キリスト者の希望

1968年5月8日


ずいぶん昔のことになりますが、そのころ日毎に深まっていた確信を次のように書き記しました。「万事をイエスに希望しなさい。あなたは何も持たず、何の値うちもなく、何もできない。主にすべてをお任せするなら、主がすべてを成し遂げてくださるだろう」1。 それからかなりの年月が経ちましたが、この確信はますます強まり、一層深くなるばかりです。道を歩んでゆく間には、苦しみ、それも時には大変な苦しみに遭うことがあるでしょう。けれども、そのような時でさえ、神に希望をおくなら、がっかりして力を落とすことなく、かえって素晴らしい愛の火を燃え立たせ、生き生きとした生活が送れることを、大勢の人々の生き方の中に垣間見てきました。

 ミサの書簡を朗読して、心を強く揺り動かされました。皆さん方も同じように感動したことと思います。神が使徒の言葉を使って教えてくださったおかげで、三つの対神徳が神的な骨組みをどのようにして作り上げているかを黙想することができます。この三つの対神徳こそ、正に、キリスト者の真の生活を打ち建てる屋台骨なのです。

 もう一度、聖パウロの言葉に耳を傾けてみましょう。「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」2。

今、聖櫃の中から私たちを見守っておられる神のみ前で―イエスが近くにいてくださるので力強い限りですから―魂を、喜び、それも「希望の喜び」3で満たす神の甘美な賜物、希望の徳について黙想しましょう。忠実を保てば、神の無限の愛を受けることができるはずですから。

 私たち全員、つまり私たち一人ひとりにとって、この地上には二通りの生き方しかないことを忘れないでください。一つは、神をお喜ばせするために内的戦いを続ける神的な生き方、もう一つは、見たところ人間のようだが、神を排除しているために動物的としか言いようのない生き方です。信仰をもたないことを誇りにするような<似非聖人>には感心できません。もちろんそういう人たちを私は心から愛しています、兄弟であるすべての人を愛するのと同じように。ある面では英雄的とも言える、その人々のよい意志を、賞賛するに吝かではありません。しかし、同情の念を禁じ得ないことも事実です。彼らは、神の光と熱、そして神の希望から生まれる揺るぎない喜びである<対神徳>を欠いているという点で、この上なく不幸な状態にいるからです。

 信仰に即して生きる真摯なキリスト者なら、超自然的な見方を保ち、神のみを見つめながら生活します。愛すべき社会の中で、何事につけ努力を傾けるが、常に目は天に向けている。聖パウロはこう断言しています。「上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって」、つまり、洗礼を受けてこの世的なものに死んだのであって、「あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです」4。

地上的な希望とキリスト教的な希望

「希望とは、すべてを失くしたあとで失うもの」という使い古された格言は、大勢の人々の口にのぼります。あたかも希望が、良心の焦躁や迷いを忘れて生活するための口実でしかないかのように。あるいは、良くない行いを正すことや貴い目標を目指すこと、そして何よりも神との一致という最高の目標に向かって戦うことを、永久に延期するための格好の方便であるかのように。

 これは希望と安逸との混同にほかなりません。本音を言えば、霊的な善か正当な物的善かを問わず、そもそも真実の善を獲得せんとする熱意に欠けています。過もなく不足もない生活、つまり、生温い見みせかけだけの安定を最高目標と定め、是が非でもその安定を守り通そうとする。臆病で怠惰なおどおどした心は、巧妙に働く利己主義に負けて、日々、年々を、大きな望みを持たぬかわりに、恐れに襲われることもなく過したいと思う。大志を抱いて努力したり、希望と不安のうちに戦ったりすることを嫌って、何がなんでも恥と涙は避ける。値打ちあるものを得ようとすれば、当然ながら必要となる努力と犠牲をこのように恐れ、価値あるものを獲得したいという希望まで捨ててしまっては、目的を達成することなど到底できないことでしょう。

 反対に、希望を素朴な空想であるかのように思い、時にはそれが文化的で科学的な考えであるとさえ見せかけるがごとき浅薄な態度をとる人もいます。誠実に自己と対決し、断固として善を行う態度をとることができず、希望するとは、困難の多い人生の悲哀を前にして、一つの夢、ユートピア、単なる慰めを追うことに過ぎないと考えているわけです。そのような偽りの希望を抱いたところで何の足しにもならないというのに。

ところで、このように臆病な人や軽薄な人が氾濫している世の中にも、超自然的動機は持たないけれど博愛の精神から高潔な理想に動かされ、困っている人を助けるためにあらゆる困難に立ち向かい、骨身をけずって寛大に奉仕する善意の人は大勢います。高潔な理想のために敢然と働くこの人々の頑張りを見るにつけ、私は敬いの念、時には賞賛の念にかられるほどです。しかし、今の私の務めは大切なことを思い出してくださるようお願いすることでした。人間がこの世で進める事業が単に人間のためだけのものなら、いずれ消えゆく運命を担って生まれたと言っても言い過ぎではないでしょう。次の聖書の言葉を黙想してください。「しかし、わたしは顧みた、この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。見よ、どれも空しく、風を追うようなことであった。太陽の下に、益となるものは何もない」5。

 すべてはこのように儚いといっても、希望が消えてしまうわけではない。それどころか、地上のあらゆる事業は儚くも消えゆくものであると認めればこそ、私たちの仕事は本物の希望につながり、人間の仕事すべてが高められて神との出会いの場に変わる。こうして仕事は永遠の光に照らされ、幻滅の暗闇を追い払ってくれるのです。ところが、万一、その儚い事業を唯一最高の目的であると考え、自らの永遠の住居や人間が造られた目的、つまり主を愛し、礼拝し、後に天国で主を所有するという目的を忘れてしまったならば、いかに輝かしい事業も、裏切りや時には人間を卑しくする手段になり果ててしまう。神を知らずに苦しみ、神のほかに幸福を見つけようとあくせくした聖アウグスチヌスの、あの有名な本音の叫びを思い出してください。「主よ、あなたは私たちをあなたに向けて造りたまい、私たちの心はあなたに憩うまで安らぎを得ません」6。この世に生きる間、飽かすことなく満足させる神の愛を目的とせず、偽りの希望に騙されるほど不幸なことは、たぶんほかにないでしょう。

 皆さん方も同じであって欲しいのですが、私は、自分が神の子であるとはっきり知り、自覚するとき、本当の希望に満たされます。希望は超自然の徳です。けれども、人間に注入されると私たちの本性にぴったりと合いますから、非常に人間的な徳でもあります。最後まで忠実を保てば必ず天国に到着することができますから、私は幸せ者です。天国で手に入れる幸せを考えると、本当に嬉しくなります。「恵み深い神」7、限りなく善い方、限りなく慈しみ深い御方です。この確信のおかげで、神の足跡を留めるものだけが永遠を指し示す道標であり、その価値は不朽であることが容易に理解できます。希望の徳をもつからといって、地上の物事から離れてしまうはずはない。それどころか、この世の現実を新しい面から、キリスト的な色合いのもとに、見ることができるようになる。あらゆるものの中に、堕落した本性と創造主であり贖い主である神との関係を、見つけ出すことができるのです。

何に希望するのか

ひょっとすると、一人ならず自問する人があるかも知れません。キリスト者はいったい、何を希望しなければならないのだろう。懸命になって愛と幸福を追求する心に、この世はたくさんの快いことを与えてくれるではないか。それだけでなく、私たちは平和と喜びを惜しみなく<撒き散らし>たい。自分だけうまくいっても満足することはできず、周りの人々皆を幸福にしたいのだと。

 一応立派そうではあるが薄っぺらな見方で、儚くも消えゆく理想のみを追い求め、キリスト者の夢が最上の高み、つまり、永遠を目指していることを忘れている人があるのは残念なことです。私たちは、神の愛そのものが欲しい、終わることのない喜びをもって神を堪能したいと思っています。この世の事柄はすべて、世の終わりの到来と共に消え去ってしまう。このことは色々な経験で確認済みです。一人ひとりの人間にとってみれば、世の終わりを待つまでもなく、死とともにすべては過ぎ去ります。富も栄誉も墓まではついて来てくれません。だからこそ、希望の翼に乗って、心を神に上げて祈ることができるようになるのです。「主よ、御もとに身を寄せます。とこしえに恥に落とすことなく、恵みの御業によってわたしを助けてください」8。主よ、あなたに希望を託します。今も、いつも、世々に至るまで、あなたの御手でわたしをお導きください。

私たちが造られたのは、この世に最終的な神の国を建てるためではありません9。「この世は、苦しみのない住居であるもう一つの世界への道である」10からです。だからと言って、私たち神の子がこの世の諸活動に無関心でいるわけにはゆきません。神は諸活動の直中に私たちをお置きになりましたが、それは、この世の諸活動を聖化し、その中に聖なる信仰を浸透させるためです。信仰のみが、真実の平和と喜びを、人々の心の中やその他色々な環境にもたらすことができます。これは一九二八年以来絶えず説き続けてきた考えです。社会のキリスト教化を急がなければなりません。社会のあらゆる階層に超自然的感覚を植えつけ、一人ひとりが互いに日々の義務、仕事、職務を、恩寵のレベルにまで高めなければならないのです。こうして初めて、人々の職業はすべて新たな希望に照らされ、時間を超えて、衰えを知らぬものとなるでしょう。

 洗礼を受けた私たちは、傷ついた心を癒して鎮め、そして力づける、キリストの言葉の運び手となりました。主が私たちの中で自由にお働きになることができるよう、常に戦う心構えを示すべきです。たとえ、無能で弱い自分を思い知り、惨めさと弱さが肩に重くのしかかるのを感じても、神の助けと神ご自身に希望を託しております、繰り返さなければなりません。必要なら、「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じた」11アブラハムのように。これができれば、熱意を新たにして働き、そして憎しみや心配事、無知や無理解、悲観的見方をうち捨てて泰然自若として生きようと、人々に教えることができる。神に不可能はないからです。

いま自分のいるところで、<警戒心>を解いてはいけないと、主はお勧めになります。この勧めを知ったからには、心を聖性への希望で満たし、さらに行いに表さなければなりません。「わが子よ、あなたの心をわたしにゆだねよ」12と、神は耳もとで囁いておられます。砂上の楼閣を築くようなことは止めて、きっぱりとした態度で心を神に打ち明けなさい。希望を固く保ち、隣人に善を施そうとすれば、主を基盤にするほかに方法はありません。自分自身と戦わないなら、高慢、嫉妬、目と肉の欲、自己満足、放縦への醜いまでの飢えなど、心に巣食う敵を徹底的に追放しないなら、つまり、内的戦いを続けないならば、いかに高潔な理想とは言え、「草花のように滅び去るからです。日が昇り熱風が吹きつけると、草は枯れ、花は散り、その美しさは失せてしまう」13ことでしょう。そうなると、ほんのわずかの隙間からでも、落胆と悲しさが毒草のように芽を吹き出します。

 イエスは、曖昧な返事では満足なさらない。毅然として一歩も譲ることなく困難に立ち向かえと要求される。また、そのように要求する権利をもっておられ、断固とした具体的な歩みを求められます。漠然とした決心など役に立ちません。決心も具体的でないなら、ごまかしの夢であって、心に感じる神の呼びかけを無視することになってしまう。そのような決心は、熱も光も伝えず、灯った途端に儚くも消え去る鬼火のようなものです。

 というわけで、決然とした歩みを見せない限り、あなたの決心が真剣なものであるとは思えません。日常の仕事に対する態度をたびたび振り返り、善を行い続けなさい。疲労困憊して体が折れるように感じるときにも、自分を取り巻く環境のなかで正義を実行してください。周囲の人々に幸せをもたらすことのできるよう、職場で喜びをふりまき、仕事をよりよく仕上げる努力を続け、理解と微笑み、言い換えれば、キリスト者にふさわしい態度を示す。これらすべてを、神のため、神の栄光を考え、顔を天に向けて、最終的な祖国を熱望しながら、果たしてください。最終的な祖国こそ、総力をあげて向かうにふさわしい目標ですから。

すべてが可能

内的戦いを続けない人には、キリストを知り、キリストを愛し、キリストとひとつになりたい、などと言って欲しくない。キリストに従い、神の子として振舞うという正道を歩むなら、必ず聖なる十字架に突き当たる。ところで、この十字架こそ、主との一致を望む者にとって希望の基礎であることをよく考えなければなりません。

 このような生き方が容易でないことを、前もって断っておきます。主がお示しになる生き方をしようとすれば努力が要求されるということです。聖パウロが、イエスのみ旨を果たすに当たって遭遇した事件と苦しみを列記していますから、それを読み上げてみましょう。「ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭打ちを受けたことが五度。ローマ兵から鞭打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度、外海で一昼夜漂流したこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、偽兄弟からの難に遭い、苦労に苦労を重ね、度々眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。これに加えて色々なことがあったうえに、日々わたしに降りかかる心配事、あらゆる地方の教会に対する気苦労があります」14。

 主との話し合いの間に現実を直視したいものです。新説を打ち出したり、大げさな自己放棄や英雄的行為を夢みたりしても、そのような機会は訪れませんから、無駄だと思います。大切なのは、浪費しがちな時間を活用すること。時間はキリスト教的な見方から言えば、後の世で与えられる栄光の「前金」であって、純金以上に高価なものです。

 日常生活を営むにあたり、サウロの一生に起こったほど、数多くの恐ろしい障害に出遭うことはまずないでしょう。せいぜい卑しい利己心や繰り返し襲ってくる情欲、無用の高慢心、無数の失敗や弱さなどに行き当たる程度でしょう。しかし、がっかりすることはありません。聖パウロに心を合わせて主に申し上げましょう、「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱い時にこそ強いからです」15。

時には、すべてが予想に反した展開をみせるので、「主よ、すべて、何もかも崩れてしまいます」と、思わず口に出してしまう。すぐに意向を正しましょう。「私はあなたと共に前進します。あなたは力そのもの、『あなたはわたしの神、わたしの砦』16ですから」と。

 皆さんにお願いしました。仕事中、何度も目を天に上げるよう辛抱づよく努力してください、と。希望を持ちさえすれば、超自然的見方を失わせまいと差し伸べてくださる神の強い腕にしがみつくことができる。欲情が反乱を起こすとき、自分という小さい世界にこもってしまうとき、あるいは幼稚な虚栄心に取り付かれて自分が宇宙の中心であるかのように考えるときにも、同じように目を天に上げましょう。天を見上げることもせずイエスと離れていては何もできないことを、私はよく承知しています。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」17と繰り返し叫ぶなら、内外の敵に打ち勝つための強さを身につけることができます。私たちが神を捨てない限り、神がご自分の子供をお見捨てになるようなことはありえません。

弱さと赦し

主がすぐ近くまで来てくださったので、私たちは皆、高尚なものへの飢えを感じ、高みに上りたい、善を行いたい、と強くあこがれる。私が今あなたの心にあるこのような望みを煽るのは、神の働きかけに信頼して欲しいからです。神の働きを妨げない限り、今いる場所で、思いもよらぬ働きのできる良い道具になりうる。臆病風に吹かれて神の信頼を裏切らないためにも、キリスト者の人生につきものの障害を愚かにも軽く見たり、うぬぼれに負けたりしないよう、くれぐれも気をつけてください。

 堕落した本性をもつ私たちは、恩寵に反抗し抵抗しがちだが、驚くにはあたらない。この原罪が残した傷跡は、自罪を犯すたびに炎症を起こしてしまう。このような状態から抜け出さなければなりません。神的であると同時に、人間的な日々の努力を続けて、神への愛を表してください。謙遜と痛悔の心で神の助けに全幅の信頼を寄せ、あたかもすべては自分自身にかかっているかのように最善の努力を尽くすのです。

  死の間際まで続くこの戦いの間、内外の敵が激しく攻撃を仕掛けてくることは充分に予想される。それだけでもまだ足りないかのように、時には過去の罪、おそらくは無数の罪が一度に頭に浮かんできて、心を滅入らせてしまうでしょう。神の名において申します。たとえそのような時が訪れても、決して絶望してはなりません。そういうことは、必ず起こるわけでも、起こるのが普通であるわけでもありませんが、万一そうなった場合には、主にさらに強く一致する機会だと捉えましょう。ご自分の子供にしてくださった主が、あなたをお見捨てになるはずがありません。あなたがより深く神を愛し、よりはっきりとその保護を知ることができるように、試みをお許しになるだけなのです。

 元気を出しなさい。何度も申しますが、十字架上で私たちをお赦しになったキリストは、ゆるしの秘跡によって今も赦しを与え続けておられます。「たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償う生贄」18となって私たちに勝利を得させてくださいます。

 何が起ころうとも構わず前進しなさい。主の腕にしっかりと掴まり、神は決して戦いに敗れないことを考える。理由がなんであれ、万一主から離れてしまったのなら、謙遜な心で主のもとに戻り、再び始めなさい。毎日あるいは二十四時間中幾度も、放蕩息子の役柄を演じるのです。真に神愛の奇跡であるゆるしの秘跡によって心を洗い浄めなさい。この得も言われぬ秘跡において、神はあなたの心を清め、戦いにひるむことのないよう、また、たとえ暗闇に迷ったときでも、疲れに負けず神に立ち戻るために必要な喜びと力を十二分に与えてくださいます。そのうえ、神の御母であり私たちの母でもある聖母が母親特有の優しい心であなたを守り、足下を固めてくださいます。

神は常に赦しをお与えになる

「神に従う人は七度倒れ(る)」19と聖書は警告している。この言葉を読むたびに、強い愛と苦痛を感じ、心は激しく震えます。尽きることのない慈しみや優しさ、寛容について語るため、主は再び私たちに会いに来てくださったからです。主は私たちの惨めさをお望みにはならないが、私たちの惨めな状態についてはご存じです。そして、私たちを聖人にするためにその弱さを利用なさいます。

 愛の震えと申しました。誠実に自らの生活を省みるとき、私は自分が、何者でもなく、何の値打ちもなく、何も持たず、何もできない、いやそれ以下、つまり無そのものであることが分かる。しかし、神はすべてであります。また、神は私の神、私は神のもの。私をお見捨てにはならないどころか、私のためにご自分を死にさえ渡されたのです。これ以上の愛を考えることができるでしょうか。

苦痛の震えとも申しました。自分の行いを振り返ると、山のように積もった怠りを前に唖然となってしまう。朝起きてからの二、三時間を糾明するだけでも、忠実と愛に欠けたことがたくさん見つかる。自分の行いを見ると本当に情けなくなるが、だからといって平和を失うことはない。神のみ前に平伏して、自分の状態を包み隠さずお見せします。すると、すぐに神が近くにおられることを確信し、ゆっくりと心の中で繰り返してくださる神の声が聞こえてきます。「あなたはわたしのもの」20。お前がどのような者かは知っていたし、今も知っている。前進しなさい、と。

これ以外の道はありません。絶え間なく主の現存を保つなら、神は常に呼びかけ、愛を示し続けてくださっていることが分かり、信頼はいや増すことでしょう。神はうんざりして愛せなくなることがない。希望の徳があれば、神の助けがないと、ほんの小さな義務を果たすことさえできないことが分かる。神と一緒であれば、恩寵の力によって傷はすぐに癒される。敵の攻撃に反撃を加えるために神の力を身にまとえるでしょう。簡単に言うなら、自分が泥でできていることを自覚することが、キリスト・イエスヘの希望を特に強めるのに役立つということなのです。

新約聖書の登場人物と頻繁に付き合ってください。聖書にあらわれる感動的な場面の数々を黙想しましょう。主が神としての権威と人間味溢れた仕草をお示しになる場面、あるいは、人間的であると共に神的な言葉遣いでお話しになるあの荘厳な赦しの物語、子供たちへの疲れを知らぬ愛の話など。あたかも天国を地上に引き降ろしたようなそれらの場面は、今も福音書のなかで時間を超えて新鮮さを保っています。神の保護を感じて、手で触れることができるほどです。躓きをものともせずに前進するとき、また、転ぶたびに起き上がってはやり直し、神に希望を託しつつ内的生活を続けるならば、神のご保護を感じとれないはずはありません。

内外の障害を克服すべく熱心に戦う意欲をもたなければ、賞を獲得することはできません。「『競技に参加する者は、規則に従って競技をしないならば、栄冠を受けることができない』21。また、相手がいなければ、真の戦いにはならない。それゆえ、敵がいないなら、勝利の冠も得られない。敗者のいないところに、勝利者がいるはずがないからである」22。

困難があっても意気消沈することなく、かえってそれを活用し、キリスト者として成長するための刺激に変えなければなりません。戦えばこそ聖化は実現し、使徒職は一層の効果を上げるからです。まず、ゲッセマニの園で、続いて、嘲りの的となり、孤独のうちに十字架にかかったイエス・キリスト、そのキリストは受難の巨大な重みを感じながらも、御父のみ旨を受け入れ、愛されました。このようなイエス・キリストを黙想するにつけ、私たちはキリストに倣い、キリストのよい弟子になるために、主の勧めを心から受け入れる必要のあることがよく分かってきます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」23。そこで、私は好んでイエスにお願いします、「主よ、一日たりとも十字架のない日がありませんように」。こうして、神の恩寵を受けて性格は強められ、惨めな点が多いにもかかわらず、神の支えにまでなることができるのです。

よく考えてごらんなさい。壁にくぎを打ちつけても、手応えがなければ何も吊すことができません。神の助けにすがって犠牲を捧げ、自らを鍛えなければ、神に役立つよい道具になることはできないのです。神の愛のために喜んで艱難辛苦を活用する決心さえすれば、困難や不快なこと、煩わしく辛いことなどを問題にせずに、使徒聖ヤコブ、聖ヨハネと同じように、「できます」24と叫ぶこともできるでしょう。

大切なこと、それは戦い  

私たちの平安を奪い去るために悪魔が好んで用いる策略について、注意を促しておきたいと思います。悪魔は休暇を取らないことを忘れないでください。前進するどころか嘆かわしくも後退しているのではないか、自己改善の努力にもかかわらず悪くなる一方ではないのか、誘惑に襲われて、このように考えてしまうときがあるかもしれません。しかし、心配しないでください。たいていは、錯覚にすぎませんから、すぐに追い払えばいいのです。このような場合、魂は以前にも増して細やかに、良心は鋭く、愛はさらに自らに厳しくなっているのです。ひょっとすると、恩寵の働きが一層強くなり、それまで暗闇の中で気づかなかった数多くの細かな点に光を当てているのかもしれません。いずれにせよ、不安の原因は糾明する必要があります。私たちがさらに謙遜になり寛大になるよう、主が光を与えて照らし出してくださっているときだからです。神は摂理によって、私たち子供を成長させるために、休みなく、寛大な心で導き、助けの手を差し伸べ、大小の奇跡をしてくださるのです。

「この世にいることは人にとって兵役であり、その日々は日雇いの日々のようだ」25。この法則を免れている人はいません。そんなことは知りたくもないと思う怠け者も、またキリストの軍隊から脱走して他の戦いに加わり、怠け心や虚栄心、卑しい野心を満足させようと奔走する人々、言い換えれば、自己の欲望の奴隷となった人々でさえ、この法則から逃れることはできないのです。

戦いが人間につきものであるなら、是が非でも義務を果たしたいものです。自ら望み、正しい意向をもって、神がお望みになることを探し求め、祈り、そして働くのです。こうして、神を求める心は満たされますから、一日を終えるにあたり、走るべき道程が長いことに気づいても、聖性に向かって小止みなく歩み続けることができるでしょう。

「我、仕えん」。毎朝この言葉で決意を新たにしてください。譲歩はすまい、怠惰や物臭に足をすくわれまい、希望に満ちて楽観的な心で日々の義務をしっかり果たそう。こうして、小競り合いに敗れることがあっても、信実の愛徳唱を唱えるなら失敗を克服できると確信しましょう。

希望の徳、それは全能の神が摂理をもって私たちを導き、必要な手段をお与えになることを確信することです。希望の徳があれば、神が絶えず優しく接してくださることも分かるでしょう。主は聞いてあげようと常に待ちかまえておられ、決してお疲れになりません。あなたの喜びと成功、愛と困難、苦しみと失敗の一つひとつが主の関心の的なのです。ですから、つまずいた時だけ主に望みをかけるようなことをせず、順境にあっても逆境にあっても、天の御父のもとに駆け寄って、主の慈しみ深い保護にすべてを委ねてください。無に等しい自分を知れば、つまり、少しでも謙遜になれば、無数の零の集まりである自分の姿を簡単に認めることができ、やがては不落の砦のような堅固さを身につけることでしょう。私という無数の零の左にキリストがいてくだされば、巨大な数字になるからです。「主はわたしの命の砦、わたしは誰の前におののくことがあろう」26。

すべてのものの裏に神の助けを見てとってください。常に私たちを見つめ、守っていてくださいます。また当然ながら、この世で自分に与えられた場を捨てることなく、忠実に主に付き従えと要求されていることを知って欲しいのです。付き添ってくださる神を見失わないためにも、戦いを軽んじることなく注意深く警戒して進まねばなりません。

戦うと言っても、神の子が痛ましい放棄や暗澹とした諦めに圧倒され、喜びを失うようなことはありません。戦いとは愛に酔った人の行動、仕事であれ休息であれ、楽しむときであれ苦しむときであれ、常に愛する者のことを考え、その人のためなら何が起ころうと喜んで対処する態度のことです。重ねて申しますが、神が戦いに敗れることは決してありませんから、神から離れない限り、常に勝利を得ることができます。神の要求を忠実に果たすなら、次のような経験ができます。「主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける」27。

心戦の兵法によれば、大切なのは、時間であり、適切な手をうつ忍耐と粘り強さです。望徳唱を頻繁に繰り返してください。気づかぬ程度にまで神が手加減してくださればありがたいのだが、内的生活には失敗もあれば好不調の波もある。種々の災難から免れている人などいません。ところで、全能で慈しみ深い主は、困難に打ち勝つために有効な手段をお与えになりました。すでにお話ししたように、必要なら何度でも、瞬間毎にも、やり直す決意さえあれば、手段を用いるだけで充分に打ち勝つことができます。

小心に陥らないよう注意して、毎週、必要なときはいつでも、悔い改めの聖なる秘跡、神のゆるしの秘跡にあずかってください。恩寵を身にまとっているなら、歩みを止めることなく山々の間を行き28、キリスト者の義務という坂を上って行くのです。与えられた手段を進んで活用し、主に希望の徳を増してくださるようお願いするなら、神の子であることを知る者の喜びに満ちて、人々に喜びを<感染>させることができるでしょう。「神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」29。いうわけで、楽天的になるほかありません。希望の力に満たされると、憎しみを播く人たちがばら撒いた汚れを消し去るために休みなく戦います。すると、世界の歓喜を再発見できる。世界は神の手から生まれた汚れなく美しいものですから、痛悔の心をもつことができれば、世界に元々の美しさを取り戻して神にお返しすることができるでしょう。

天を見つめながら

希望の徳に成長し、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」30という信仰を土台にしてしっかりと立ちましょう。この徳に成長するとは、愛を増してくださいとお願いすることです。なぜなら、全力を尽くして愛する者しか、全幅の信頼を置くことはできないからです。主はお愛しする値打ちのある御方です。愛に酔った人は、愛するものと心臓の鼓動を同じにするほど見事に一致するので、安心して自らを捧げるということは、私と同じように皆さんもすでに経験されたことでしょう。ところで、相手が愛そのものである神ならどうなるでしょう。キリストは私たち一人ひとりのために死んでくださったことがまだ分からないのですか。このように惨めで卑しい私たちを救うために、イエスは贖いの犠牲を捧げてくださったのです。

ご死去とご復活を通して得てくださった褒賞について、主はしばしばお話しになりました。「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」31。天国は地上の歩みの終着点です。イエス・キリストは先にそこへ行かれ、私が心から愛する聖母マリアと聖ヨセフ、天使たちと諸聖人に伴われて私たちを待っていてくださいます。

使徒の時代から現在に至るまで、いつの時代にも異端者が現れ、キリスト者からこの希望を奪い去ろうと試みました。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」32。イエスは道であり、真理であり、命ですから33、私たちの歩む道は神の道です。この道を神から離れずに歩む限り、必ず永遠の幸福を得ることができるのです。

「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」34。御父からこのように言っていただけたなら、どんなに幸せでしょう。必ずこう言っていただけるという希望をもちましょう。これが観想生活の素晴らしさです。信仰と希望と愛に生きましょう。希望は私たちを強めます。聖ヨハネの言葉を思い出してください。「若者たちよ、わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが強く、神の言葉があなたがたの内にいつもあり、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからである」35。神は教会に属する若者たちだけでなく、全世界の青年たちを激励しておいでになる。触れるものを次から次へと黄金に変えたミダ王のように、皆さんもすべての人間的なものを神化することができるのです。

この世を去ったあと神の愛が待ちかまえていてくださることを、決して忘れないでください。この神の中に、地上で持った清い愛をことごとく見つけることができるでしょう。短い一生を、一所懸命働いて、御独り子のように「善をなしつつ」36過ごすこと、これが主のお望みです。生きている間、目覚めて警戒していなければなりません。殉教を目前にしたアンティオキアの聖イグナチオが魂に感じたあの呼びかけを聞くために。「御父のもとに来るがよい」37。おまえを一日千秋の思いで待っているから。

私たちの希望・聖母マリアに、私たちが揃って御父のお住まいに居を定めることができるよう助けてくださいと申し上げましょう。真の祖国への希望を支えにするなら、何が起こっても平和を失うことはありえません。主は恩寵によって私たちを導き、順風を送って、くっきりと見える向こう岸に船を押し進めてくださるでしょう。

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