キリストの聖心・信者の平和

1966年6月17日 イエスの聖心の祝日


父である神は尽きることのない愛1と慈悲と愛情の宝を、御子の聖心を通して私たちにお与えになりました。神が私たちの祈りを待って聞き入れるだけでなく、願う前に願いをかなえてくださること、つまり、神が私たちを愛してくださっていることを確かめたいと思うなら、聖パウロの教えを知るだけで十分でしょう。「その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」2。

 恩恵は人の心を新たにし、罪深く反抗的であった者を善良で忠義な僕3に変えます。そして、その恩恵の源とは、言葉だけでなく、行いをもってお示しになった神の愛なのです。神はその愛ゆえに、聖三位一体の第二のペルソナである〈みことば〉、父である神の御子を、罪以外はすべて、人間の条件を備えた肉体を有するものとなさいました。それゆえ、神の〈みことば〉は、神の愛から出る〈みことば〉4であると言えるのです。

 受肉(託身)に始まり、救い主としてのこの世でのご生活、イエス・キリストの十字架におけるこの上ない犠牲に至るまで、神の愛の顕れです。ところが、十字架上では、その神の愛が新たなしるしをもって示されたのです。「兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。すると、すぐ血と水とが流れ出た」5。イエスの水と血、それは愛ゆえにすべてを成し遂げる6まで、最後の最後まで身を挺した主の献身を物語っています。

 祝日を迎えるにあたり、信仰の中心的な秘義〈神秘〉を改めて考えてみると、御子をお与えになった父である神の愛、また、ゴルゴタを目指して心静かに歩む御子の愛が、いかにして人間に身近な振舞いとなって表れているかを知り、ただただ驚くばかりです。神は、権力者や支配者の態度をもってではなく、「僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ」7、接してくださいます。教えを説き続ける間、時には、人間の邪悪に満ちた態度に心を痛め、不愉快を味わわれたこともありますが、イエスは決して人々に背を向けたり、尊大な態度をとったりはなさいませんでした。それどころか少し気をつけて見ると、イエスの立腹や怒りは愛から出ていることがすぐにわかります。私たちを不忠実と罪の状態から救いだすための呼びかけであることが理解できるのです。

「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼がその道から立ち帰ることによって、生きることを喜ばないだろうか」8。キリストの一生はこの言葉に言い尽くされています。また、私たちと同じ心、生身の心をもってお現れになった理由もこの言葉よって理解できるのです。まさに、キリストの聖心は確かな愛であり、筆舌に尽くしがたい神愛の秘義〈神秘〉の証しなのです。

キリスト・イエスの聖心を探る

 悲しみのもとであり、私を行動に駆り立てる動機となっていることを打ち明けたいと思います。それは、キリストを知らない人々、天国のこの上ない幸せにまだ気づいていない人々のことなのです。およそ喜びとは言いがたい喜びをでたらめに追い求め、まことの幸せから遠ざかって行く人々です。パウロがトロアデで幻視を見た時の心が痛いほどに感じられます。「一人のマケドニア人が立って、『マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください』と言ってパウロに願った。パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである」9。

 私たちの周囲の出来事を通して神が私たちをお呼びになり、イエスの到来という福音を宣べ伝えるよう促しておいでになるのです。ところが、キリスト信者は時として、召し出しの意味を十分に理解せず、浮薄な態度に終始し、口論や諍いにかまけて時間を浪費してしまいます。あるいは、もっとひどい態度も見受けられます。他人の信仰の表し方や信心の実行をみて、偽善的な批判を投げかけるのです。自ら努力して、正しいと思う信心の実行法を見つけようともせず、ただ破壊したり批判したりすることに精を出す人たちです。キリスト信者の生活にも欠点があり、それが目につくこともあるでしょう。しかし、私たち自身の有する弱さは、問題ではないのです。たった一つ大切なのは、イエスご自身です。キリストについてこそ語るべきで、私たちについて話しても役に立ちません。

 以上のようなことを考えたのは、イエスの聖心への信心が危機に瀕していると勝手に決めてかかっている人々がいるからです。そのような危機は考えられません。本当の信心は、今までのように今日でも生気に溢れ、人間的であると同時に超自然の意味に満ちています。本当の信心は今まで通り、回心と依託を生みます。また神のみ旨を果たす力、救いの秘義を愛の眼差しで洞察する力を与えてくれるのです。

 それに引き替え、教理的な基礎を欠き、敬虔主義に浸された、無益で感傷的な態度となると話は全く違ってきます。常識的で超自然的感覚を持つキリスト信者の信仰心を呼び起こせない、取り澄ましたイエスの聖心のご像など、私も好きにはなれません。しかし、いずれ自然に消滅する誤った信心を楯に、聖心に対する信心が教理的にも神学的にも間違いであるという結論を出すとすれば、まともな論理だとは言いかねるのです。

 危機があるとすれば、それは人間の心の中の危機のこと、近視眼的な見方・利己主義・狭量な視野を有するゆえに、主キリストの計り知れない愛を垣間見ることさえできない人間の心の危機のことだと言えます。

 イエスの聖心の祝日が制定されて以来、聖なる教会の典礼は聖パウロの教えを朗読に取り入れ、本当の信心の糧を与えてくれています。その朗読には、イエスの聖心の信心に始まる、知識と愛、祈りと生命という観想生活の全プログラムが提示されています。使徒の口を借りて、神ご自身が、この道を歩むようにと招いてくださるのです。「信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。また、あなたがたがすべての聖なる者たちと共に、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解し、人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように」10。

 神の充満はキリストにおいて、キリストの愛において、キリストの聖心において示され、そして与えられます。いうのも、キリストの聖心とは、「満ちあふれる神性が、余すところなく、見える形をとって宿って」11いるからです。それゆえ、受肉と救いの業、聖霊降臨によって再び神の愛を世に与えるという神の計画を忘れると、主の聖心の優しさを理解することはできないでしょう。

キリストの聖心への正しい信心

 イエスの聖心という言葉がもつ豊かな意味を心に留めておきましょう。人間の心について話すとき、気持ちを指すだけではなく、望み、愛し、人と接する本人の全人格を考えているのです。人間に神的な事柄を理解させるために聖書が用いる表現法、つまり人間的な表現法によると、心とは考えや言葉や行いの縮図であり根源であると言われます。それゆえ人の値打ちは、その人の心の豊かさによって決まるとも言いかえることができます。

 喜びは心で感じるものです、「わたしの心は救いに喜び躍り」12と。そして痛悔も「心は胸の中で蝋のように溶ける」13、神の賛美についても「心に湧き出る美しい言葉、わたしの作る詩を、王の前で歌おう」14。主に耳を傾ける決心も「わたしは心を確かにします」15と。また、愛ゆえに見張りを続けるのも心です。「眠っていても、わたしの心は目覚めていました」16。さらに、疑いや恐れも心から出ます。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしを信じなさい」17。

 心は感じるのみでなく、知ること、そして理解することもできます。神の法は心に受け18、心に刻み込まれる19のです。聖書はまた、「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」20と付け加えています。主は律法学士たちを、「なぜ、心の中で悪いことを考えているのか」21と非難なさいました。そして、人間が犯しうる罪を要約して、次のように仰せになったのです。「悪意、殺意、姦淫、みだらな行い、盗み、偽証、悪口などは、心から出て来るからである」22と。

 聖書が心という言葉を使うときは、感動や涙をもたらす一時的な感情のことを言っているのではありません。聖書が心と言うとき、その心とは、イエス・キリストご自身がお示しになったように、善であると考えるものに霊魂と体をもって向かっていく、人格そのものに言及しているのです。「あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ」23。

 それゆえ今、イエスの聖心について考えるということは、神の愛が確かなものであること、また神は本当にご自分をお与えになったことを明らかにすることです。聖心への信心を勧めるとは、自己の全存在をあげて、つまり、魂と感情、思いと言葉と行い、仕事と喜びを伴う全人格を込めて、〈イエス全体〉に向かえと勧めることなのです。

 イエスの聖心への正しい信心があれば、神を知り、自分自身を知ること、そして、私たちを元気づけ、教え、導くイエスを眺めて、イエスの元へと駆け寄る態度に現れてくるはずです。完全な人間ではないので仕方ないとは言え、託身(受肉)された神に気づかない人がいるとすれば、そのような人が持つ浅薄な態度こそ聖心への信心と相容れないと言えるでしょう。

十字架上で、人々を愛するがゆえに刺し貫かれた聖心をもつイエスこそ、物事や人間の価値を雄弁に物語っており、もは言葉を必要としません。人間、そしてその命と幸せには、神の御子が人々を救い、清め、高めるため自らをお与えになるほどの値打ちがあるのです。傷ついた聖心を眺めて、ある祈りの人が言いました。「これほど傷ついた聖心を誰が愛さずにいられようか。愛に愛をもって応えない人があるだろうか。これほど清らかな聖心を抱擁しない者があるだろうか。生身のわたしたちは、愛には愛を報いる傷ついた御方を、不信仰者たちが御手と御足、脇腹とみ心に手を差し入れたその方を抱きしめるのである。我々の心を愛の絆で結び、槍で傷つけてくださるようお願いしよう。我々の心はいまだに頑なで強情であるから」24。

 愛する人は、昔からこのような考えや愛情をイエスに捧げ、イエスとこのように語り合ってきたのです。ところで、このような話を理解し、人の心とキリストの聖心、神の愛を本当に知ろうと望めば、信仰と謙遜が要求されます。信仰篤く謙遜な聖アウグスチヌスは、万人周知の有名な言葉を残してくれました。「主よ、御身は私たちを、御身のものとなるようにお創りになりました。私たちの心は御身に憩うまで安らぐことがありません」25。

 謙遜になる努力を怠ると人は神を自分のものにしようとします。しかし、キリストが、「これは、あなたがたのためのわたしの体である」26と言って神を所有することができるようにしてくださったような神的な仕方によってではなく、逆に、神の偉大さを自己の能力の限界にまで引き下げようとするのです。このような理屈、冷たく盲目的な考え方、それは信仰から生まれる知性でも、事物を玩味して愛することのできる正しい知性でもありません。かえって、人間の能力を超えた真理を卑小にし、人間の心を覆ってしまい、聖霊の霊感に対して無感覚にさせる考え方、いつもの惨めな経験に合わせてすべてを判断しようという無茶な考え方なのです。神の慈しみ深い力によって、哀れな人間が持つ貧困を打ち破ってもらわない限り、人間の貧弱な知性は何の役にも立ちません。「新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える」27。そして、聖霊の約束を前にして、魂は光を取り戻し喜びに溢れます。

「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」28と、神は預言者エレミヤの口を借りて告げておられます。典礼においてこの言葉はイエスに当てはめられます。神がこのように愛してくださっていることは、イエスにおいて、はっきりと示されたからです。主は、人間の不甲斐なさや卑小さを処罰するため、あるいは問責するためにおいでになったのではなく、私たちを救うため、赦すため、平和と喜びを与えるためにおいでになったのです。主とその子どもである私たちとの間のこのように素晴らしい関係を認めることができれば、当然私たちの心も変わり、彫りと深さと光に溢れた全く新たな展望が目前に展開することでしよう。

キリストの愛を伝える

 しかし、神は、心の代わりに純粋な意志をやろうとは言っておられないことに注目してください。心をくださいます。キリストになさったように心をくださるのです。私は、神を愛する心と人々を愛する心という二つの異なる心を持っているわけではありません。両親や友人を愛する同じ心で、キリストと御父、聖霊、聖母マリアを愛するのです。何度も申し上げたいと思います。非常に人間味に溢れた人にならなければならない、さもなければ、神的になることはできない、と。

 人間愛、この世での愛が本当の愛であれば、神の愛を〈味わう〉のに役立ちます。真の愛をもつなら、「神がすべてにおいてすべて」29となる天国の「神を所有するという愛」と「人間相互の愛」を垣間見ることができるのです。このようにして、神の愛がどのようなものであるかを理解し始めると、より憐れみ深く寛大、より献身的な態度を示すよう努力することでしょう。

 受けたものを与え、学んだことを教えなければなりません。思い上がらず、謙遜な心で、キリストの愛を人々にも伝えなければならないのです。社会において、仕事や職業にいそしむにあたり、仕事や職業を奉仕の営みに変えることができます。またそうする義務があるのです。訓練と技術の進歩を取り入れて完成させた仕事は、それ自体が一つの進歩であり、他の仕事の進歩にも役立つことでしょうが、それだけではなく、そのような仕事は重要な役割を果たし、人類全体に大きく貢献することができるのです。ただし、利己主義に陥らない寛大な心と、自己の利益ではなく、公益を求める心、つまり、キリスト教的な考え方に基づいて働かなければなりません。

 人間関係の織りなす日常生活において、仕事を続けるにあたり、キリストの愛と、キリストの愛の具体的な表れである理解と愛情、平和を示さなければなりません。キリストがあまねくパレスチナ地方を巡って「善を行われた」30ように、私たちも、家庭や社会、日常の仕事や勉学、休息など人間の辿る道において、〈平和の種蒔き〉作業を繰り広げていかなければなりません。それができる時こそ心に神の国が訪れたと言えるのです。「わたしたちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。兄弟を愛しているからです。愛することのない者は、死にとどまったままです」31と聖ヨハネが書く通りです。

 しかし、イエスの聖心という学校で学ばない限り、誰一人として述べたような愛を実行することはできません。キリストの聖心を熟視し黙想することによってこそ、私たちの心から憎悪と無関心が姿を消し、他人の苦しみ、悲しみを見て、信者に相応しい態度をとることができるからです。

 聖ルカが語る場面を思い浮かべてください。キリストはナインという町の近くをお通りになり32、偶然、行き交う人々の悲嘆をご覧になります。素通りすることも、あるいは、呼びかけや願い出を待つこともできました。しかし、そのまま行ってしまうことも、待つこともなさいません。ただ一つ残っていたもの、一人息子を失った寡婦の悲しみに心動かされ、自ら近づいていかれたのです。

 イエスは哀れにお思いになった、と福音史家が書き記しています。ラザロの死のときと同じように、傍目にもわかるほど心を動かされたのでしょう。イエスは愛ゆえの苦しみに対して無関心でいることはできなかったし、今も無関心ではありません。両親から子どもを引き離してお喜びになることもありません。イエスは、命を与えるため、互いに愛し合う人々が一緒にいることができるように死を克服なさったのです。しかしその前に、そして同時に、正真正銘のキリスト的な生き方をするには、すべてに優越する神の愛に生活を支配させなければならないとお教えになりました。

 キリストはご自分を取り巻く群衆が奇跡に驚くだろうこと、また町中にその出来事を言い触らしに行くだろうことをご存じです。しかし、主の身ぶりにわざとらしさはありません。ただあの婦人の苦しみに心を動かされ、慰めを与えずにはおれないのです。事実、彼女の方に近づき、「もう泣かなくともよい」33と仰せになります。それは、「涙にくれるお前は見たくない。私は喜びと平和をこの世にもたらすために来たのだから」と悟らせようとなさるかのようです。その後で、神としてのキリストの力が発揮され、奇跡が起こります。しかし、奇跡より先に、キリストの聖心は憐れみに震え、人としてキリストの有する聖心の優しさがはっきりと表れたのでした。

イエスから学ばなければ、本当に愛することは決してできないでしょう。ある人たちが考えるように、神の愛に相応しい清い心を保つとは、人間的な愛情に係わったり染まったりしないことだとすれば、他人の苦しみに対して冷淡になって当然と言えるでしょう。潤いもなく心のこもらない形だけの愛となり、情愛と人間味ある温かさ、つまりキリストの本当の愛徳は実行できないことでしょう。こう申し上げても、人々の心を迷わせ、神から離れさせ、罪の機会にそして滅びに導くような、誤った考え方を認めるつもりは毛頭ありません。

 この世においては避けることができない苦しみ、時にはひどい苦悩から人々を救うための真の聖香油とは愛であって、そのほかの慰めはほんのひととき心を慰めるのに役立つとしても、その後で苦痛と絶望を心に残すだけであることが理解できる心、人々の悲しみに同情できる心をくださるよう、今日の祝日にあたって、主にお願いしなければなりません

 繰り返し申し上げますが、人を助けたいのなら、理解と献身と愛情、自らへりくだる意志をもって人々を愛さなければなりません。そうすれば、なぜ主が全律法を二つの掟に要約されたかが理解できるでしょう。いっても、実際には一つ、つまり、心を尽くして、神と隣人を愛することなのです34。

 キリスト信者、実はあなたと私のことなのですが、キリスト信者は時として、この掟の実行を全く忘れているのではないかとお考えかもしれません。正義にもとる数多くの行いを避ける努力がなされていないとか、正されていないとか、あるいはまた、根本的な解決策を講じないまま世代から世代へと差別が伝わっていると思うこともあるでしょう。

 このような問題の具体的な解決策を提案することは私にはできませんし、またそうするつもりもありません。しかし、キリストの司祭として、聖書の教えを思い出してくださるように申し上げるのは私の務めです。キリストご自身がお示しになる審判の場面を黙想してください。「それから、王は左側にいる人たちにも言う。『呪われた者ども、わたしから離れ去り、悪魔とその手下のために用意してある永遠の火に入れ。お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせず、のどが渇いたときに飲ませず、旅をしていたときに宿を貸さず、裸のときに着せず、病気のとき、牢にいたときに、訪ねてくれなかったからだ』」35。

 困難や不正義を目にしても反応せず、それらを軽くする努力もしないような人や社会というものは、聖心の愛に従う人でもなく社会でもないと言えます。キリスト信者は種々の解決策を自由に研究し、そして自由に実行に移さなければなりません。当然、多様性を尊重するよう要求されてはいますが、人類への奉仕という同一の目的に向かって一路邁進すべき点では一致していなければなりません。そうでなければ、そのキリスト教は神と人々に対する偽りと見せかけにすぎず、イエスの言葉であるとも、生命であるとも言えないでしょう。

キリストの平和

 しかし、さらにもう一つのことを考えなければなりません。善を行うためにひるまずに戦う必要があるということです。それと言うのも、正義を実行しようと真剣な決心を立てることは難しいとわかっているだけでなく、社会生活が憎悪や無関心によってではなく、愛に鼓舞されたものとなるにはまだまだ実行すべきことが残っているからなのです。たとえ富が正当に分配され、社会の構成が調和のとれたものになっても、病の苦しみ、無理解や孤独の苦しみ、愛する人の死が与える苦痛、自己の限界を体験したときの苦しみが消えてなくならないことも明白な事実であるからです。

 このような苦しみを経験する信者に与えられる、本当の答え・決定的な答えはただ一つしかありません。すなわち、苦しみ死去される神、すべての人々を愛するがゆえに槍に貫かれた心をお与えになる神、十字架上のキリストなのです。主は不当な行いを憎み、不正義を働く人々を罰せられます。それでも、一人ひとりの自由を尊重なさいますから、不正義を働く人がいることは許容されるのです。主なる神はわざと人間に苦しみを与えたりなさいませんが、苦しみは原罪を犯した後の〈人間の条件〉ですから、苦しみを黙認されます。しかし、それにも拘わらず、人々への愛に溢れる聖心は自ら進んで十字架と共に、人間の苦しみと悲しみと苦悩、正義に飢え渇く心を背負ってくださったのです。

 苦しみについてのキリストの教えは安っぽい慰めの一覧表ではありません。第一に、それは、人間生活と切っても切れない苦しみを受け入れよ、説く教えです。私は、十字架のあるところ、キリストあり、愛あり、と説き続けてきましたし、そのように生きる努力を続けてきました。そして、一生に何度も苦しみに襲われ、一度ならず泣きたくなったこともあると隠さずに申し上げます。不正義と悪を見て嫌悪の情が昂ずるのをどうしようもなかったこともあります。そして、それについて何もできない自分に気づき、なんとかしたいと望みつつも、努力の甲斐なくそのような不正な状態を改善することができないがために、不快感を味わったこともあります。

 苦しみについてお話しするとき、ただ抽象的な苦しみを考えているのではありません。いつか苦しみに襲われて心の動揺を感じるなら、そのときの唯一の手立てはキリストを見ることであると保証しても、私は他人の経験について話しているのではありません。カルワリオの場面に目をやると、十字架に一致して生きよ、そうすれば悲しみは聖化されるはずである、と教えています。

 キリスト教的に受け止めるなら、私たちが受ける苦難は償いとなり、人々を愛するがゆえにあらゆる種類の苦しみを体験されたキリストの運命と生涯にあずかることになるのです。キリストは生まれ、哀れな死を遂げました。非難され、侮りと中傷を受け、最後には不当にも死罪をお受けになりました。弟子たちに裏切られ、見捨てられ、孤独にさいなまれ、刑罰と死の悲痛を体験されたのです。今も、同じキリストが、その仲間、地上に住むすべての民、ご自分がその頭であり長子、救い主である民のために苦しみ続けておられます。

 苦しみは神の計画のなかに入っています。理解し難いことではありますが、それが現実なのです。人としてのイエス・キリストにとっても、苦しみに耐えるのは並大抵のことではありませんでした。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」36。御父のみ旨と責苦との板挾みになりつつも、イエスは静かに死に赴き、十字架の刑の執行者をお赦しになるのです。

 苦しみを超自然的に受け入れることこそ、大きな勝利を意味します。イエスは十字架上で死去することにより、死を克服なさいました。神は死から命を引き出されるのです。神の子はたとえ悲劇的な不運に遭遇しても、諦めるのではなく、勝利の満足感を前もって味わう態度をとらなければなりません。勝利をもたらすキリストの愛の名において、信者はこの世のありとあらゆる道に飛び出し、言葉と行いをもって、〈平和と喜びの種蒔き人〉にならなければなりません。悪と不正義と罪に対抗し、平和のための戦いを続け、人間の現在の状態が最終的なものではなく、やがてキリストの聖心に現れた神の愛が、栄光に満ちた霊的な勝利を人々にもたらせることを宣言しなければならないのです。

先ほどナインの出来事を思い出しましたが、福音書には同じような場面が数多くありますから、別のところを引用することもできます。これらの話は感動を呼び起こしてきました。また、いつになっても同じ効果を与えることでしょう。人として同情するイエスの真心からの行いであり、主の偉大な愛を特に明らかにする話だからです。イエスの聖心は託身(受肉)された神の聖心、私たちと共においでになる神・インマヌエルの聖心です。

「キリストに一致する教会は、傷ついた聖心から誕生する」37。その広く寛大な聖心から命が伝わってきます。神が私たちの中でお働きになる秘跡、キリストの救いの力にあずからせてくださる秘跡について、たとえ簡単にでも、思い出さなければならないでしょう。感謝の心を込めて、聖体の秘跡と十字架上の聖なる犠牲、そして、ごミサにおける犠牲の絶えざる現在化(現実化)を思い出さないわけにはいきません。イエスは自らを食物としてお与えになります。イエス・キリストがおいでになったのですべては変わりました。心を満たし、行いと考えと思いに影響を与える力、聖霊の助けが私たちのうちに現れるのです。キリスト信者にとってキリストの聖心は平和であります。

 主が要求なさる依託の基礎となるのは、私たちが有する小さい望みや弱い力ではなく、第一に、人となった神の聖心の愛が得てくださった恩恵です。そうであるからこそ、意気消沈したり、落胆したりせずに、天においでになる御父の子に相応しく、内的生活に堅忍できるのみならず、また堅忍する義務があるのです。平凡な生活や単純な些事や日常生活を取り巻くいつも変わらない環境において、キリスト信者がどのような態度で、信仰・希望・愛の徳を実行に移していくか考えてくだされば嬉しく思います。神の助けを頼りに行動する人の真髄は、そういう生活の中にあり、また、対神徳を実行することにこそ心の平和が見出されるからなのです。

 以上がキリストの平和、聖心がもたらす平和の結果です。繰り返して申し上げますが、人々に対するイエスの愛は、神の秘義の、つまり御父と聖霊に対する御子の計り知れない深い愛の一面であるからです。御父と御子の愛の絆である聖霊は、〈み言葉〉のうちに人間の心を見出されます。

 このように信仰の中心的な秘義について考えると、どうしても知性の限界と啓示の偉大さに気づかないわけにはいきません。しかし、たとえ信仰の真理を完全に理解することができず、真理を前にして理性が驚嘆するほかはないとしても、謙遜に、固く信じます。キリストの証言があるので、これが真理であると確信できるのです。イエスの聖心の愛を通して、三位一体の神の愛がすべての人々の上に注がれることを確信できるのです。

それゆえ、イエスの聖心のうちに生き、イエスに一致するとは、私たち自身が神の住まいに変わることだと言えます。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される38、と主は仰せになりました。キリストと御父は、聖霊において、私たちの心においでになり、そこにお住まいになります39。

 ほんのわずかでも以上のようなことを理解すると、私たちの生き方は変わり、神に飢える心は詩編の言葉を自分自身の言葉として繰り返します。わたしの魂はあなたを渇き求めます。あなたを待って、わたしのからだは乾ききった台地のように衰え、水のない地のように渇き果てています40。すると、願うよう勧められたイエスは出迎えにきてくださり、「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい」41と仰せになります。聖心を差し出し、憩いと勇気を得る場をお与えになるのです。その招きに応えれば、主の言葉に偽りのないことがわかり、飢えと渇きは募りに募って、願いの言葉がほとばしり出ることでしょう。神よ、私の心に憩いの場を定め、あなたの熱と光を与え続けてください、と。

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」42。神の愛の火をわずかなりとも垣間見ることができました。神の霊感にすべてを委ねましょう。人々がキリストの平和を知り、それと共に、幸せになることができるように、地の果てまで〈神の火〉をもたらす熱意を燃え立たせたいものです。キリストの聖心に一致して生きる信者にとっては、社会の平和と教会の平和、心の平和、神の王国が訪れたときに完成する神の平和以外に目的とすべきものは存在しないのです。

 平和の元后であるマリア、天使のお告げの実現を信じたあなたにお願いします。私たちの信仰が増し、希望するに堅く、愛に深さを増すことができるようお助けください。これこそまさしく、御子が本日至聖なる心を人々に示すにあたり、お望みになることにほかならないからです。

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