会を建てられました。すなわち見えると同時に見えない教会、位階的に組織された一つの体としての教会、神法を基礎構造に持ち、生気を与え、支え、生かす力を持つ秘められた自然の生命を有する教会です。

 また次のことを思い出さないわけにはいきません。主は「分離した数多くの集団から成り立つ教会を計画し、創立されたのではない。類似してはいるものの、唯一で不可分という一致の絆には結ばれていない教会を建てたのではない。…イエス・キリストがこの神秘的な建物について話したとき、一つの教会だけを自分の教会と呼び、『わたしはわたしの教会を建てよう』と言った。従って、この教会以外の教会はイエス・キリストによって建てられたものではないことになる。他の教会をキリストの真の教会であると考えることはできない」のです。

 繰り返します。信仰が必要です。今日祝う至聖三位一体の神に願って、私たちの信仰を増していただきましょう。何が起ころうとも、三重に聖なる神はその花嫁をお見捨てにはなりません。

この点を別の言語で