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待降節への期待

 救い主の誕生まであと幾日と指折り数え始める待降節第一主日の今日、いろいろなことを十分に申し上げたと思います。キリスト信者としての召命の真相、すなわち人々を聖性に導き、神に近づけ、教会に一致させ、すべての人の心に神の国を拡げるために、主はどれほど私たちを頼りにしておられるかということを考えてきました。私たちが自己を完全に捧げ、忠実であるように、細やかで愛情深いものであるようにと主は望んでおられます。私たちが聖人であること、全く主のものであることを望んでおられるのです。

 一方には傲慢・官能・憎悪・利己主義があり、他方には愛・献身・いつくしみ・謙遜・犠牲・喜びがあります。そして、そのいずれかを選ばなければなりません。信仰・希望・愛の生活に召されたからには、目標を下げて中途半端なところに孤立しているわけにはいきません。

 ある時、鉄のおりに閉じこめられている鷲を見たことがあります。羽は汚れて半分抜けており、足には腐った肉をつかんでいました。そのとき自分のことを考えてみたのです。もし神から受けた召命を捨てればどうなるであろうか、と。あの鳥は非常に高いところまで飛翔し、太陽を正面から見つめるべく生まれてきているのに、おりに閉じこめられて孤独な姿をさらしているのは残念なことです。私たちは、神の愛と人々への奉仕という〈謙虚な高さ〉まで昇ることができます。しかしそのためには、イエス・キリストの光が差し込まないような陰が心にないようにしなければなりません。イエスから自分を遠ざけるようなすべての心配事を投げ捨てるべきです。そうすれば、キリストは知性にも、言葉にも、心にも、業にも留まってくださるでしょう。心と業・知性と言葉からなる生活全体はこうして神に満たされるはずです。

「身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」50という福音書の一節を読んだところです。待降節は希望の季節です。キリスト信者としての召命についての広い視野と父である神の現存を中心とした〈生活の一致〉は、日々実現されなければなりません。

 聖母が御子の降誕を待つ数ヶ月をどのようにお過ごしになったかを想像しながら、ご一緒に聖母に願いましょう。聖母は私たちが同じキリスト、キリスト自身となることができるように助けてくださることでしょう。

聖書への参照
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