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最初にお話した巡礼のときのことですが、ソンソーレスの聖母マリアの巡礼に向かう途中、麦畑の傍を通りました。太陽に照らされ、風に揺れる麦、それを見ていると、主が弟子たちに仰せになった聖書の言葉が記憶によみがえってきました。「あなたがたは、『刈り入れまでまだ四か月もある』と言っているではないか。わたしは言っておく。目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」16。主はご自分の心に燃える熱意と火が私たちの心の中で燃えるようにお望みになっているのだ、気がついたのです。そして、そのとき気づいた事柄を後で思い出す縁にしようと思い、道から少しそれて、麦の穂を摘み取ったのでした。

 しっかりと目を開け、瞳をこらして周囲を眺め、私たちのまわりにいる人々を通してなさる主の呼びかけに気づかなければなりません。自己のちっぽけな世界に閉じこもり、人々に背を向けて生きることなどできないのです。イエスはそうはなさいませんでした。福音書には、主が慈悲深く、人々の苦しみや困窮を敏感に感じとられたことがしばしば書かれています。ナインのやもめに同情し17、ラザロの死を嘆き18、付き従う群衆に食物の持ち合わせがないのを気遣ったのです19。光も真理も知らず世の中をさまよう人々や罪人を特に哀れに思っておられたのです。「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」20。

 本当に聖母の子どもになれば、主のこのような行いが理解でき、慈しみ深く広い心を持つことができることでしょう。そして、兄弟である人々の苦しみや惨めさ、過ちや孤独、苦悩や苦痛を感じとることができます。困っている人々を助け、人々が子として神に接し、マリアの母親らしい心遣いを知ることができるよう、人々に神を知らせなければならないと感じるのです。

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