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父親のことも忘れて放蕩の限りを尽くしたあげく、有り金を使い果たしてしまった息子が家に戻ったとき、父親は言いました。「急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう」33。私たちの父なる神はこのような御方です。たとえ私たちが罪を犯したとしても、痛悔して駆けつければ、惨めさから富を、弱さから力を引き出してくださる。神を無視せず日毎神に近づくなら、行いと言葉で神への愛を示すなら、全能と御憐れみに信頼してすべてをお願いするならば、素晴らしい賜物を与えてくださいます。裏切りのあとで戻ってきた息子にさえ、大宴会を準備してくださる神ですから、いつも主の傍らに留まろうと努める私たちに対して、いかほどのことをしてくださるか想像できるのではないでしょうか。

 というわけで、たとえ受けた侮辱や辱めが不当で無礼で粗野であったとしても、それを記憶に留めておくことは、私たちに相応しい態度ではありません。侮辱の数々を記憶に留めておくなんて、神の子にあるまじき態度です。キリストの模範を忘れてはなりません。キリスト教の信仰は、弱められたり、強められたり、失われたりすることはあっても、衣服のように着替えるわけにはいかないのです。

自然の生命があれば信仰は強められ、心は神の助けをもたぬ人間の赤裸々な惨めさを思い知って震えあがります。そこで他人を赦す心と感謝の念が湧き上がってくる。わが神よ、私の惨めな生活を想うと、虚栄心をもつことなどできません。まして、傲慢になる動機などひとかけらもありません。ただ、常に謙遜と痛悔の心をもって生きるべきことをひしひしと身に感じ、仕えることこそ最も泰然たる態度であることが分かります。

聖書への参照
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