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チェザルのものはチェザルヘ

福音書の場面をよく注意して読み、私たちの行いの指針となるべき徳に関する教えを活用しましょう。偽善と追従にみちた前口上を終えたのち、ファリサイ派とヘロデ派の人たちは問題を提起します。「ところで、どうお思いでしょうか、お教えください。皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」17。「彼らの悪知恵に注目しなさい」と、聖ヨハネ・クリゾストムは言っています。「なぜなら彼らは、どちらが良いのか、どちらが適当なのか、どちらが正当なのかをお教えくださいと言うのではなく、どう思うかと尋ねているからだ。主を裏切り者に仕立て、政治権力者たちの敵にしようという妄執にとらわれていたのである」18。しかし、「イエスは彼らの悪意に気づいて言われた。『偽善者たち、なぜ、わたしを試そうとするのか。税金に納めるお金を見せなさい』。彼らがデナリオン銀貨を持って来ると、イエスは、『これは、だれの肖像と銘か』と言われた。彼らは、『皇帝のものです』」言った。すると、イエスは言われた。『では、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい』」19。

 お分かりのように、古くからこのようなジレンマに陥らせるような論法が使われていることは、主のお答えが疑いようもなく明々白々であると同じくらい明らかです。神に仕えることと人々に仕えることとの間に対立はありえません。市民としての権利義務の履行と宗教上の権利義務の履行との間にも、また、社会の建設・改善の義務とこの世を天の祖国へ通じる旅路と考えることとの間にも、対立はありえないのです。

 この点にも、私が飽くことなく説き続けている<生活の一致>の大切さがあらわれています。<生活の一致>こそ、職業と家庭、社会関係という、日常の環境の直中で聖人になるために努力する人にとって、欠かすことのできない条件です。「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである」20。イエスは<生活の一致>を強調しておられます。神の召し出しに無条件で応え、神のみを選ぶなら、信者はすべてを神に差し向けると共に、正義の点から見て当然人々の権利に属するものを、人々に与えることができるようになるはずです。

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