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偽りの教師たちは恐れから真理を極めようとしない。時には、苦痛を伴う治療を施す必要―義務―があると考えるだけで怖くなってしまう。このような態度は賢明とは言えません。敬虔でもなく思慮分別もない、かえって無責任、無分別、愚かさのあらわれです。大事に至ってから、すでに手遅れではあるがやっと腰をあげ、慌てふためいて悪をくい止めようとする。これも偽りの教師の態度です。賢明であれば、濁りのない目でものを見、経験に照らして充分考えた末の勧めを、必要な時にはっきりと告げるべきであることを、忘れてしまっているのです。

 聖マタイの話の続きを読むと、ファリサイ派の人は、「あなたが真実な方で、真理に基づいて神の道を教え(…)ることを知っています」9と言っている。皮肉たっぷりのこの言葉には開いた口がふさがりません。主イエスの言葉をわざと曲げて解釈しよう、不注意な言葉尻をとらえて非難してやろうという意図を、彼らはおくびにも出さない。解決不可能な問題であることを自ら素直に述べるかわりに、正しい心、信頼心をもつ人が口にすべき賛辞を弄して、主を困らせようというのです。彼らの言葉に注目して、疑い深くなるのではなく賢明になるために、裏の意味は何かを学びとりたいと思います。見せかけのマヤカシを受け入れるような愚を犯してはなりません。「あなたは人の区別をされない。すべての人のために来られた。真理を説き、善を教える」10と彼らは言う。言葉自体は、真実を言い表し、真実に合った態度が見られるが、この場合は上辺だけであることに注意しなければなりません。

 重ねて申します、賢明に振舞ってください。しかし、疑い深くはならないようにしましょう。あらゆる人に全き信頼を寄せる、気高い心の持ち主であってください。私は意見の一致した百人の公証人の署名よりも、一人のキリスト者、つまり誠実な人の言葉を無条件で信じますし、またそちらの方に重きをおきます。むろん、このようにしていれば時には騙されることがあるでしょう。しかし、人として、神の子として、当然受けるべき信用を他人から奪うよりは、自らの信頼心を悪用される危険に身をさらす方がよいのではないでしょうか。このような生き方を続けた結果、裏切られたことは一度もなかったと保証します。

聖書への参照
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