十字架を担う

 イエスは自ら十字架をにない、ヘブライ語でゴルコタ、すなわち「されこうべ」と呼ばれる場所へ向かわれる(ヨハネ19,17)。兵卒たちは、田舎から出てきたキレネ生まれのシモンを捕らえて主の十字架を背負わせ、イエスのあとからこれを運ばせた。

「彼は悪人の一人に数えられた」という、イザヤ(53,12)の預言は実現した。

 盗賊であった二人の悪人が、主とともに刑を受けるために引かれていったから(ルカ23,32)。

 わたしのあとに従おうと思うなら…。友よ、わたしたちは主イエスの受難を目の当たりにして、悲しみに沈む。どれほどの愛を込めて十字架を抱いておられるか、よく見ておきなさい。主に教わるのだ。イエスはあなたのために十字架を担ってくださるのだから、あなたもイエスのために十字架を担わなければならない。

 ただし、十字架は引きずるものではない。肩にかついで運ぶものなのだ。そうすれば、あなたの十字架はただの十字架ではなく…、聖なる十字架となるだろう。仕方なく担ったりはしないでほしい。諦めは狭い心の表れである。十字架を愛するのだ。心から十字架を愛するなら、あなたの十字架は…、もはや十字架(苦しみ)とは言えない。

 そうすれば、イエスと同じようにあなたも、道行きの途中で必ず、マリアに出会うだろう。

この点を別の言語で