祈り

  自らの義務を自覚していながら、魂があることを思い出しさえせずに丸一日を過ごそうというのか。

毎日黙想するとき、絶えず自らを正さなければならない、道から逸れないようにするためである。

  祈りをなおざりにすれば、最初は霊的な積立金を食いつぶし…、後にはごまかしで生活しなければならなくなる。

  黙想。決めた時間の黙想を、決めた時刻に始めること。そうしないと自分勝手な都合に合わせるようになる。すなわち、犠牲の不足である。ところで、犠牲の伴わない祈りに大きな効果は期待できない。

  あなたは内的生活が不足している。なぜそう言うか、理由を挙げてみよう。

 ―あなたの兄弟に関する心配ごとと召し出しの獲得に関する事柄を祈りの中で考えないから。

 ―物事をはっきりと見、具体的な決心をたて、それを果たす努力をしていないから。

 ―勉強や仕事、会話、付き合いなどにおいて、超自然の見方をしていないから。

あなたの祈りの結果であり、現れである神の現存は、上手くいっているだろうか。

  時間がなかったから祈らなかったって? 時間はあるではないか。それだけでなく、主のみ前で黙想し、仕事を整える努力をしないで、どんな仕事をするつもりなのだろう? 神と語り合わずに、その日の仕事を完全にやり遂げるなど無理な話ではないか? あなたの言い分は、授業をするのに忙しくて勉強する暇がない、と言うに等しい。ところで、勉強せずに良い授業などできるはずがない。

祈りはすべてに優先させなければならない。それが分かっていながら祈りをしていないのなら、時間がないなどと言わないでほしい、ただ単に祈りたくないだけなのだから。

  祈り。もっと祈らなければならない。しかし、今は試験の時期であり、すべきことがいつもより多いときだから、そんなことを言うのは適切ではなさそうにも思える。ところが、祈りが必要なのだ。信心業としてのいつもの祈りだけでなく、半端な時間にも祈り、仕事の合間も馬鹿なことを考えるかわりに祈らなければならない。

一所懸命に努力しても、心を集中させ潜心して祈ることができないのなら、心配しなくてもよい。聖堂の中で楽にできた祈りよりも、その黙想の方にもっと値打ちがあるかも知れないからである。

  神の現存を保つのに効果的な習慣を一つ。イエス・キリストとの謁見を一日の始まりとすること。

  念祷は、修道者の特権ではなくて、神の子であることを自覚するキリスト者全員の務めである。

  もちろん、あなたは自分の道を進まねばならない、すなわち、観想生活への召し出しを受けた活動の人としての道である。

  祈らぬカトリック信者? そんな人は武器を持たぬ兵士と同じである。

「必要なことはただ一つ」、これを分からせるという大変素晴らしいことをしてくださった主に感謝しなさい。そして、その感謝と共に、未だに主を知らぬ人や主のことが分からない人を思い、日々、嘆願することを忘れないように。

  〈あなたを釣ろう〉とする人たちを見て、すべてを焼き尽くすようなあの力と火がどこから出てくるのか、とあなたは自問していた。祈るようになった今、祈りこそ、真の神の子の周囲に湧き出る泉であることが分かったのである。

  あなたは黙想を侮っている。恐れを抱き、匿名でいたいと願い、一対一でキリストと話し合いたくないからではないのか。

たとえ黙想を実行しているという人でも、色々なかたちでこの手段を〈侮っている〉ことはあなたにも分かるだろう。

  念祷とは、神と親しく語り合う時であり、確たる決心をする時である。

  あの人の懇願は、なんとまあ見事に筋の通っていることか。その人は、「主よ、私を見捨てないでください、私の足を引っ張る〈もう一人の人間〉が

いることにお気づきでしょう」と祈ったのだった。

  主は私の心をもう一度燃え上がらせてくださるだろうか? あなたの頭も、心の奥にある希望と呼べる微かな望みも、主は来てくださると保証している。ところが心と意志は―実は心ばかりで意志は不足がちなのだが―、 しかめ面や不愉快なあざ笑いですべてを憂鬱一色に塗りつぶして、あなたを麻痺させ硬直させる。

 聖霊の約束に耳を傾けなさい。「もう少しすると、来るべき方がおいでになる。遅れられることはない。わたしの正しい者は信仰によって生きる」。

  一人の人をまったく夢中にする祈り、つまり本当の祈りの助けになるのは、砂漠の孤独よりも、内的な潜心である。

  夕暮れ間近の野原の真中で午後の念祷をした。こんな経験のない傍観者にしてみれば、かなり奇妙な様子に見えたに違いない。私たちは地面に坐って沈黙を守っていた。そして、その沈黙を破るのは黙想の栞を二、三読むときだけであった。

野原の真中で〈頑張った〉あの念祷、一緒に来ていた人たち皆のため、教会と人々のためのあの祈りは、天にとって喜ばしく実り多きものであった。神とのこのような出会いはどのような所ででもできるのである。

  念祷のときには長距離を歩くようにしてほしい。あなたの生きる国とは異なった国々を眺め、目の前を通る色々な国の人々を見、異なる言葉を耳にするのだ。それはイエスの「行って世界中の人に教えよ」というあの命令のこだまである。

遠いところ、もっと遠いところへ行けるように、まわりの人々を愛の火で燃え上がらせなさい。そうすると、あなたの夢や望みは、もっと早く、もっと多く、もっと上手く、実現するだろう。

  祈りというものは、あるときには頭で考えをたどりながら続け、またあるときには、と言っても数えるほどだろうが、熱烈にもなる。そして、おそらく多くの場合、乾き切った無味乾燥の祈りだろう。しかし、あなたに大切なのは神の助けを得て、気を落とさないことである。

警備に当たる哨兵のことを考えてみなさい。王や国家元首が宮殿にいるかどうかも、何をしているかも知らない。そのうえ、たいていの場合、その重要人物も誰に守ってもらっているか知らないものである。

相手が神の場合、このようなことは起こらない。神はあなたの住む所に住み、あなたのことを気遣い、あなたとあなた自身の心の奥にある思いも良くご存じである。祈りという警備をおざりにしないように。

  祈りを止めさせようとして敵が示す、一連の理由にならぬ理由を考えてみなさい。絶えず時間を浪費しているのに、「時間がない」と言い、また、「私は念祷に向いていない」、「心が乾いている」などと考えさせるのだ。

祈りとは、話すとか、感じるとかとは関係なく、愛の問題なのだ。そして、愛するとは、実際には何も言えないかもしれないが、主にお話ししようと努力することである。

「一分間だけ、一所懸命に祈ればそれで十分」とは、祈ったことのない人の言い分であった。愛する人を一分間だけじっと見つめて、それでよしとするような人に、愛があると言えようか。

  キリストの合戦に加わって戦う―そして勝つ―という理想は、祈りと犠牲、信仰と愛によってのみ実現できるものである。となれば、さあ、祈り、信じ、苦しみ、〈愛そう〉。

  犠牲こそ、祈りという城に入り易くしてくれる跳ね橋である。

  がっかりしてはならない。どんなに値打ちのない人の、どんなに不完全な祈りでも、謙遜に心を上げ、堅忍して祈るならば、神は常に耳を傾けてくださるから。

  主よ、私は悪い人間ですから耳を傾けていただく値打ちもございません。痛悔の心をもつ人がこのように祈ったが、さらに続けて祈った。「主よ、あなたは慈しみ深い御方です」、どうか私の祈りをお聞き入れください。

  主は教えを宣べ伝えるため、弟子たちをお遣わしになったが、戻ってきた一同を集めて、静かなところへ休みに行こうとお誘いになった。イエスはどのようなことを弟子たちにお尋ねになったのだろう、何をお話しになったのだろうか。ところで、福音の教えは今も当てはまる。

  あなたが使徒職について書き寄越したことはよく分かる。「物理学で三時間の祈りをします。もう一つの陣地、つまり図書館で私の反対側にいる人を〈陥落〉させる爆撃となるでしょう。おいでになったとき、会っていただいたあの人です」。

私が祈りと仕事との間に断絶があってはならないと言った時のあなたの喜びが目に浮かぶようだ。

  聖徒の交わり。「神父様、あの日、あの時刻に、私のために祈っていてくださったでしょう」と言ったあの若いエンジニアは、聖徒の交わりを十分に体験したのだった。

人々を助けるための第一にして根本的な手段、それは今も将来も、祈りである。

  朝、身繕いをする間、子供のように、口祷を唱える習慣を身につけなさい。そのあと一日中、神の現存を保つのが楽になるだろう。

  知性と勉学を武器とする人にとって、ロザリオはまことに効果的な助けである。私たちの貴婦人に対して、子供が母親に対するように、一見単調な祈りをするわけだが、その単調さこそ虚栄と自惚れの兆しを根こそぎにしてくれるからである。

「無原罪の処女よ、私はまことに哀れで惨めな人間で、日々罪の数を増すばかりです」。先日、聖母にこうお話ししていたとあなたは言った。

そのとき私は、ロザリオを唱えなさいと自信を持って勧めた。「アヴェ、マリア」の単調さは祝せられますように、これこそあなたの罪の単調さを清める祈りだから。

  悲しいことだが、ロザリオを祈らないための手段が一つある。それは一日の終わりまで祈らずに放っておくことだ。

これから寝ようというときに祈るなら、せいぜいやる気のない祈り、玄義(神秘)の黙想などおぼつかない。そんなことをすれば、惰性に陥るのは目に見えているし、本当の信仰心、それも唯一その名に値する信心は死んでしまう。

  ロザリオとは、口だけを動かして「アヴェ、マリア」を次から次へと、ぶつぶつ言いながら唱えることではない。そのくらいなら、いわゆる信心ぶった人たちも実行している。キリスト者の場合、口祷とは、心に根を下ろしたものでなければならない。ロザリオを唱える間、心が一つひとつの玄義の中に入り込み、黙想するのである。

  あなたはいつもロザリオを後回しにする。そして、挙げ句の果ては眠気に負けて祈らずじまい。ほかに時間が見つからないのなら、人に気取られないよう注意しつつ、道を歩きながら唱えなさい。神の現存を保つのにも役に立つだろう。

「私のために祈ってください」。いつものようにこう頼んだら、その人はびっくりしたような顔で、「何か、あるんですか」と尋ねた。

そこで私は説明しなければならなかった。誰にでもいつも何かがあり、また、何かが起こるでしょう、と。そして、祈りが不足すると、「もっとたくさんのことが起こり、もっと負担に感じるようになる」と言い足しておいた。

  一日中なんども痛悔の祈りを繰り返しなさい。絶えずイエスを侮辱しているが、同じペースで、つまり、絶えず償いをする人はいないからである。

だからこそ、常々、痛悔の祈りは多い方が良いと繰り返してきたのである。あなたの行いと勧めで、私の言うことを人々に伝えなさい。

  お告げの場面はたまらなく好きだ。幾度、黙想したことだろう。マリアは心を潜めて祈っておられた。神とお話しするために、五感と全能力を注ぎ込んでおられたのである。神のみ旨を知るのは祈りにおいてであり、み旨を自分の生活の一部にするのも祈りにおいてであった。聖母の模範を決して忘れないように。

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