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あなたがたに話しかけ、共に主なる神と語り合うとき、私は自分の祈りを声に出しているにすぎません。これを常に念頭において欲しいと思います。祈りとは主との愛の語り合いですから、今日のように一見したところ祈りと関係のないテーマを取りあげる場合でも、心の中で祈りに実りを与える努力をしなければなりません。<一見したところ>と申しましたが、実は、私たちの身に起こることや私たちの周囲の出来事は、いずれも黙想の題材になります。またそうでなければなりません。

 今日は、時について、この過ぎゆく時について話すことにしています。いっても、過ぎ去った歳月は戻らないというような、自明の事柄を繰り返すつもりはありません。月日が経つことを巷ではどう考えているか尋ね回るよう提案するわけでもない。尋ねてみたところで戻ってくる返事はおよそ見当がつきます。「青春よ、素晴らしい宝よ、お前は過ぎ去り、もは戻ることはない…」。だからと言って、もう少し自然的な意味を含む言葉を耳にする機会がないとは言うつもりはありません。

 人生のはかなさを強調して郷愁の念を煽ろうというつもりもありません。この世の旅路が束の間であればこそ、キリスト者は奮起して時間を無駄なく用いるよう努めなければなりません。主を恐れるなど良いことであるはずはなく、死を惨めな破局のごとく考えるに至ってはもっての外です。あれこれ言い回しを工夫して詩的に表現されていますが、神の恩寵と憐れみを受けて終える一年は、最終的な祖国である天国に一歩近づくことにほかなりません。

 このように考えると、聖パウロがコリントの人たちに宛てた書簡の叫びが私には本当によく理解できます。「時は短い」1。この世での歩みのなんと僅かしか続かぬことか。筋金入りの信者の心には、寛大な応えの不足に対する叱責の声、忠実を尽くせという絶え間ない呼びかけとなって響きわたる言葉でしょう。愛し、捧げ、償うために、残された時間は実に短い。それゆえ、時間の浪費は不正を働くに等しく、時間という宝を窓から捨てるような無責任は許されません。神が一人ひとりにお任せになった人類史のこの時期を無駄に過ごすことなどできないと申し上げたいのです。

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