伝達・宣教

  確信していてほしいことがある。使徒職とは、善、光、熱意、物惜しみせぬ心、犠牲の精神、仕事に対する粘り強さ、勉学における深さ、まことに寛大な献身、進歩に後れをとらないこと、教会への絶対的で喜びに満ちた従順、完全な愛徳などを広めることである。

ところで、持たぬものを与えることはできない。

  道を歩み始めたばかりの、まだ若いあなたにこの勧めをあげよう。神にはすべてを捧げて当然なのだから、職業面で秀でる努力をしなさい。そうすれば、あなたの考えをよりいっそう効果的に広めることができるだろう。

  自分で納得していればしているほど、いっそう効果的に他人を納得させることができる。これを忘れないように。

「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである」。

そして主は、この世での歩みを終える頃、「行って教えなさい」とお命じになった。ご自分の弟子たちとあなたの行いや言葉の中に、主の光が輝いているようお望みなのである。

  まことに奇妙なことだが、カトリック信者が単に良いカトリック信者であることに対して、自由の名のもとにしばしば恐れを抱く―実は反対する―人が大勢いる。

  中傷やあてこすりを言い触らす人々から身を守りなさい。その種のことを、ある人は軽々しく信じ、ある人は悪意から受け入れる。その結果、落ち着いた雰囲気をめちゃめちゃにし、世論を毒するのである。

場合によっては、本当の愛徳のため、そういう他人を踏みにじる行為とその奨励者を告発しなければならない。そうしないと、その人たちと彼らに耳を傾ける人間が、自分たちの歪んだ良心や未熟な良心に従って、「沈黙は同意のしるし」と考える恐れがある。

  党派心の強い連中は、私たちのカトリック信仰を〈狂信〉と呼んで喚き立てる。歳月を経ても、カトリックの信仰は不変のままであるからだ。

それに引き換え、党派心に毒された狂言者たちは真理にはお構いなしだから、次々と着物を替え、中身のない案山子のように事実の裏付けのない単なる脅し言葉を教会に投げつける。縛り付け、身動きできなくさせるくせに「自由を」と言い、ジャングルに逆戻りさせるくせに「進歩を」と叫び、無知を秘めているのに「知識を」と言うわけだ。いつも、ぽんこつ欠陥商品の展示場なのである。

願わくは、唯一の真理の唯一の防御である信仰のため、〈あなたの狂信〉の度合が日々いっそう強くなるように。

  ある人たちの愚かさに気づいて恐れたり驚いたりしないように。教養を見せびらかしたいがため、自らの無知という武器を振りまわす愚か者が居なくなることはないからである。

  主を憎む人や主に仕えていると言う人が、それぞれ異なる情熱に駆られてではあるが、とにかく一丸となり、キリスト者、つまり、神の子らに反対しているのを見るにつけ、本当に悲しくなる。

  ある種の環境、特に知識人(インテリ)の世界において、諸党派共通の指令のようなものが重んじられており、それが明らかに感じ取られ、カトリック信者までがそれに従うときがある。厚かましくも辛抱強く中傷を続け、それを広げ、すべての真理とすべての論理に反しつつも、教会や人に、また組織に対して暗雲を投げかけるのである。

毎日、信じて祈りなさい。「私たちの祈りを聞き入れ、教会の敵を標榜する彼らを辱めてやってください」。主よ、あなたを迫害する者どもを、私たちが広める決心をしているあなたの光の明るさで辱めてください。

  カトリックの理念は古臭くて受け入れられないって? それより古い太陽だって光を失っていないし、それ以上に古くからある水だって未だ渇きを癒し活気を与えているではないか。

  たとえ良い目的のためであっても、歴史や人の生涯を歪曲することは許されない。しかし、長い間教会を迫害してきた敵を誉め称えてやるのは大間違いである。確信しなさい。称賛すべきでないことをキリスト者が声を合わせて称賛しなかったからといって、歴史的真実が害を受けるようなことはあり得ないのだ。一体、いつから憎しみが模範とされるようになったのだろうか。

  キリスト教の宣教をするからといって、対立を引き起こしたり、教えを知らない人をひどく扱ったりすべきではない。「愛はすべてを耐え忍ぶ」はずだから、愛徳をもって宣教すれば、ごまかされて誤りを信じ、反対していた人も、誠実な濃やかな心で最後には受け入れ、傾倒する。ところで、ナイーブな〈広い心〉という名において、教義を譲り渡すことなど認められない。そんなことをする人は教会の外に出ることになり、人々に役立つどころか自らに害を及ぼすからである。

  キリスト教とは〈異例なもの〉で、この世の事柄とは妥協しない。これこそキリスト教の〈最大の短所〉であり、〈教会に反抗して結集する〉俗物どもの絶好の大義なのだ。

  神について何も知らない人がいる。わかりやすい言葉で教えてあげる人が誰もいなかったからである。

  あなたの知性が届かぬところででも、もっと、しかもより効果的に人々のため役に立てるよう、聖なる〈ずるさ〉を願いなさい。

  是非とも信じてほしいことがある。使徒職やカテケ―ジスというものは、毛細血管のようでなければならない。一人ひとりを相手にするのだ。信者一人ひとりがまず身近な仲間と、そして、また一人というふうに。

神の子にとってすべての人が大切であるが、それは一人ひとりが大切だからである。

  神を侮辱するような言葉が決してあなたの口から出ないよう、良き勧めを給う御母、処女マリアに保護を願いなさい。

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