20

もう何度も考えていただいたことですが、イエスの単純素朴なご生活を今一度振り返ってみましょう。主が隠れてお過ごしになった歳月は、無意味なものではなく、その後に来る公生活の単なる準備期間でもありませんでした。一九二八年以来、私は主のお望みがはっきりとわかるようになりました。キリスト信者は主のご生涯を模範として、主に倣わなければならないということです。主のご生涯の中でも特に、隠れたご生活、人々の中にあって同じようにお過ごしになった仕事のご生活を倣ねるべきだと理解したのです。何年もの黙々とした地味な生活に大勢の人々が道を見つけるように主はお望みなのです。神のみ旨に従うとはそれゆえ、自己の殻から脱けだすことです。しかし、それは、身分、職業、社会的環境を同じくする人々の生活から離れることを意味するのではありません。

 市民としての生活を続けながら自らを聖化し、隣人と、情熱・夢・努力を分かち合う神の子たちの大群衆を夢みてきましたが、この夢はすでに実現しました。社会の直中にあって、神が皆さんのことをお忘れになったからでも、お呼びにならなかったからでもないのです。この神からの真理を、声を大にして叫びたいのです。地上で携わっている活動や抱いている抱負をそのまま続けなさいと主は呼びかけていらっしゃいます。皆さんの職業、能力など、いわゆる人間的召し出しは神のご計画と無関係ではないどころか、主はそれらを御父に喜んでいただく捧げ物として聖化してくださったのです。

この点を別の言語で