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キリストの平和

 しかし、さらにもう一つのことを考えなければなりません。善を行うためにひるまずに戦う必要があるということです。それと言うのも、正義を実行しようと真剣な決心を立てることは難しいとわかっているだけでなく、社会生活が憎悪や無関心によってではなく、愛に鼓舞されたものとなるにはまだまだ実行すべきことが残っているからなのです。たとえ富が正当に分配され、社会の構成が調和のとれたものになっても、病の苦しみ、無理解や孤独の苦しみ、愛する人の死が与える苦痛、自己の限界を体験したときの苦しみが消えてなくならないことも明白な事実であるからです。

 このような苦しみを経験する信者に与えられる、本当の答え・決定的な答えはただ一つしかありません。すなわち、苦しみ死去される神、すべての人々を愛するがゆえに槍に貫かれた心をお与えになる神、十字架上のキリストなのです。主は不当な行いを憎み、不正義を働く人々を罰せられます。それでも、一人ひとりの自由を尊重なさいますから、不正義を働く人がいることは許容されるのです。主なる神はわざと人間に苦しみを与えたりなさいませんが、苦しみは原罪を犯した後の〈人間の条件〉ですから、苦しみを黙認されます。しかし、それにも拘わらず、人々への愛に溢れる聖心は自ら進んで十字架と共に、人間の苦しみと悲しみと苦悩、正義に飢え渇く心を背負ってくださったのです。

 苦しみについてのキリストの教えは安っぽい慰めの一覧表ではありません。第一に、それは、人間生活と切っても切れない苦しみを受け入れよ、説く教えです。私は、十字架のあるところ、キリストあり、愛あり、と説き続けてきましたし、そのように生きる努力を続けてきました。そして、一生に何度も苦しみに襲われ、一度ならず泣きたくなったこともあると隠さずに申し上げます。不正義と悪を見て嫌悪の情が昂ずるのをどうしようもなかったこともあります。そして、それについて何もできない自分に気づき、なんとかしたいと望みつつも、努力の甲斐なくそのような不正な状態を改善することができないがために、不快感を味わったこともあります。

 苦しみについてお話しするとき、ただ抽象的な苦しみを考えているのではありません。いつか苦しみに襲われて心の動揺を感じるなら、そのときの唯一の手立てはキリストを見ることであると保証しても、私は他人の経験について話しているのではありません。カルワリオの場面に目をやると、十字架に一致して生きよ、そうすれば悲しみは聖化されるはずである、と教えています。

 キリスト教的に受け止めるなら、私たちが受ける苦難は償いとなり、人々を愛するがゆえにあらゆる種類の苦しみを体験されたキリストの運命と生涯にあずかることになるのです。キリストは生まれ、哀れな死を遂げました。非難され、侮りと中傷を受け、最後には不当にも死罪をお受けになりました。弟子たちに裏切られ、見捨てられ、孤独にさいなまれ、刑罰と死の悲痛を体験されたのです。今も、同じキリストが、その仲間、地上に住むすべての民、ご自分がその頭であり長子、救い主である民のために苦しみ続けておられます。

 苦しみは神の計画のなかに入っています。理解し難いことではありますが、それが現実なのです。人としてのイエス・キリストにとっても、苦しみに耐えるのは並大抵のことではありませんでした。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」36。御父のみ旨と責苦との板挾みになりつつも、イエスは静かに死に赴き、十字架の刑の執行者をお赦しになるのです。

 苦しみを超自然的に受け入れることこそ、大きな勝利を意味します。イエスは十字架上で死去することにより、死を克服なさいました。神は死から命を引き出されるのです。神の子はたとえ悲劇的な不運に遭遇しても、諦めるのではなく、勝利の満足感を前もって味わう態度をとらなければなりません。勝利をもたらすキリストの愛の名において、信者はこの世のありとあらゆる道に飛び出し、言葉と行いをもって、〈平和と喜びの種蒔き人〉にならなければなりません。悪と不正義と罪に対抗し、平和のための戦いを続け、人間の現在の状態が最終的なものではなく、やがてキリストの聖心に現れた神の愛が、栄光に満ちた霊的な勝利を人々にもたらせることを宣言しなければならないのです。

聖書への参照
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