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キリストの愛を伝える

 しかし、神は、心の代わりに純粋な意志をやろうとは言っておられないことに注目してください。心をくださいます。キリストになさったように心をくださるのです。私は、神を愛する心と人々を愛する心という二つの異なる心を持っているわけではありません。両親や友人を愛する同じ心で、キリストと御父、聖霊、聖母マリアを愛するのです。何度も申し上げたいと思います。非常に人間味に溢れた人にならなければならない、さもなければ、神的になることはできない、と。

 人間愛、この世での愛が本当の愛であれば、神の愛を〈味わう〉のに役立ちます。真の愛をもつなら、「神がすべてにおいてすべて」29となる天国の「神を所有するという愛」と「人間相互の愛」を垣間見ることができるのです。このようにして、神の愛がどのようなものであるかを理解し始めると、より憐れみ深く寛大、より献身的な態度を示すよう努力することでしょう。

 受けたものを与え、学んだことを教えなければなりません。思い上がらず、謙遜な心で、キリストの愛を人々にも伝えなければならないのです。社会において、仕事や職業にいそしむにあたり、仕事や職業を奉仕の営みに変えることができます。またそうする義務があるのです。訓練と技術の進歩を取り入れて完成させた仕事は、それ自体が一つの進歩であり、他の仕事の進歩にも役立つことでしょうが、それだけではなく、そのような仕事は重要な役割を果たし、人類全体に大きく貢献することができるのです。ただし、利己主義に陥らない寛大な心と、自己の利益ではなく、公益を求める心、つまり、キリスト教的な考え方に基づいて働かなければなりません。

 人間関係の織りなす日常生活において、仕事を続けるにあたり、キリストの愛と、キリストの愛の具体的な表れである理解と愛情、平和を示さなければなりません。キリストがあまねくパレスチナ地方を巡って「善を行われた」30ように、私たちも、家庭や社会、日常の仕事や勉学、休息など人間の辿る道において、〈平和の種蒔き〉作業を繰り広げていかなければなりません。それができる時こそ心に神の国が訪れたと言えるのです。「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです」31と聖ヨハネが書く通りです。

 しかし、イエスの聖心という学校で学ばない限り、誰一人として述べたような愛を実行することはできません。キリストの聖心を熟視し黙想することによってこそ、私たちの心から憎悪と無関心が姿を消し、他人の苦しみ、悲しみを見て、信者に相応しい態度をとることができるからです。

 聖ルカが語る場面を思い浮かべてください。キリストはナインという町の近くをお通りになり32、偶然、行き交う人々の悲嘆をご覧になります。素通りすることも、あるいは、呼びかけや願い出を待つこともできました。しかし、そのまま行ってしまうことも、待つこともなさいません。ただ一つ残っていたもの、一人息子を失った寡婦の悲しみに心動かされ、自ら近づいていかれたのです。

 イエスは哀れにお思いになった、と福音史家が書き記しています。ラザロの死のときと同じように、傍目にもわかるほど心を動かされたのでしょう。イエスは愛ゆえの苦しみに対して無関心でいることはできなかったし、今も無関心ではありません。両親から子どもを引き離してお喜びになることもありません。イエスは、命を与えるため、互いに愛し合う人々が一緒にいることができるように死を克服なさったのです。しかしその前に、そして同時に、正真正銘のキリスト的な生き方をするには、すべてに優越する神の愛に生活を支配させなければならないとお教えになりました。

 キリストはご自分を取り巻く群衆が奇跡に驚くだろうこと、また町中にその出来事を言い触らしに行くだろうことをご存じです。しかし、主の身ぶりにわざとらしさはありません。ただあの婦人の苦しみに心を動かされ、慰めを与えずにはおれないのです。事実、彼女の方に近づき、「もう泣かなくともよい」33と仰せになります。それは、「涙にくれるお前は見たくない。私は喜びと平和をこの世にもたらすために来たのだから」と悟らせようとなさるかのようです。その後で、神としてのキリストの力が発揮され、奇跡が起こります。しかし、奇跡より先に、キリストの聖心は憐れみに震え、人としてキリストの有する聖心の優しさがはっきりと表れたのでした。

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