偽善

  偽善を培う人は、必ず不愉快で恨みに満ちた犠牲の生活を送ることになる。

「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。わたしも行って拝もう」。このヘロデのような申し出を受けたなら、聖霊にお願いして、一見善意の人とも見える人々の〈保護〉や〈結構な約束〉から守っていただこう。

あの博士たちのように真理を求め、誠実に話すなら、聖霊の光が不足することはないだろう。

  あなたが物事をはっきり言うから、不愉快だと言う人がいる。

 恐らく、そう言って、濁った良心を覆い隠す必要があるのだろう。

あなたは自分の態度を堅持し、その人たちが良い反応を示すよう助けてやりなさい。

  他人のことを悪意で解釈している限り、自分のことを他人に理解してくれと要求する権利はない。

  正さねばならない、改革が必要だ、あなたは絶えず主張している。よろしい。しかし、その前に先ずあなた自身を改革しなさい。あなたにはそれが必要だから。そうすれば、すでに改革の第一歩を踏み出したことになる。

そうしないうちは、いくらあなたが刷新だ、改革だと言ったところで、信用するわけにはいかない。

  根っからのファリサイ的な(偽善者)というのはいるもので、以前に自分で言っていたことでも、他人が繰り返すと、躓く人々のことである。

  あなたはどうしようもないほどのおせっかいで、隣人の生活に鼻を突っ込む以外は何もしないようだ。そして、堂々とした意志の強い人に出会って出鼻を挫かれると、侮辱されたかのように人前で嘆き悲しんでみせる。

あなたの、そして大勢の人たちの、恥知らずな態度と歪んだ良心も、ここまで来ればおしまいだ。

  あなたは、〈正しい意見を述べる誠実な人という評判〉と、〈反対意見のつ卑劣な利点〉との両方を一手にしようとしている。

そのようなやり方は、どこの国の言葉で言っても、二心と呼ぶのだ。

  なんて優しい(?)良い人たちなんだろう。誉め称えて当たり前のことを、〈許してやろう〉と言うのだから。

  昔からある策略だが、他人を迫害する人間は、自分が迫害されていると言うものである。人々はとっくの昔にそういうことを弾劾した。例えば、スペイン語ではそういう態度を、〈石を投げておきながら、目に包帯をする〉、つまり、自分が張本人なのに知らぬ顔をするとはっきり言う。

  まさかと思いながらも、残念ながら認めざるをえないことがある。それは、他人を中傷し、正義に反しておきながら、その後で、愛徳だ、誠実だとまくしたて、中傷の犠牲者に自己の弁護をさせない人間が大勢いるということである。

自分以外のカトリック信者を悪しく扱いながら、口ではエキュメニズム(教会一致運動)を云々する人たちがいるが、そんなエキュメニズムほど悲しいものはない。

  彼らの客観性は根本から違っている。人についても仕事についても、自分自身の欠点というレンズを通して見るだけならまだしも、厚顔無恥もいいところで、批判したり、自分の忠告を売りつけたりするからである。

そこで具体的な決心を一つ。正すにしろ、勧めを与えるにしろ、それを自らの振る舞いに当てはめてみてから、しかも、神の現存を保ちつつ、そうしよう。

  いつになっても嘆かわしいことには違いないから、相手が誰であっても中傷で攻撃するような方法はとらないでほしい。ましてや、教訓を与えてやるためにというような動機を口実にするのはもってのほかである。そんな動機を出してみても、道徳的に悪いことは決して正当化されないからである。

  あなたに忠告を乞う人が、形成と正しい教えの点で信頼のおけるほかの人にも意見を聞いているのを知って、不愉快に感じたり、信頼されてないと考えたりするようなら、あなたは偏見のない人でも、意向の正しい人でもない。

本当に人々の善と真理を主張すること以外に関心がないとあなたは確言するのに、なぜ侮辱されたと感じるのだろうか。

  マリアは神がなさった秘義についてヨセフにさえ告げなかった。それは、私たちが軽率な態度をとらず、喜びや悲しみに正しいはけ口を与えるように、つまり、誉めそやされたり、同情されたりするのを望まないためである。すべての栄光は神に、すべては神のために。

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