軽薄さ

  この世の悲惨な状態を、明敏な頭で考え、それをキリストと共に生きるという豊かさと比較対照させた上で、人々が選ぶ道に決定的な名をつけるとすれば、私の意見では、ただ一つ。すなわち、愚かさ、愚かさ、愚かさ。

私も含めて大多数の人間は間違いを犯すというだけでなく、もっとひどい状態になっている。つまり、この上なく愚かなのである。

  悲しむべきことだが、あなたは土台となる切り石のように誰にも見られずに建物を支えることなどしたくない。ところが、あなたは人々が躓く石にはなりたいらしい…。

 それこそ邪悪な人間のすることではないか。

  騒ぎ回るが何も実行しない悪いキリスト者がいても憤慨しないでほしい。使徒聖パウロが書いているように、「神はおのおのの行いに従って報われる」。あなたの行いに従ってあなたに報い、私の行いに従って私に報われるのである。

もし、あなたと私が良い振る舞いをする決心をすれば、この世からたちまちにして二人の悪党が消えることになる。

  軽薄さに戦いを挑まない限り、あなたの頭は古道具屋の店頭のようなものだ。夢想や虚しい期待、それに、がらくたしか並んでいないからである。

  あなたは中々ずうずうしいところがあるが、それを超自然的な感覚で使えば、すごいキリスト者になるのに役立つだろう。しかし、今のままの使い方をしている限り、この上なくずうずうしいというに過ぎない。

  何でも軽々しく考えるあなたを見ていると、古い笑い話を思い出す。「ライオンだ」という叫びを聞いた無邪気な生物学者が答えたということだ。「関係ない。私が捕るのは蝶々だけだ」と。

  恐ろしい人だ。無知で、おまけに疲れを知らず働く。

歳をとって老いぼれても、よりいっそう深い形成を受ける望みを持ち続けなさい。

  軽薄で利己的な人に固有な言い訳はこれだ。「たとえ何であろうと、身を挺してなんていうのは御免こうむりたい」。

  あなたは善と悪の…いずれをも望まない。そのように両足とも引きずって歩き続けるなら、道を誤るだけでなく、あなたの一生は虚しさで一杯になる。

  〈徳は中庸にあり〉と知恵に溢れた格言は教えるが、それは両極端を

けさせるためである。ところでこの勧めを、楽を求める心、ずる賢さ、生温さ、ずうずうしさ、理想の欠如、凡庸化を覆い隠すための遠回しな言い方であると考えるような間違いはしないように。

聖書のあの言葉を黙想しなさい。「(あなたは)冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。熱くも冷たくもなく、なまぬるいので、わたしはあなたを口から吐き出そうとしている」。

  あなたは決して核心に触れようとしない。いつも表面的なところに留まっている。そんなあなたに聖書の言葉を借りて言わせてもらおう。「あなたは風のようなもの、鳴りわたるだけだ」。

  説教を聞いても、教えを自分には当てはめずに、あの人にぴったりだと他人に当てはめて裁くような人になってほしくない。

  中傷といえども悪気はないのだと考える人が時々いる。彼らに言わせると、中傷とは、無知な人が知らないことや分からないことを、知ったかぶりをするために立てる仮説に過ぎないというわけだ。

しかし、それこそ二重の悪である。すなわち、無知と嘘。

  そんな無責任な喋り方をしないでほしい。あなたが最初の一石を投げると、他人が匿名の石合戦を始めることぐらい分からないのか。

  まわりに居る人たちの間に不満だらけの空気を作り出したのはあなたではないのか。それなら言わせてもらうが、あなたは悪いだけでなく馬鹿である。

  他人の不運や失敗を見て、「やっぱり、初めから思っていた通りだ」と、自分の予想が当たって満足するようなら、まことに悲しいことである。

あなたにとって他人の不幸などどうでもよいということになる。あなたが何とかできたのなら、当然手を打つべきだったのに。

  混乱の種を撒き散らす方法はたくさんある。たとえば、例外を一般的な法則として示すこと。

私はカトリック信者です、とあなたは言う。だから私は余計に悲しくなる。確信があまり固くないので、あなたは途中で止めたり弁解したりする。行動的なカトリック信仰ができていないからである。

  あなたは軽率や無知や劣等感に負けて、あのように馬鹿げた噂をまことに単純に信じてしまった。あれほど痛ましい結果になっていなかったとしたら、笑いの的になるだけで終わったことだろうに。

  愚かな人やずうずうしい人、偽善者たちは、他人も自分と同じだと思っている。そして、さらに悲しむべきは、そういう考えに従って人々に接することである。

  あなたのものではなく、神のもの、神の栄光のためであるはずの時間を浪費するのは良くない。しかし、他人にまで時間の浪費をさせるとなると、おさら悪い。一方ではあなたの評判を落とすことになり、他方では、神に帰すべき栄光をますますだまし取ることになるからである。

  あなたには、一つの理想、一つの目標の実現を確信して進む人に固有な分別と落ち着きが欠けている。聖母マリアに祈りなさい。そうすれば、何ものにも気を取られずに全霊を込めて神を誉め称えることができるだろう。

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