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知ってか知らずか、何かに隷属するのが人間の定めです。色々な隷属状態を秤にかけてみると、隷属するのであれば、愛ゆえに神の奴隷になるほど素晴らしいことはありません。その瞬間に隷属状態から免れ、神の友、神の子になることができるからです。違いはこの辺にあらわれます。まっとうな仕事に対しては周囲の人と同じ情熱、同じ熱意を注いで対処しますが、魂の奥底にある平和を失うことはありません。逆境に陥っても、喜びと落ち着きをもって事に当たり、過ぎゆくものにではなく、永遠に残るものに信を置きます。「わたしたちは女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子である」37からです。

 この自由はどこから来るのでしょうか。私たちの主キリストから来ます。主は私たちを自由によって贖ってくださいましたが、その同じ自由が与えられたのです38。ですから神は、「子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる」39と仰せになったのです。キリスト信者はこの自由という恵みの真の意味について誰にも教えを乞う必要はありません。人を救うことのできる唯一の自由は、キリストに由来するからです。

 私は好んで自由という冒険について話します。私たちの一生は正に自由の織りなす冒険です。重ねて申しますが、奴隷ではなく、自由な子として、主のお示しになった道を歩みます。自由で軽快な歩みを神の賜物として味わうのです。

 誰の強制も受けず、自由に、自ら望むという理由だけで、私は神を選ぶことに決めました。わが主キリストを愛するがゆえに、私の一生を奉仕、つまり、隣人に仕える生活にする決心をします。このような自由をもつからこそ、勇気を出して、この世では何ものもキリストの愛から私を離せない40、と叫ぶことができるのです。

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