18

降誕祭が来ると、幼子イエスのご像が見たくなります。ご像は、主が無に等しいものとなられたことを示しており、神が私たちをお呼びになっていること、全能の御方が無力な者となり、人の助けを必要とする状態をお望みになったことを思い起こさせます。ベトレヘムの飼い葉桶から、キリストはあなたにも私にも、私たちが必要だと言っておられます。ほんとうにキリスト信者らしい生活、自己奉献・仕事・喜びの生活を送るよう急かせておられるのです。

 心の底からイエスに倣わないなら、主のように謙遜でなければ、真の朗らかさを得ることは到底できないでしょう。神の偉大さがどこに隠れているか気が付きましたかと、もう一度お尋ねします。岩穴の中で布に包まれて、飼い葉桶の中においでになるのです。謙遜に振る舞い、自分のことだけを考えるのをやめて、人を助ける責任を感じるときのみ、私たちの生活は贖いに役立つものとなります。

 善良な人たちでさえ、個人的な悩みを作りだし、それを重大問題に発展させることがよくありますが、大抵の場合、客観的な基礎が欠けているものです。問題の原因は自己をよく知らないことにあり、自己を知らないがゆえに傲慢になっているのです。皆の中心になりたいとか、注目や称賛を浴びたいとか、面子がつぶれないように図るとか、善のために尽くしても知られずにいるのを好まないとか、自己の安全を追求するとか、すべて傲慢の証拠です。こうして、この上ない平和を味わい、大きな喜びに浸ることができるはずの多くの人々が、傲慢と自負心のために、不幸で実りのない人間に変わってしまうのです。

 キリストは謙遜な方でした18。ご生涯を通して、ご自分のためには何の特権も特別なことも、お求めにはなりませんでした。普通の人間と全く変わりなく、御母の胎内に九ヶ月間とどまっておられました。人類が是非とも主を必要としていることをあまりにもよくご存じでした。それゆえ、人類を救うために地上に来ることを切望しておられましたが、時間を縮めたりなさらなかったのです。人間がこの世に生まれる時のように、来るべき時においでになりました。ご懐妊からご降誕までの間、聖ヨセフと聖エリザベトを除いて誰も、神が人々の間にお住みになるという驚異的な出来事に気がつかないのです。

 ご降誕も素朴そのものと言える雰囲気に包まれています。主の来臨に壮麗さはなく人知れないものでした。地上ではマリアとヨセフのみが神の冒険 ― ご計画 ― にあずかるのです。その後で、天使に知らされた羊飼いたち、ずっと後れて東方の賢人たちも訪れます。天と地、神と人とを結びつける重大な出来事は、このようにして起こったのです。

 この情景に慣れてしまうような固い心をどうして持つことができるでしょうか。神が遜ってくださったのは、人々を主に近づけるため、愛に愛をもって応えることができるため、神の力の現れを見るだけでなく、素晴らしい謙遜をみて私たちの自由をお捧げするためなのです。

 神である幼子の偉大さとは、その御父が天地を創造なさった神であるのに、ご自分は「旅館に部屋がなかった」19ので、飼い葉桶に横たわっておられることです。全被造物の主のために地上には他に場所がなかったのです。

この点を別の言語で