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愛徳があれば、まず謙遜の道を歩み始めます。心から自らの無を悟ったとき、神の助けがなければ自分より弱く脆い人にさえ劣ることが分かったとき、さらに、どのような恐ろしい過ちを犯すかもしれないことや、多くの不忠実を避けるためどれほ必死になって戦おうとも、罪人であることに変わりのない自分に気づいたとき、そのようなときに、どうして他人を悪く思うことができるでしょう。

謙遜であれば、今述べたような接し方、つまり、隣人との最も望ましい付き合い方ができるようになります。すべての人を理解し、すべての人と共に生き、すべての人を赦す、また、人を区別したり隔たりを置いたりせず、いつも人々の一致に役立つように働くようになるのです。人は心の奥で、平和や同僚との一致、個人の権利の相互尊重などに強く憧れていますが、これは空虚な憧れではない。こういう考え方は兄弟愛へと育つべきなのです。人間であることの最も貴い証拠はそこに現れます。私たちはみな神の子です。兄弟愛を一つのお題目にしたり、夢のような理想と考えたりしないようにしましょう。難しい目標には違いないが、充分に実行できる目標ですから。

私たちキリスト者は、皮肉屋、懐疑主義者、冷血漢など、自分の臆病を土台にしてものを考える人たちを向こうにまわして、この愛情が実行可能であることを示さなければなりません。それには、おそらく色々と難しいこともあるでしょう。人間は自由な存在として創造されましたから、無益とは言え、神に刃向かうこともできるからです。しかし、とにかく、今お話ししている愛は必ず実行できます。神の愛と神への愛があれば、必ず愛にかなった生き方ができます。私たちがそのように望みさえすればよいのです。イエス・キリストもまたそうお望みになっています。苦しみと犠牲、自己を忘れた献身が、人々と共に歩む日々の生活の中で、どれほど深く、また豊かな意味をもつかが理解できることでしょう。

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