第五留 イエス、シモンの助けを受ける

イエスは弱り果て、歩みは次第に鈍くなる。終りを急ぐ兵士達は星占いの門を出たとき、田舎から出て来て通りかかったアレキサンデルとルフォの父でシモンというキレネ人に、無理やり十字架を負わせた(マルコ15、21参照)。

 受難全体からみて、これは取るに足りない助けである。しかしイエスは、ちょっとした微笑、ほんの一言、優しい仕草、少しの愛情をうけるだけでも、その友の心に溢れんばかりの恩寵(恩恵)をそそがれる。その後、キリスト信者になっていたシモンの子供たちのことは信者の間に知れ渡り尊敬されていた。すべては十字架との思いがけない出会いに始まったのである。

「わたしを心にかけない人々にも、わたしは近寄りやすい者であり、わたしを捜し求めない人々にとっても、見出されることをゆるした」(イザヤ65、1)。

 時として、十字架は求めなくても現れる。キリストがわたしたちを尋ね求めておられるのだ。万一、不意に出遭い、思いがけなかったがゆえ余計に暗澹たる十字架に嫌悪の情を抱いても、心に慰めを与えてはならない。心が慰めを求めても、高貴な同情を示しつつ、ゆっくり、あたかも打ち明け話をするかのように言いなさい。「心よ、おまえのいるべきところは十字架である。十字架の上なのだ」。

黙想の

1.主のしてくださったことに対してどのように感謝すべきか知りたいのか。愛をもって、である。これ以外の方法はない。

「愛には愛をもって」。しかし、真の愛には犠牲が伴う。元気を出しなさい。自らを否定し、十字架を取ることだ。そうすれば神の愛に対して、愛をもってお応えすることになる。

2.遅すぎはしないし、すべてがだめになったわけでもない。たとえそう思えても、たとえ人々がそう言っても、である。嘲りや疑い深い視線に責められても、十字架を担う時が訪れたことを示すにすぎない。救いのみわざは「今も」続いている。それゆえイエスは多くのキレネ人、つまり友が必要なのだ。

3.愛する人の幸せのためなら、高貴な心は犠牲を前にしてもたじろがない。愛する人の苦痛を軽くするためなら、心の広い人は嫌悪感や気取りに打ち勝つ。神は、はかない快楽や持ち物よりも値打ちがないと思うのか。

 わがままを抑えなさい。大げさにしたり、興奮したりしないで、意に反することも受け入れなさい。イエスの十字架をもっと軽くしてあげるために。

4.「今日、この家に救いが来た。この人もアブラハムの子である。人の子は、見失ったものを訪ねて救うために来た」(ルカ19、9-10)。

 ザケオ、キレネのシモン、ディマス、百夫長…。

 なぜ主があなたをお呼びになったかもう分かっただろう。感謝しなさい。ただし、<行いと真実をもって>。

5.どのようにすれば、イエスの聖なる十字架を愛することができるのか。まず、望むことによって。万人の心に、そして世界中に十字架を打ち立てるための力を主に願いなさい。そのあとで喜んで償いをするのだ。いまだに十字架を愛さない人々の代わりも兼ねるために。

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