戦い

  誰もが金持ちや賢人、有名人になれるわけではないが、誰もが、そう、すべての人が聖人になるよう召されている。

  神への忠実を保とうと思えば、戦いが要求される。本気の戦い、人と人との、つまり古い人と神の人との戦い、小さなこと一つひとつの戦いを脇目もふらずに続けなければならないのだ。

  試練があまりにも厳しいことは否定しない。〈不本意ながらも〉坂道を上るように進まねばならないからである。

どういう勧めをあげようか。〈すべては善のために〉と繰り返しなさい。すべて起こること、〈私に起こることすべて〉は私の役に立つ。だから、難しいことだが、快く、それを受け入れなさい。これこそ的確な結論である。

今日では、男も女も、善い人であるだけでは十分ではない。それだけでなく、善人であることだけで満足している人は十分に善いとは言えない。〈革命家〉にならねばならないのである。

キリストは、私たちを取り巻く快楽主義や唯物主義、異教的な雰囲気に対して、妥協を拒否する愛の反逆者をお望みなのである。

  聖性。本当に聖性に達したいという熱意があるのなら、息抜きも休憩もすべきではない。

  主が献身や正しい振る舞いについてお話しになったのは、それが苦にならない人や、それができるよう戦う必要のない人のためであったかのように考え、自分には関係ないかのような生き方をして一生を過ごす人がいる。

天の国は力で奪い取って手に入れる、各瞬間の聖なる戦いによって獲得するものであるとイエスが仰せられたのは、すべての人に対してであったことを忘れているのである。

  大勢の人は、なんと改革に熱心であることか。

命じられたことを忠実に果たすため、私たち皆が一人ひとり、自らを改革した方がよいのではなかろうか。

  あなたは誘惑に浸り、自らを危険に陥れ、目と想像を玩び、馬鹿げたお喋りをする。その後で、疑いと小心、当惑、悲しみ、落胆に襲われて驚く。

首尾一貫した態度がとれていないと言われても仕方ないだろう。

  初めの熱意に続いて、動揺、ためらい、恐れがやってきた。勉強、家族、経済的問題、そして特に、私にはできない、役に立つまい、人生経験が不足している、と心配になる。

それは悪魔の誘惑か、物惜しみする心が強いためかなのだが、とにかくそのような恐れを克服する確かな方法を教えよう。それは〈無視すること〉、そのような考え方を忘れてしまうことだ。すでに二十世紀も昔、師キリストが「後ろを振り向いてはいけない」とはっきり仰せになったではないか。

  罪への本当の嫌悪感を心の中に育てなければならない。主よ、もう決してあなたを侮辱することがありませんようにと痛悔の心で繰り返しなさい。

しかし、哀れな肉体と人間としての情念の重荷を感じても驚かないように。今頃、〈そういうもの〉の存在に気づくなんて、愚かで無邪気な子供ではないか。あなたの惨めさは障害ではなく、もっと神に一致するため、絶えず神を探し求めるための刺激である。神は私たちを清めてくださるのだから。

  あなたの想像が自分中心に飛びまわり、たいていの場合、あなたの道にふさわしくないばかりか、愚かにもあなたの心を逸らせ、冷たくし、神の現存から引き離すような妄想の世界や構想を築き上げる。虚栄心である。

想像が他人を巻き込むと、そんな使命はないのに、いとも簡単に他人を裁く

いう欠点に陥ったり、他人の振る舞いにいやしくも客観的でない解釈を下したりする。邪推である。

想像があなた自身の才能やものの言い方、あるいは人々を感嘆させる事柄に及んで飛びまわると、正しい意向を失い、高慢心を助長する危険に陥る。

一般に、想像を解き放つと時間の浪費になるが、それだけではなく、想像を抑えないと自らすすんで一連の誘惑への道を開いてしまうことになる。

内的節欲は一日たりとも疎かにしてはならない。

  しっかりと道を歩んでいることを確かめるために、誘惑に耐えてみるべきだと考えるほど、単純な馬鹿になってはならない。そんなことは、生きたいということを示すために心臓が止まってくれれば、と望むのと同じではないか。

  誘惑と話し合ってはならない。重ねて言わせてほしい。勇気を出して逃げなさい。どこまでなら大丈夫だろうと考えて、あなたの弱さと戯れるようなことをしてはならない。強くなりなさい。すぐに止めなさい、譲歩せずに。

  言い訳の余地はない。悪いのはあなたなのだ。そのような読書、そのような友人、つまり、その道を進めば絶壁から落ちる危険があるのが分かっていながら、十分に分かっていながら、なぜ、頑固にも、ひょっとしたら形成を速め、人格を円熟させるのに役立つかもしれないなどと考えるのだろう。

たとえ、もっと努力が要求され、手の届くところにある楽しみが少なくなるとしても、計画を根本から見直しなさい。そろそろ責任ある人にふさわしい振る舞いをするときなのだ。

  故意の小罪を避けようとしない多数の男女の自覚のなさが、ひどく主を苦しめる。誰もがこんな過ちを犯している、これが普通だ、考え、そして正当化するからだ。

よく聞きなさい。キリストを刑に処し、死に至らしめたあの群衆の大部分も、他の連中と同じように、初めは叫び声をあげ、皆と一緒にオリーブの園へ駆けつけただけだった。

そして、〈皆〉がしていることに巻き込まれて、後戻りできなかったのか、戻りたくなかったのか、結局は、イエスを十字架につけてしまった。

二十世紀を経た今も私たちは何も学んでいない。

  浮き沈み。あなたには浮き沈みが多すぎる。理由は明らかである。これまであなたは楽な生活を送ってきた。そして、自らを与えようと〈望む〉だけの状態から、実際に〈自らを与える〉に至るまでには、かなりの距離があることを認めたくないのだ。

  遅かれ早かれ、自らの歴然たる惨めさに気がつくだろうから、いくつかの誘惑について、あらかじめ警告しておきたい。悪魔は次のような考えをほのめかすだろう。すなわち、神はあなたのことを忘れられた、あなたが使徒職に召されたのは無駄なことだ、世の苦しみと罪の重さは使徒としてのあなたの力を超えている、と。すぐにそれらを拒みなさい。

いずれも嘘なのだから。

  本当に戦うつもりなら、良心の糾明をしなければならない。

毎日の糾明を大切にしなさい。主との接し方の拙さに気づいたとき、〈愛〉ゆえに痛みを感じるかどうか調べるのだ。

  大勢の人が〈礎石〉を置く定礎式に駆けつけても、そのようにして始めた仕事が最後まで完成するかどうかについては無関心である。それと同じように、罪人は、これが〈最後〉、これで〈終わり〉、という思いに欺かれる。

何かを〈止める〉とき、忘れてならないことがある。それは、これが〈最後〉というのはその前のとき、つまり、すでに過ぎ去ったあのときのことだということである。

  あなたに勧めたいことがある。頑張って、あなたの〈最初の回心〉のときに戻ってみなさい。それは、子供のようにならないまでも、子供にかなり似ることである。霊的生活においては、恐れも二心も持たず、全幅の信頼を寄せて、導きに任せなければならない。頭と心にあることを包み隠さずはっきりと話さなければならないのである。

  手段を講じないで、どうしてその生温さ、嘆かわしい倦怠状態から抜け出せるというのか。あなたはあまり戦わない。戦いはしても、腹立ちまぎれか煩わしさに負けてか、あなたのわずかな努力が効果を上げないよう、また、自己を正当化できるよう望みながら戦っているみたいだ。すなわち、あなたは自らに強く要求せず、また他人からも要求されたくないと考えているのである。

自分の意志は果たしているが、神のみ旨は果たしていないのだ。本気になって変わらない限り、幸せになれないし、今あなたに欠けている平安を得ることもないだろう。

神に対して謙遜になりなさい。そして、本当に神を愛する努力をしなさい。

  なんという時間の浪費、また、なんという薄っぺらで人間臭い見方をすることか。それが効果をあげる秘訣であるかのように、すべてを戦術に帰するなんて。

神の〈戦術〉とは、愛徳、限りない神への愛であることを、皆が忘れている。人間が罪によって天と地との間に開けた埋め尽くせない距離を、神は愛によって埋めてくださったのである。

  良心の糾明のときには、〈野蛮的〉と言えるほど誠実になりなさい。勇気を出しなさい。鏡の中の自分を見て、どこに傷があるのか、取り除くべき汚れがどこにあるか、どこが欠点なのかを捜すの同じように。

  〈アクマ〉。漢字で書く値打ちはないのでカタカナで書くが、そのアクマのずるさに注意せよと言っておこう。アクマは、普通の状況を利用して、私たちを神の道から少しだけ、あるいは思い切り逸らせようとするからである。

戦うなら、本気になって戦うなら、〈流れに逆らって歩まねばならない〉ときや、疲れに襲われて人間的にも霊的にも慰めのないときがあるから、驚かないように。以前、誰かが書き寄越したものを書き写そう。無邪気にも、恩恵は自然を排すると考える人のために残しておいたのである。「神父様、ここ数日、生活プランを果たそうにも怠惰と無力感に襲われて困っています。何をするにしても厭々ながら無理にしています。この危機が早く過ぎ去るようお祈りください。道から逸れるのではないかと恐れ、大変に苦しんでいます」。

私は次のように答えておいた。愛は犠牲を要求することを知らなかったのか。師イエスの言葉をゆっくりと読みなさい。「〈日々〉、毎日、自分の十字架を背負わない人は、わたしにふさわしくない」。聖書のもう少し先にはこう書いてある。「わたしはあなたたちを孤児にはしておかない」。あなたには辛いことだが、主があなたをそのような無味乾燥の状態に置かれたのだ。あなたが、もっと主を愛し、主のみに信頼をおき、十字架を背負って贖いの協力者となり、十字架に出会うために。

  悪魔はあまり賢くないようだ、あなたは言っていた。あの馬鹿さ加減が分からない、いつも同じ嘘、同じ偽り…だ、と。

あなたの言う通りだ。しかし、人間はもっと愚かだから、いつまでたっても、それを他山の石としない…。悪魔はそういうことをみな計算の上で誘惑するのである。

  あるとき耳にしたことだが、大きな会戦のとき、いつも繰り返される奇妙な現象があるらしい。兵隊の数と手段から見て、最初から勝利が保証されているのに、いざ戦いとなると、弱い戦区が現れ、敗戦の恐れの出てくることがあると言うのだ。そんなときには、上からきっぱりとした命令が下り、弱い前線を補強する。

あなたと私のことを考えた。戦いに敗れることのない神と一緒なら、私たちはいつも勝利者である、と。だから、聖人になるための戦いにおいて力がないと感じたら、命令に耳を傾け、それを実行に移しなさい。助けを受け入れるのだ。神に失敗はないのだから。

  あなたは誠実正直に心を開き、神の現存を保ちつつ、指導者と話した。そして素晴らしいことに、あなたの逃げ口上に対して自分で適切な答えを見つけていることに気づいた。

霊的指導を愛そう。

  あなたが適切な振る舞いをしていることは認めよう。ところで、はっきりと言わせてもらいたい。そんなのろのろした歩み方―そうだと認めなさい―をしているなら、完全に幸せであるとは言えないだけでなく、聖性からも程遠いと言わなければならない。

そこで、本当に品位ある振る舞いをしているのかとあなたに尋ねたい。ひょっとすれば、見当違いな品位を考えているのではなかろうか。

  内的にも外的にも軽薄な態度、誘惑に対してもあやふやで、やる気があるのかないのか明らかでない状態、そのような愚かな振る舞いをしているようなら、内的生活に進歩することなど不可能である。

  いつも思うことだが、大勢の人は、恩恵に抵抗することを〈明日〉とか〈後で〉とか呼ぶ。

  霊的な道のもう一つの逆説。行いにわずかの改善の必要しかない人は、一所懸命に直す努力をし、実現するまで手を緩めない。そして、その逆をする人もある。

  あなたは振る舞いの元を突きとめないから、時々〈問題〉を作り出してしまう。

たった一つあなたに必要なこと、それは決然として戦いの対象を変えることである。すなわち、忠実に義務を果たし、霊的指導において与えられた指示を誠実に果たすこと。

  あなたは、聖人にならなければならないという〈固定観念〉を以前にも増して、強く差し迫って感じた。ブルジョワ化の兆候ならなんであれ、勇敢に切り捨てなければならないと確信し、ためらわずに日々の戦いに赴いたのだった。

 後になって祈りのうちに主と話し合っているとき、戦いとは〈愛〉の同義語であることが以前にも増してはっきりと分かった。キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに戦うのであるから。待ち受ける戦闘に恐れを抱くことなく、もっと大きな愛を主にお願いしたのである。

  こんがらがっている?正直誠実になりなさい。そして、神あるいはあの人に仕えるよりも利己主義の奴隷になりたいのだと白状しなさい。そうだと認めなさい。

「試みを耐え忍ぶ人は幸いである…」。試みを受けた後で〈生命〉の冠を受けるからである。

その内的スポーツが尽きることのない平安の源であることを確認すると、喜びに満たされるのではないだろうか。

  〈今、始める〉。これは、神を愛する人の叫びである。各瞬間に、忠実を保ち得たときも、物惜しみする心に負けたときも、神に完全な忠誠心をもって仕える―愛する―望みを新たにする人の叫びである。

  あなたの求めているのは、改心ではなくて、自分の欠点を大切にしまっておく箱だ。そうして、苦い後味が残るとはいえ、その哀しい重荷を引きずりながらも安楽な生き方を続けている。こう言われて、あなたの心は痛んだ。

  自分を捕えているのが身体の衰弱なのか、精神的な疲労なのか、あるいはその両方なのか、あなたには分からない。戦ってはいるが、本当の戦いではなく、キリストの喜びと愛を人々に〈移す〉ために、心底から良くなろうという熱意もない。

聖霊が仰せになる明白な言葉を思い出してほしい。「規則に従って」、すなわち、何があっても本当に戦う人だけが、勝利の冠を得るのである。

  もっと良い行いをし、もっと決然とした態度をとり、もっと熱意を表に表すことができるはずなのに何故そうしないのだろうかと、あなたは自問している。

率直に言わせてもらえば、それは、あなたが愚かだからだ。悪魔は、数ある心の扉のうちで最も守りの弱いのが人の愚かさ加減、つまり、虚栄心であることを十分以上に知っている。だから、今そのあたりを、全力をあげて攻撃しているのだ。感傷的な思い出に浸っているときや、ヒステリックな見方をして継子扱いされていると考えてしまうとき、自由がないと勝手に思い込んでしまうときなどを狙って襲ってくるのである。

いつになったら、「警戒して祈れ、あなたたちは…知らないのだから」というイエスの金言を理解するのだろうか。

  あなたは虚勢を張りつつも自信なさそうに私に言った。昇る人もあり、降りる人もあり、私のように道端で坐りこんでしまう人間もいる、と。

あなたの無感覚を見て悲しくなったので、私は言った。昇る人は怠け者を引っぱって行くが、普通は降りる人のほうが強く引っぱるものだ、と。痛ましい邪道を自分で探し求めていることが分からないのか。

すでに、ヒポナの聖なる司教が言ったではないか。前進しない者は後退する、と。

  あなたには、上手く噛み合わない二つの部分、すなわち頭と感情がある。

信仰に照らされた知性は、道を示してくれるだけでなく、その道を英雄的に歩むか、愚かな歩み方をするか、この両者の間の大きな違いを教えてくれる。特に、三位一体の神が私たちの手にお任せになった事業の、神的な偉大さと美しさを見せてくれる。

それに引き替え、感情は、あなたが軽蔑するものすべて、いま現に軽蔑しているものにさえ執着する。無数の小さな事柄が機会を狙っているようだ。そして、体の疲れからか、超自然的な見方を失ったためか、あなたの意志が弱まったとみる否や、それら小さな事柄が押し寄せてきて、あなたの想像をかきたて、ついには、山となってあなたを苦しめ、落胆させる。仕事の辛さ、従順への抵抗、手段の不足、夢に見る楽な生活、大小さまざまな忌むべき誘惑、めそめそした感情の疼き、疲れ、霊的な生温さがもたらす苦しみなど。そして、時には恐れ、すなわち、聖人になれと神がお望みなのにそうはなっていないことから来る恐れも。

厳しい言い方だが許してほしい。あなたには後戻りする〈動機〉が掃いて捨てるほどあるが、神のお与えになる恩恵に応える大胆さが不足している。もう一人のキリスト、〈同じキリスト〉となるよう召されているというのに。あなたは使徒聖パウロに対する師の訓戒を忘れているのだ。「あなたにはわたしの恩恵で足りる」。これは、望みさえすればあなたにもできるということの確認である。

  盗んだり殺したりさえしなければぼちぼちやっていればよいと考え、自分を善人だと信じ、自分自身に満足し、安心しきって浪費してしまった時間を取り戻しなさい。

まだまだ道は長いのだから、信心と仕事の歩みを速めなさい。あなたにとって煩わしい人々を含め、皆と仲よく生活し、以前あなたが蔑んでいた人々に愛を示す―仕える―努力をしなさい。

  告解のとき過去の―膿だらけの―惨めさをさらけだした。そして、司祭は誠実な医者のごとく、名医のごとく、あなたの霊魂を治療した。必要なところは切除し、完全に消毒が終わるまでは傷口を閉じなかった。感謝しなさい。

  真剣になって取り組むべきことも、スポーツマン精神で始めればすこぶる良い結果が出る。いくつかの局面で負けてしまった。仕方がない、しかし、堅忍すれば最後には勝てるだろう。

  改心しなさい、まだ若いと感じている今のうちに。心が歳をとってから改めるのは、大変難しいものだから。

  〈幸いなる罪〉と教会は歌う。失敗を繰り返さないために役に立ったのなら、また、あなたに勝るとも劣らぬ隣人をもっとよく理解し助けるために役に立ったのなら、再びあなたの耳に囁いてあげよう、幸いなるかな、あなたの罪は。

  誘惑を拒絶した後であなたは尋ねた。主よ、私が…そのように悪い人間だなんてことがあるのでしょうか。

  あなたの診療〈カルテ〉を要約すると、ここで倒れ、あそこで立ち上がった、となる。この二番目が大切なのだ。たとえ亀のようなのろのろ歩きであっても、あなたはその内的な戦いを続けなさい。さあ、前進するのだ。

わが子よ、戦わなければどこまで落ち込むか、よく分かっているだろう。淵は淵を呼ぶのだ。

  あなたは、神と他人の前で、自分のことを恥ずかしく思う。古い汚れがまた姿を現してきたからだ。本能と悪い傾きは、ことごとく敏感に感じられ、心に不安の雲が垂れこめる。しかも、望みもせず予想もしないとき、疲れて意志がふらついているときに限って、誘惑が襲ってくる。

そのような自分の姿を見るとやりきれないが、自分が謙遜かどうかは分からない、とあなたは言う。しかし、神のため、主の愛ゆえに痛みを感じているのなら、その愛から生まれた痛悔のおかげで、警戒心を緩めることはないだろう。戦いは一生続くからである。

  あの時の奉献に再び封印したい、神の子である自分を自覚し、神の子にふさわしい生き方をするというあの決心を、とあなたは強く望んでいる。

あなたの数多い惨めさと不忠実を神の手に委ねなさい。それが重荷を軽くするための唯一の方法である。

  刷新とは緩和することではない。

  黙想会。それは、神を知り、あなたを知り、進歩するための潜心のときである。どの点で、どのようにして自らを改めるべきか、すなわち、何をすべきで何を避けるべきかを見つけるために必要な日々である。

去年と同じことは、二度と繰り返さないように。

「黙想会はどうだった」と尋ねられたあなたは、「ゆっくり休んできた」と答えたのだった。

  沈黙と恩恵の溢れる日々、一対一で神と語り合う日々。

あの人たちを見て、感謝の祈りがほとばしり出た。神が心の扉を叩かれると、年齢や経験から見て重厚なあの人たちが、まだまだ役に立つ生き方ができ、また道に迷った過去や怠りを消すことができると知って夢中になり、子供のように心を開いて応えたからである。

私はあの場面を思いつつ信心生活を送るにあたり、戦いを怠らぬようにとあなたに懇願した。

  〈キリスト信者の助け〉。確信して連祷を唱えなさい。困難に襲われたとき、試しにこの射祷を唱えたことがあるだろうか。子供のような愛情と信頼の心で唱えるなら、勝利に導く聖母マリアの執り成しの効果がよく分かるだろう。

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