290 |
 |
世界が私たちを待っている。そして、そう、私たちはこの世を熱烈に愛している。神がそうするよう教えてくださったから、つまり、「神がそこまでこの世を愛してくださった」からである。またこの世界こそ、キリストが取り戻してくださった平和を手に入れるため、私たちが戦いを繰り広げる戦場、すなわち、愛徳の麗しい戦いを続ける場だからである。
|
291 |
 |
主は細やかな愛で私たちを愛してくださっている。だから、私たちがこの世を征服するのを認めてくださるのだ。
この上なく謙遜な主は、自らはこの世の征服を可能にするに留め、私たちには最も簡単で楽なこと、つまり、行動と勝利を譲ってくださったのである。
|
292 |
 |
世界…、「世界は我々のものだ」。頭を上げて天を見つめたあなたは、自分の収穫物の間を君主然と闊歩する農夫のように、「キリストは支配しなければならない」、キリストがこの世界を支配すべきであると主張する。
|
293 |
 |
「今は希望のとき、私はこの宝に頼って生きています。神父様、単なる言葉ではありません。実際にそうなのです」と、あなたは言った。
それならば…、この世界全体と、友情や芸術、科学、哲学、神学、スポーツ、自然、教養、霊魂など、強い力であなたを引き付ける人間的に価値あるものすべてを、その希望、すなわちキリストへの希望に託しなさい。
|
294 |
 |
この世が絶え間なく振り撒くこの漠然とした心地よい魅惑…。色と薫りであなたを惹きつける道端の花々、空飛ぶ鳥、造られたすべてのもの…。
かわいそうな子よ。当たり前ではないか。この世のものが何ひとつとしてあなたを惹きつけないとすれば、一体どんな犠牲を主に捧げるつもりだったのか。
|
295 |
 |
キリスト者としての召し出しを受けているのだから、神のうちにいながらこの世の事柄に従事しなければならない。ただし、それらをあるがままに客観的に、言い換えれば、すべてを神のもとへ戻すために使わなければならないのである。
|
296 |
 |
何もかもがこの世で終わるかのように我欲を追い求めるがため、結局は一所懸命に悲しい生き方をする人が多いこの世界で、こんなに幸せになれるなんて嘘のようだ。
あなたは、そんな悲しい人たちの仲間に入らないためにも、各瞬間に意向を正さなければならない。
|
297 |
 |
世界は冷たい。眠っているようだ。あなたはしばしば物見台から放火魔のような目をしてその世界を眺めては祈る。主よ、人々の目を覚ましてやってください。
そのじれったさを良い方向にもって行きなさい。そうするため、命を焼き尽くすつもりで頑張れば、世界の隅々に火を点すことができる。そして、そうなれば展望も変わると確信するがよい。
|
298 |
 |
私が常にあなたに要求している忠実、すなわち神と人々への奉仕とは、軽薄な熱意のことではない。それは、往来で手に入れるもの、言い換えれば、どこにでもなすべきことが山ほどあることに気づいてはじめて身につくものである。
|
299 |
 |
神の良い子になりたければ、非常に人間的にならなければならない。ただし、下品で俗っぽい人になってはならない。
|
300 |
 |
社会人としての義務をしっかりと果たす。その後で、自らの権利を要求し、それを教会と社会のために役立てる。こういう静かな働きによって、一人ひとりに要求することは難しい。
確かに難しい。しかし、なんと効果的であることか。
|
301 |
 |
良いカトリック信者であることと、忠実に社会に仕えることとの間に、対立があるというのは本当ではない。同じように教会と国家が、神から託された使命を果たすにあたり、それぞれの権威を正当に行使しても、両者が衝突するはずがない。
これと反対のことを主張する人は、嘘、そう、嘘をついている。彼らこそ偽りの自由を口実にして、〈ご親切にも〉、カトリック信者はカタコンブ(地下墳墓)にお戻りなさいと言う人々なのである。
|
302 |
 |
市民としてのキリスト者の仕事は、文化と経済、仕事と休息、家族生活と社会生活など、現代の生活のすべてがキリストの愛と自由によって律せられるよう貢献することである。
|
303 |
 |
神の子であるなら、すべての人の問題に関心があるから、階級主義者ではあり得ない。神の子なら、贖い主の正義と愛でそれら諸問題を解決すべく力を尽くさなければならない。
使徒聖パウロが、神は人のえこひいきをなさらないと書いて、この点を示してくれているが、私はためらわずに次のように言い換えた。民はただ一つ、神の子の民のみであると。
|
304 |
 |
世俗的な人間は、人々がなるべく早く、まず神を失い、次いでこの世を失うよう必死になっている。彼らはこの世界を愛するのではなく、他人を踏みにじってこの世を搾取するのだ。
あなたがこの二重のペテンに引っかからないようにと願う。
|
305 |
 |
一日中、不愉快な気持ちで過ごす人がいる。何もかもが心配の種になるのだ。強迫観念にとり憑かれて、唯一の逃避である眠りさえ中断されると、寝る前から思い込んでいる。そして目が覚め、また一日が始まるのに腹を立てがっかりする。
私たちがこの世に遣わされたのは、永遠の幸せへと向かう手前の一歩として生きるためであることを、大勢の人が忘れている。この世で神の子としての喜びを噛み締めながら歩みを続ける者だけがその幸せを手に入れる、ということを考えないのである。
|
306 |
 |
悲しみに閉ざされた生き方と喜びに満たされた生き方との違い、小心と大胆との違い、慎重でずるく〈偽善的な態度〉と二心も裏もない態度との違い、言い換えれば、俗っぽい人と神の子らとの違いを、あなたのキリスト者としての生き方で人々に教えなさい。
|
307 |
 |
あなたが避けるべき根本的な間違いを一つ教えよう。すなわち、あなたが生きる時代や環境の―尊く正当な―習慣と要請を、イエス・キリストがお教えになった聖なる道徳に合わせるよう導くことなど到底できないと考えること。
私が〈尊く正当な〉という言葉を使って、他のものとはっきり区別した点に注目してほしい。尊くも正当でもないことには市民権がない、すなわち、市民に受け入れてもらう権利はないのである。
|
308 |
 |
日常の振る舞いにおいても考えにおいても、生活と宗教を切り離してはならない。
|
309 |
 |
天と地はあの遠い地平線のあたりで一体になっているようだ。ところで、天と地が本当に一体になるのは、神の子であるあなたの心の中である。これを忘れないでほしい。
|
310 |
 |
教会が、狡猾な迫害を受け、公の場から追放されるのはもとより、とりわけ教育や文化、家族生活に介入することが妨げられているときに、手をこまぬくわけにはいかない。
これらは、私たちの権利ではなく、神の権利である。そして、神は私たちカトリック信者にその権利を託された。私たちがそれを行使するためである。
|
311 |
 |
物や技術、経済、社会、政治、文化などに関わる事柄を、それぞれの分野の勝手にさせておいたり、信仰の光を持たない人たちに任せたりすると、超自然的な生き方にとって大変な障害となる。教会に敵意を示し、教会の立ち入りを認めぬ分野となってしまうのである。
研究者、文学者、科学者、政治家、労働者…であるあなたは、キリスト者として、それらすべてを聖化する義務を負っている。使徒聖パウロの言葉を思い出しなさい。全被造物が嘆きつつ産みの苦しみに遭っている、神の子らの自由にあずかる日を待ち焦がれている、と書いているのではないか。
|
312 |
 |
世界中を修道院にするのではない。そんなことをすれば、大混乱に陥る。そうかと言って、教会を世間にある党派の一つにすることもできない。それこそ、裏切り行為だから。
|
313 |
 |
独裁的な考え方をして、神が人間の自由な裁量に任せられた事柄について人々の自由を理解しないとすれば、まことに悲しい事態である。
|
314 |
 |
「聖人になりたければ、独房や山の孤独に逃げ込まねばならないなんて、一体、誰が言ったのでしょう」と、ある父親が驚いた調子で尋ね、さらに言葉を継いだ。「万一そうだとすれば、聖化されるのは、人間ではなくて独房や山だということになる。主がすべての人、一人ひとりに、はっきりと『天にいますわたしの父が完全であるように、あなたたちも完全になりなさい』と仰せられたのを忘れてしまっているようだ」。
私は一つだけ言い足しておいた。「主は、私たちが聖人になるのをお望みになるだけでなく、一人ひとりにふさわしい適切な恩恵をお与えになる」と。
|
315 |
 |
祖国を愛しなさい、愛国心はキリスト教的な徳である。しかし、愛国心が国家主義に堕すると、他国や他国民をキリストの愛と正義を欠いた冷淡な目、軽蔑の目で見ることになる。これは罪である。
|
316 |
 |
愛国心とは犯罪を正当化したり、他国民の権利を無視したりする態度のことではない。
|
317 |
 |
使徒聖パウロも次のように書いている。「ギリシャ人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」と。
これは昔も今も有効な言葉だ。主のみ前では今も、国や民族、階級、身分などの区別はないからである。私たち一人ひとりがキリストにおいて生まれ変わり、その結果、新しい被造物、つまり神の子となった。したがって、私たちは兄弟であり、兄弟らしく振る舞わなければならない。
|
318 |
 |
ずいぶん昔に、まことにはっきり分かったことだが、これはいつになっても有効な基準だと思う。すなわち、キリスト教の信仰と道徳から離れた社会では、福音書の永遠の真理を新しい方法で実行し、広めるべきだということ。神の子らは社会や世界の直中で自ら徳を実行し、それによって「暗い所に輝くともし火」のように世の闇を照らさなければならないのである。
|
319 |
 |
キリストの真理と精神が各時代の種々の必要を無視しないことは、永遠に生きるカトリック教会が保証するところである。
|
320 |
 |
キリストの跡を歩むためとは言え、今日の使徒は改革を目指すのではない。ましてや、自分を取り巻く歴史的な状況を見て見ぬ振りをするのでもない。使徒は初代キリスト者のように行動し、周囲に生命を与えればよいのである。
|
321 |
 |
この世の直中に住んでいるあなた、良いとか悪いとか言われている人々と接触を保ちつつ生きる社会人であるあなた…、そのあなたは、キリスト者であるゆえ有する喜びを人々に与えたいと常に望んでいなければならない。
|
322 |
 |
チェザル・アウグストゥスから、イスラエル全住民の人口調査を命じる勅令が出た。マリアとヨセフはベトレヘムへと向かわれた。主はご自分に関する預言を成就させるため、律法に敬意を払い、律法を几帳面に果たす機会をお使いになった。あなたはこういう考え方をしたことがあるだろうか。
まっとうな社会生活に必要な規範を、愛し尊重しなさい。義務を忠実に果たせば、その態度を見た人々が、神の愛から出るキリスト者としての誠実な生き方に気づき、それがきっかけとなって神に出会うことができる。
|