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分別とは、決して間違いを犯さないことではなく、自分の誤りを正す態度のことです。問題を避けるという楽な方法をとるよりも、むしろ度重なる不手際を意にも介さず、的確な判断を求める努力をする、このような人こそ分別ある人と言えます。モノに憑かれたかのように大慌てで仕事をしたり、おどおどしながら働いたりはしない。決心した結果、困難が襲ってくるかもしれないが、その責任は自分で負う。的はずれなことになるのを恐れて善獲得の努力を止めることもない。自分に都合のよいことばかりを探し回るようなことをしない人、客観的で熟慮型の人に出会ったとき、そのような人に対しては、ほとんど本能的に信頼してしまいます。自惚れることなく、大げさな身振りや仰々しさもなく、いつも公正で親切に振舞う人々だからです。

 このように真心のこもった徳はキリスト者に不可欠です。しかし、分別と賢慮の最終目標は、摩擦を招かないための落ち着きや、社会的協調性ではありません。分別の根本は神のみ旨の遂行にあります。主は私たちの単純さをお望みですが、決して子供じみた態度を望んではおられない。真実を愛せよと仰せになるが、軽はずみで浮ついた態度をとれとはおっしゃらないのです。聖書に「知恵ある人は知識をもつ」17と書いてあります。その知恵とは神の愛のこと、決定的な知恵、救いをもたらす知恵のことです。このような知恵があれば、誰でも平安と理解の実りを得るだけでなく、永遠の生命を受けることができます。

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