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喩えの筋を追ってみましょう。愚かな乙女たちはどうしたのでしょうか。最後の時になってやっと花婿を迎える用意を始めます。そして油を買いに。しかし、後の祭りでした。彼女らが油を買いに行っている間に、「花婿が着いた。用意のできていた乙女たちは花婿と一緒に宴席につき、戸は閉ざされた。やがて他の乙女たちが来て、『ご主人様、ご主人様、どうぞお開けください』」5と叫んだ。彼女たちが何もしなかったわけではありません。少しは努力したのです。しかし、聞こえたのは、「わたしはお前たちを知らない」6という厳しい返事でした。よく注意して熱心に準備すべきことを知らなかったのか、あるいは、準備する気がなかったのか。とにかく、前もって油を買い入れておくという当然の用意を怠りました。わずかなこととはいえ、依頼された事柄を最後まで仕上げるという寛大な心を持ち合わせていなかったのです。時間は充分あったにもかかわらず、活用しなかったのです。

 勇気を出して自らの生活を振り返ってみましょう。自分に関係のある仕事、自らを聖化する手段である仕事を丹念に仕上げる時間が、ときどき見つからないのはなぜだろうか。なぜ家庭の務めを疎かにするのだろう。なぜミサ聖祭にあずかるときや祈りのときに気が急くのだろうか。自らの義務を果たすときは気もそぞろに大慌て、ところが楽しみのためであれば悠々と時間を割くのはなぜだろう。いずれも小さな事柄です。しかし、その小さな事柄こそ肝心の油、焔と燃え上がらせ明るい灯を保つために必要な私たちの油なのです。

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