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キリスト・イエスの聖心を探る

 悲しみのもとであり、私を行動に駆り立てる動機となっていることを打ち明けたいと思います。それは、キリストを知らない人々、天国のこの上ない幸せにまだ気づいていない人々のことなのです。およそ喜びとは言いがたい喜びをでたらめに追い求め、まことの幸せから遠ざかって行く人々です。パウロがトロアデで幻視を見た時の心が痛いほどに感じられます。「一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」9。

 私たちの周囲の出来事を通して神が私たちをお呼びになり、イエスの到来という福音を宣べ伝えるよう促しておいでになるのです。ところが、キリスト信者は時として、召し出しの意味を十分に理解せず、浮薄な態度に終始し、口論や諍いにかまけて時間を浪費してしまいます。あるいは、もっとひどい態度も見受けられます。他人の信仰の表し方や信心の実行をみて、偽善的な批判を投げかけるのです。自ら努力して、正しいと思う信心の実行法を見つけようともせず、ただ破壊したり批判したりすることに精を出す人たちです。キリスト信者の生活にも欠点があり、それが目につくこともあるでしょう。しかし、私たち自身の有する弱さは、問題ではないのです。たった一つ大切なのは、イエスご自身です。キリストについてこそ語るべきで、私たちについて話しても役に立ちません。

 以上のようなことを考えたのは、イエスの聖心への信心が危機に瀕していると勝手に決めてかかっている人々がいるからです。そのような危機は考えられません。本当の信心は、今までのように今日でも生気に溢れ、人間的であると同時に超自然の意味に満ちています。本当の信心は今まで通り、回心と依託を生みます。また神のみ旨を果たす力、救いの秘義を愛の眼差しで洞察する力を与えてくれるのです。

 それに引き替え、教理的な基礎を欠き、敬虔主義に浸された、無益で感傷的な態度となると話は全く違ってきます。常識的で超自然的感覚を持つキリスト信者の信仰心を呼び起こせない、取り澄ましたイエスの聖心のご像など、私も好きにはなれません。しかし、いずれ自然に消滅する誤った信心を楯に、聖心に対する信心が教理的にも神学的にも間違いであるという結論を出すとすれば、まともな論理だとは言いかねるのです。

 危機があるとすれば、それは人間の心の中の危機のこと、近視眼的な見方・利己主義・狭量な視野を有するゆえに、主キリストの計り知れない愛を垣間見ることさえできない人間の心の危機のことだと言えます。

 イエスの聖心の祝日が制定されて以来、聖なる教会の典礼は聖パウロの教えを朗読に取り入れ、本当の信心の糧を与えてくれています。その朗読には、イエスの聖心の信心に始まる、知識と愛、祈りと生命という観想生活の全プログラムが提示されています。使徒の口を借りて、神ご自身が、この道を歩むようにと招いてくださるのです。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」10。

 神の充満はキリストにおいて、キリストの愛において、キリストの聖心において示され、そして与えられます。いうのも、キリストの聖心とは、「満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿って」11いるからです。それゆえ、受肉と救いの業、聖霊降臨によって再び神の愛を世に与えるという神の計画を忘れると、主の聖心の優しさを理解することはできないでしょう。

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