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神の子としての孝愛

私は神の子である―このような自覚から生まれる孝愛は、心の底から出てくる姿勢とも言うべきもので、あらゆる思いと望みと愛情の底にあって、いずれ私たちの存在そのものに影響を与えます。子供が家庭の中で無意識のうちに両親を真似、親の仕草や癖や物腰を身につけ、多くの点で親に似てゆくことはご存じのおりです。

 神のよい子にも同じ傾向が見られます。どのようにしてか、どのような道を通ってかはわからないながらも、素晴らしい<神化>が実現して、信仰という超自然の光ですべてを浮彫にして見るようになる。そして、御父が人々を愛するように、私たちも人々を愛します。最も大切なことは、新たな勇気に満たされて主に近づこうと、日々の努力をたゆみなく続けるという点です。重ねて申しますが、弱さや惨めさを恐れる必要はありません。父なる神が、両腕を広げて助け起こそうと、待ちかまえていてくださいますから。

 倒れたのが子供であるか大人であるかによって、その場に居合わせた人々の反応がずいぶん違ってくることに注意してください。子供の場合なら、倒れても大して問題になりません。幾度も倒れて当たり前です。涙が出ると、男は泣かないぞ、と父親が諭す。子供は親の期待に応えようと精一杯こらえて、それで解決。

 ところで、大の男が平衡を失ってもろに倒れた場合はどうだろうか。同情心を引き起こすか、さもなければ物笑いの種になる。ひょっとしたらひどい打ち身をし、お年寄りなら取り返しのつかない骨折に苦しむことになるかもしれません。内的生活においては、新たに生まれたみどり児、ゴムでできているのかと思われるような、幼い子供のようになればよいのです。子供はぶつかり合い、転んでは楽しんでいる。倒れてもすぐ立ち上がることができ、必要なときには両親の慰めが待っているからです。子供のようになれば、たとえ内的生活に起こる衝突や失敗をすべて避けることはできないにしても、悲嘆にくれてしまうようなことはないでしょう。心に痛みを感じても、落胆することなく対処する。愛にして偉大、無限の知恵であり慈しみ深い御父、その御父の子であることを知る者のつ喜びで微笑みがこぼれる。長年のあいだ神に仕えてきた私は、神のみ前で本当に幼子であることができるようになりました。そこで、皆さんにもお勧めしたいのです。<新たに生まれたみどり児>のように、神の言葉、神のパン、神のお与えになる糧、神の力強さを求める信者としての道を歩んでください。

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