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イエスに付き従って、この神の漁に加わりましょう。イエスはゲネサレト湖畔にお立ちになっている。人々は、「神の言葉を聞こうとして」10、主の周りに押し寄せました。今も同じ情景が見られるのではないでしょうか。外面的にはごまかしているものの実は神の言葉を聞きたくて仕方がない。ある人はキリストの教えをとっくの昔に忘れ去り、また、ある人は本人のせいではないにしろキリストの教えを学んだことがなく宗教に偏見を抱いている。しかし、次に申し上げることだけは理解しておいていただきたい。彼らにも、もうこのままではだめだ、ありきたりの説明では物足りない、偽りの預言者の虚偽にはもう満足できない、という時が必ず来るということを。その時には、本人が認めたくなくても、主の教えによって心の空しさを満たしたいと望んでいるはずです。

ルカに語らせましょう。「二そうの舟が岸にあるのをご覧になった。漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。そこでイエスは、そのうちの一そうであるシモンの持ち舟に乗り、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになった。そして、腰を下ろして舟から群衆に教え始められた」11。話を終えると、シモンにお命じになります。「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」12。船長はキリスト、準備するのもキリストです。キリストがこの世に来られたのは、兄弟である我々が、御父への愛と栄光の道を見つけることのできるよう準備させるためでした。キリスト教の使徒職は人間が考え出したことではありません。私たちはむしろ、信仰不足や自らの弱さによって、使徒職を妨げているのです。

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