平和

  あなたの霊魂と心、あなたの知性と意志のなかで、天の御父の愛すべきみ旨に対する信頼と依託の精神を育みなさい。そうすれば、あなたが切望している内的な平和が生まれてくるだろう。

  抑える努力もせず、そのような情念に引きずられるままになって、恩恵の〈引き寄せ〉に抵抗しているようでは、平和を得るなどおぼつかないではないか。

天はあなたを上の方へ押し上げようとする。しかしあなたは―あなただけだから言い訳を探さないでほしいのだが―自らを下の方へ引っ張る。だから、自己分裂してしまうのだ。

  平和も戦争も、私たちの内にある。

忠誠心、それに戦いにおいて勝利を得んという決意がなければ、勝利も平和も手に入らないだろう。

  あなたのそのような心配事に対する手段。それは、忍耐と正しい意向を持ち、超自然的な視点から物事を見ることである。

  神があなたと共においでになるのだから、恐れと精神の動揺を急いで捨て去りなさい。そのような恐れや動揺は、誘惑を増やし、危険を増すだけだから、徹底的に避けるようにしなさい。

  すべてが崩壊し、万事がおしまいという状態になり、何もかもが予想に反した展開を見せ、大変な不運をもたらしたとき、困惑しているだけでは何の役にも立たない。あの預言者の信頼しきった祈りを思い出しなさい。「まことに、主は我らを正しく裁かれる方。主は我らに法を与えられる方。主は我らの王となって、我らを救われる」。

私たちの善を思って統治なさる摂理の計画に、あなたの行動を合わせることができるよう、毎日信心を持ってこの祈りを唱えなさい。

  視線を神に注いでいるので、心配事があっても落ち着きを失わず、つまらないことや恨みや妬みを忘れることができるようになれば、効果的な働きをして人々に役立つために要する、多大な力を浪費しなくて済むだろう。

  あの友は誠実に心の内を打ち明けてくれた。「常に私たちの友なる神と一緒だから孤独を感じたことはなく、退屈だと思ったことは一度もない」。

日が落ち、深い静寂が訪れた。あなたは神の現存を生き生きと感じた。こういうときの、なんという平安。

  旅の雰囲気のなかで、ある兄弟の感動的な挨拶を耳にしたあなたは思い出した。この世の正直な道ならいずれもキリストに対して開かれている。たった一つ欠けているのは、私たちが征服者の心意気で道に飛び出して行くことだ、と。

神はご自分の子らのためにこの世をお創りになった、子である私たちがそこに住み、そして聖化するため、この世界を創られた。それなのに、一体何を待っているのか。

  あなたはすこぶる幸せである。時として、神の子の一人が神をおざりにしようとしているのに気づいて、平安と心の喜びのさなか、心を乱したり落ち着きを失ったりはせぬものの、愛情を持つゆえに痛みと悲しみを感じることはある。

それは良いことだが、その人が立ち上がるよう、人間的、超自然的手段を尽くさなければならない。そして、確信を持ってイエス・キリストにお任せするのだ。そうすれば、川の流れは常にもとに戻るのである。

  あなた自身を嘘偽りなく主に委ねれば、何が起こっても満足していることができるだろうし、たとえ努力を傾け、必要な手を打ったにもかかわらず、望みどおりに事が運ばなかったとしても、落ち着きを失うことはあるまい。神のお望み通りに〈事が運んだ〉からである。

  うっかりしたことや失敗が続き、あなたの心は痛んでいる。それと同時に、今にも爆発しそうなくらい喜びに満ちた歩みを続けている。

愛するがゆえの心の痛みであるからこそ、失敗しても平和を失わないのである。

  暗闇に包まれ、目が見えず、心の落ち着きを失ったなら、バルティマイのように〈光〉のもとへと駆け寄らなければならない。「主よ、見えますように」と、もっと力を込めて繰り返し叫びなさい。昼が訪れ、主がお与えになる光を味わうようになるだろう。

  あなたの激しい性格や利己主義、安逸、反感などに対して戦いなさい。私たちが贖いの協力者となるべきはもちろんだが、どのような褒美を受けるかは―この点をよく考えなさい― 、どのような種蒔きをするかということと直接の関係があるのだ。

  キリスト者の仕事、それは豊富な善で悪を溺れさせることである。それは、否定的なキャンペーンをしたり、何々反対を叫んだりすることではない。そうではなくて、楽観に溢れ、若さと喜びと平和に満ちて、肯定をモットーに生きることである。すべての人を、すなわちキリストに付き従う人も、キリストを見放している人や彼を知らぬ人も、理解する心で見ることである。

とは言え、理解するとは、不介入や無関心な態度をとることではなく、行動することである。

  キリスト的愛徳と人間としての優雅さから言っても、他人との間に深い淵を作らぬよう、また隣人を追い詰めず、常に言い訳の機会を残しておくよう、努力しなければならない。彼らが今以上に〈真理〉から離れぬためである。

  暴力は良い説得法ではない。使徒職にとってはおさら悪い。

  乱暴な人は、緒戦には勝つかもしれないが、最後には必ず負ける。結局のところ自らの無理解から生じる孤独に囲まれてしまうからである。

  手を組まれると自分を倒す敵になりそうな人々を、互いに争わせる。これが暴君の策略である。それは、敵すなわち悪魔とその仲間たちが、多くの使徒職の計画を妨害するために使う、昔ながらの罠である。

  兄弟である人たちばかりなのに、その人たちを競争相手と見なす人がいるが、彼らは自分がキリスト者であることを自らの行いで否定しているのである。

  相手の自尊心を傷つけるような喧嘩腰の論戦を張ったところで、滅多に問題は解決しない。そのうえ、言い争う人たちの中に一人でも狂信者がいれば、問題の所在を明らかにすることさえ不可能になる。

  あなたがなぜ腹を立て、なぜ失望しているのか、私には分からない。あなたが使ったのと同じ武器で仕返しされただけではないのか。すなわち、言葉と行いで他人を侮辱することに喜びを感じることで。

教訓として役立てなさい。そして今後は、あなたと一緒に生活している人たちにも心があるということを忘れないように。

  冷酷で不正な反対を受けていた頃、平和を失ってほしくなかったので、あなたに思い出させたことがあった。「たとえ頭を割られても心配することはない。割れた頭のまま歩けばいいのだから」。

  逆説を一つ。「あなたの重荷を主にゆだねよ、主はあなたを支えてくださる」という詩編の言葉に従う決心をしてからは、日毎に頭の中の心配ごとが減ってきた。それと同時に、やるべき仕事を果たしていけば、すべてがもっと容易に解決できる。

  聖マリアは、教会が呼ぶように、平和の元后である。だからあなたの心、家庭や仕事場の雰囲気、社会生活や国々の間で騒ぎが起きるなら、〈平和の元后、我らのために祈り給え〉という叫びを繰り返しなさい。少なくとも、あなたが落ち着きを失ったとき、試してみなさい。効き目の速さに驚くことだろう。

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