235

聖パウロと共に繰り返します。「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない」29と。

異邦人の使徒、聖パウロの言葉を聞いて、ある人々は、イエスがその御体と御血の秘跡をお告げになったとき「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」30と言った、あのキリストの弟子たちと同じ反応を示しました。確かに、このような愛徳の実行は容易なことではありません。使徒の説く愛徳は、慈善事業や博愛主義、あるいは他人の苦しみを見て抱く同情のような、ちっぼけなものには限られていないからです。使徒の言う愛徳を実行するには、神への愛と、神ゆえの隣人愛という、対神徳を実行しなければなりません。だからこそ、「愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう。 (…)信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」31と言うことができるのです。

この点を別の言語で