悲観

 神の恩恵を受けて、不可能なことに着手し、それを実現させなさい。可能なことなら、誰でもするのだから。

 悲観を捨てなさい。傍に悲観主義者を置かないようにしなさい。自分のことを忘れて朗らかな心で神に仕えなければならない。

 あなたをそんなに慎重に、というより申し訳ないがはっきり言わせてもらえば、臆病にさせる人間的な思慮分別を捨てなさい。

 料簡の狭い人間、子供っぽく近視眼的で、超自然的な見方のできない男女であってはならない。私たちは自分のために働いているのだろうか。答えは否、である。

 それなら臆面なく申し上げよう。私の心のイエスよ、あなたのため働いております。それなのに物的な手段をくださらないのですか。私たちがさもしい存在であることは、よくご存じです。ところで、私なら自分に仕えてくれる召使に対してあなたのような扱いはいたしません。

 ですから、あなたに仕えるために必要なものはすべてお恵みくださると希望し、確信しております。

(信仰の行為)信徳唱。神に逆らうことはできないし、神の人々に逆らうこともできない。この事実を忘れてはならない。

 挫(くじ)けてはならない。頑固に前進に前進を重ねなさい。そのような頑固さは聖なるものであり、霊的な面での頑固さは堅忍と称される。

私の神よ、あなたは私たちが本当に必要とするものなら何でもお与えになります。

 あなた自身が、以前と比べてずっと悪くなったわけではない。自らを知るための光が以前よりもいっそうふんだんに与えられているのである。わずかな落胆の兆しも避けなさい。

 それぞれが聖性の道を歩むにあたり、進歩するどころか退歩しているかのような印象を受けることがある。良くなるかわりに悪くなっているように思えるのである。

 内的な戦いを続けている限り、そのように悲観的な思いは錯覚であり誤りであるから、拒まなければならない。

 心を騒がせずに堅忍しなさい。粘り強く戦っている限り、前進し、あなたの聖化も実現できるから。

 内的な乾燥状態とは、生温さのことではない。生温い人の場合、恩恵の水は浸透せず、流れ去る。ところが見たところ不毛な乾燥地であっても、少しの雨が降ればやがて時が来て花が咲き、美味しい実を結ぶ土地がある。

 それなのに、私たちは一体いつになったら納得するのだろう。各瞬間の神の呼びかけに対して素直に応えることが、すこぶる大切なのである。神はそこで私たちを待っておいでになるのだから。

 聖なる〈ずる賢さ〉を実行しなさい。主が困難をお送りになるまで待つ必要はない。自ら率先して自発的な償いをしなさい。そうすれば、諦めの(古くさい言葉)でなく、愛の(永遠に若々しい言葉)で困難を受け入れることができる。

 あなたは今日初めて、何もかもがもっと単純になり、すべてが〈簡単〉になったと感じ、心配の種がついに除去できたことがわかった。そして、父なる神の腕に自らを委ねれば委ねるほど、より豊かでより良い結果のでることが理解できた。

 ぐずぐずせず、常に神の子として生きることにしなさい。それこそ、あなたの生活の原動力なのだから。

 神の御母・神の娘・神の花嫁・私たちの母である処女マリアにお願いして、三位一体の神がもっとたくさんの恩恵、すなわち信仰と希望と愛の恩恵、痛悔の恩恵をくださるよう、取り次いでいただきなさい。この世に生きる間、花々を枯らすほど乾燥した強い風が吹くように思えても、あなたの、そして兄弟たちの心の花を枯らしてしまわないためである。

 信仰と確信に満ちていなさい。主はエレミヤの口を借りて仰せになる。「あなたたちがわたしを呼び、来てわたしに祈り求めるなら、わたしは聞く」。私に願えばいつも、祈りさえすれば常に、聞き届けてあげよう。

私の神よ、すべてをあなたに〈差し向け〉ます。父であるあなたから離れてしまったら、一体、私はどうなることでしょう。

 経験者の勧めに耳を傾けてほしい。あなたは祈りの生活を営まなければならないわけだが、それは〈子供の祈り〉のように信頼しきった祈りでなければならない。

 一人の病人がイエスのもとに連れて来られた。イエスは彼をご覧になり、「子よ、元気を出しなさい」と仰せになる。この場面をじっくりと眺め、主の言葉を黙想しなさい。

 過ちに打ちひしがれているとき、同じように、「信仰だ」と主は仰せになる。まず信じること、次いで、中風者のようにすべてを主に委ねる。つまり内的な恭順と従順の態度を示さなければならないのである。

 子よ、自分の力だけでは超自然の分野で何もすることができない。ところが神の道具になれば、すべてが可能になる。「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」。主は真に良い方だから、あなたや私のように役立たずの道具でも使ってくださるのである。

 祈るときはいつも、福音書に登場する病人のように信じて祈りなさい。イエスが聞き入れてくださることを確信していなければならない。

 御母よ、世の母親はみな、最も弱い子、最も病身の子、最も出来の悪い子、かわいそうに障害をもつ子を他の誰よりもかわいがるものです。

 聖母よ、あなたが世界中の母親全員を合わせても決して及ばぬほど素晴らしい御母であることはよく知っています。ところで、私はあなたの子です。しかも弱く病身で、障害をもつ醜い子なのです。

私たちは信仰が足りない。神とその御母を信頼してこの徳を実行するなら、勇気と忠誠心を備えた人間になるだろう。常に神である御方は私たちの手を使って奇跡をなさるだろう。

 イエスよ、このような信仰をお恵みください。私は心からそれを望んでいます。私の母、私の貴婦人、いとも聖なるマリアよ、私が信じる者となるようお助けください。

 堅い決心を一つ。自分の惨めさも含め私自身をイエス・キリストに委ねる。主のお望みが、各瞬間毎に〈なれかし〉、つまり実現するためである。

 決して落胆してはならない。主はあなたに必要な新たな改心のため、超自然的な分野で進歩するために、必要な恩恵を与えようと常に待ち構えていてくださるのだから。

 神は賛美されますように。あなたはゆるしの秘跡に与った後でこう祈った。生まれ変わったと考えたのである。

 その後、「主よ、私がどうすることをお望みですか」と落ち着いて尋ねた。

 答えを出したのは、あなた自身だった。あなたの恩恵の助けで、何があろうとすべてを差し置いて、あなたのいとも聖なるみ旨を果たします、何ら条件を付けずに〈仕える〉覚悟です。

 福音書によると、博士たちは「星を見て」、つまり再び星を見つけて大いに喜んだ。

 子よ、彼らはやるべきことをすべてやり遂げたからこそ、無限の喜びを感じたのだ。探し求める者を決して見捨てられない王のもとへ必ず到着できると確信していたから、喜んだのである。

 神のみ旨を本当に愛するなら、極端に動揺しているときでも、永遠の愛・限りなく深い愛情をもって常にあなたの傍ら、すぐ近く、間近におられる天の御父が、見えなくなることはないだろう。

 あなたの内的生活や霊魂が闇に包まれていると思えるなら、盲人のように手を取って導いてもらいなさい。

 しばらくすると、主はその知恵の服従という屈辱の報いとして光をお与えになる。

 何か、あるいは誰かを、中でも霊魂の導き手(霊的指導者)を恐れるというのは、神の子にふさわしくない態度である。

 自分の母親を愛情のこもった言葉で褒めてもらったら、感動するのではないだろうか。

 主とて同じこと、イエスを御母から離すことはできない。

 疲れや嫌気に襲われたなら、信頼をもって主に近づき、あの私たちの友を真似て申し上げなさい。イエスよ、あなたが何をなさるべきかご存じでしょう。私は戦いを始める前から疲れています。

 主はご自分の力を与えてくださるだろう。

 難しくない仕事なら、人間的にも超自然的にも、おもしろみがない。手応えのない壁に釘を打ったところで、ものを掛けることはできないだろう。

 自らを無に等しいと認めるあなたともあろう人が、神の恩恵の邪魔をするなんて信じられない。

 そうなるのはあなたの偽りの謙遜、あなたの思う〈客観性〉、あなたの悲観のなせるわざである。

私自身にかかわるすべてを放棄できるよう、恩恵をお恵みください。私はあなたの栄光、つまりあなたの愛以外のことを心配すべきでないからです。すべては愛なる御方のために。

「これ ― 王が生まれたこと ― を聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」。

毎度のことである。同じことが今も起こっている。様々なかたちで現れる神の偉大さを見てうろたえる人がいるが、権威ある地位に就いている人々の中でさえ、そういう態度が見受けられる。神を愛していないから、本当に神との出会いを望んでいないから、神の霊感に従おうとせず、神への道の邪魔をしているのである。

 そうならないよう、気をつけていなさい。心配せずに働きを続け、主を探し求め、祈りなさい。主は凱旋なさるだろう。

 独りぼっちではない。あなたも私も孤独なはずがない。マリアを通ってイエスのもとへ行くなら、おさらのこと孤独ではあり得ない。マリアは私たちを見放すような母ではないのだ。

 主に見放されたと思えるときも、悲しんではならない。もっと必死になって主を探し求めなさい。愛である神があなたを独りぼっちになさることはないのだ。

万一、あなたを〈独りぼっち〉になさるとすれば、それは愛するがゆえのこと、あなたの生活のうちで神のものと、あなた自身のものとをはっきり区別してお見せになるためである。

 あなたは言った。「道を進むことができない。そればかりか、惨めな私は恩恵の奇跡でもない限り、救いさえおぼつかないように思える。私は冷淡になっている、というよりもっと悪いことに、無関心な態度をとっている。自分を一つの事例と見做(みな)して気にも留めない第三者のようになってしまっている。不毛な日々なのだろうか」。

 「しかしそれでも、聖母はあくまで私の母であり、思い切って言ってもかまわないだろうか? ― イエスは私のイエスである。それのみか今も、私のために祈っている聖なる人たちがいる」。

 私は答えておいた。御母の手に掴まって歩みを続けなさい。〈勇気を出して〉イエスに、「あなたは私のものです」と申し上げなさい。主は優しい方だから、霊魂に明るい光を注いでくださるだろう。

 イエスよ、キレネ人(担い手)のない十字架をください。間違いました。何をするにも、あなたの恩恵と助けが必要です。あなたが私のキレネ人であることは存じております。私の神よ、あなたが居てくだされば、どんな試みも恐れません。

 しかし、十字架が嫌悪や悲しみになったら、どうすればいいのでしょうか。主よ、あなたと一緒ならば、喜んで悲しむ覚悟があります。

 あなたを失いさえしなければ、私にとって苦しみと呼べる苦しみは存在しません。

 イエスは誰にでも言葉をかけてくださる。それは、癒し、慰め、照らす言葉である。

これこそ、あなたと私が、常に、そして仕事や困難の重さにうちひしがれているときにも、思い出すべきことである。

 仕事をしても、人々の称賛を期待しないように。

 それだけでなく、あなたと同じようにキリストのために働く人たちや組織が、時には、理解してくれることも、期待しないようにしなさい。

 ただただ神の栄光のみを求め、すべての人を愛し、理解してくれない人々がいても気にしないように。

 悪魔の望みを、主が容認なさるときがあるから、山や障害物、無理解や争いがあっても、信仰、行いに現れる信仰、犠牲を伴う信仰、謙遜な信仰を持っていなければならない。

 見たところ使徒職の実が結ばないのを知り、信仰によって頑として拒絶するとは言え、落胆の大波が襲いかかり始めた。しかし、謙遜で生き生きとした行いに現れる信仰がもっと必要なことは分かっている。

あなたは人々の霊魂の健康を望んでいるのだから、悪魔にとり憑(つ)かれて病む子の父親のように叫びなさい。「信仰のないわたしをお助けください」と。

 疑ってはいけない。奇跡は繰り返されるだろう。

 宗教を憎む人たちによって牢に入れられた司祭がいたが、その司祭のためにあの友が唱えた祈りは本当に美しい。繰り返す値打ちがある。「私の神よ、彼を慰めてやってください。あの司祭はあなたのために迫害を受けています。あなたに仕えているという理由で大勢の人が苦しんでいるのです」。

 聖徒の交わりは、なんと大きな喜びを与えることだろう。

 あちこちの政府が自国での信仰を抹殺するためにとる手段を見ていると、イエスの墓に付された最高法院の封印を思い出す。

 何者にも何事にも束縛されなかった主は、そのような障害物をものともせずに復活されたのだ。

 解決法は愛することである。使徒聖ヨハネが書き記した言葉は本当に胸に堪(こた)える。「恐れる者には愛が全(まっと)うされていない」。

 私は、ほとんど文字通りにではあるが、次のように言い替える。すなわち「恐れる者は、愛することを知らない」。

 したがって、愛する心を持ち、愛することを知っているあなたにとって、恐れるものは何もない。さあ、前進しなさい。

 神はあなたと一緒においでになる。恩恵の状態にある霊魂には、至福なる三位の神が住んでおられる。

 だから、たとえ惨めなところがあっても、あなたは絶えず主と話を続けることができるし、またそうしなければならない。

 常に、いつも祈らなければならない。

 内的生活の一つひとつの失敗や成功の後で、神に助けを求める必要を感じなければならない。

 あなたの祈りが常に誠実で真の神礼拝になるように、と願う。

 主はあなたを教会に導き入れるにあたり、洗礼の秘跡によって霊魂に消えない印を押してくださった。すなわち、神の子としての印である。これを忘れないように。

 イエスに感謝しなさい。キリストによって、キリストと共に、キリストにおいて、自らを神の子と称することができるのだから。

 天におられる御父のお気に入りの子であると感じることができれば、― 事実、その通りなのだが ― いつも喜びに溢れていないはずはないだろう。考えてみなさい。

 あの司祭はご聖体を与えるとき、「ほら、今、あなたに幸せそのものを渡しますよ」と叫びたかった。

 ご聖体に対する信仰を大きくしなさい。言語を絶するこの現実を前に驚嘆しなさい。神はすぐ傍に居てくださり、毎日お受けすることができる。そして望みさえすれば、友と語るように、兄弟と話すように、父親と話すように、愛なる御方と語り合うように、主と親しく語り合うことができるのである。

 キリスト者 ― 神の子 ― としての召し出しのなんと美しいことか。それは、世間が与え得ない喜びと平和を、すでにこの世で与えてくれる。

 主よ、あなたをお愛しするとき私が持つべき愛を、お恵みください

 あの朝、あなたを襲ってきた悲観を克服するため、いつものように守護の天使の助けを執拗に頼んだが、今回はもっと徹底的に〈助けを要求した〉のだった。甘い言葉を投げかけ、せめて守護の天使と同じくらいイエスを愛するにはどうすべきか教えてほしいと言ったのだった。すると、平静な心が戻ってきた。

 あなたの母マリア、聖ヨセフ、守護の天使に、不作法なあなたがどう表現したらよいのか分からないことを、主に伝えてくださるよう願いなさい。

 大船に乗った気持ちでいなさい。私たちの母は神の御母、いとも聖なる処女マリア、天と地の元后(女王)なのだから。

 イエスはベツレヘムの洞窟でお生まれになった。聖書によると、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」のである。

 イエスは今もあなたの心の中に宿を求めておいでになると言っても、神学上の真理から離れたことにはならない。

 主は十字架の上で仰せになる。私は苦しんでいるが、それは私の兄弟である人々が天国においてだけでなく、できる限りこの地上においても、天の御父のいとも聖なるみ旨を果たして幸せになってほしいからである。

 確かに、あなたの心の中ですべてをなさるのは神であって、あなたが自分でできることは何もない。

 しかし、〈恩恵への〉応じ方という点を考えれば、あなたが何もしないのはよくない。

 たとえ骨が折れても、主のみ前であなたの努力が無駄骨になることはないと確信し、神のために仕事を最後まで立派にやり遂げる。このようにすれば希望の徳が実行できる。

 ほとんどが多くの小さな事柄で織りなされている日々の戦いにおいて、あなたが絶えず神をお喜ばせしたいという望みをもち、それを行いに表すなら、〈何も無駄にならない〉と保証できる。

 主はなんて良い御方なのだろう。私を探し求めてくださった。私が効果的な働きをし、すべての人々を愛し、人々に平和と喜びを与えるための聖なる道を教えてくださった。そう考えなさい。事実その通りなのだから。

 その後で、その考えを具体的な決心に表しなさい。

 神は永遠の昔からあなたを選んでくださったのだから、神の恩恵が不足することはないと分かっている。そしてそういう風に扱ってくださったのであれば、あなたが神の子として忠実を保つために必要な助けも与えてくださるだろう。

 だから安心して歩むと共に、各瞬間毎に神に応える努力を続けなさい。

私は神の御母に、「できれば私たちに微笑(ほほえ)みかけてください」とお願いする。聖母はきっと微笑んでくださるだろう。

 それだけでなくこの世においても、私たちの物惜しみしない一つの行いに千倍の褒美をお恵みになる。働き一に対して千倍の報いをお願いしよう。

 喜びに満ちた優しくて強い愛徳、人間的であると同時に超自然的な愛徳、常に心から微笑んですべての人を受け入れ、人々の考えと気持ちを理解する愛情のこもった愛徳を実行しなさい。

 このように、自分の振る舞いと教会の教えについては譲歩せず、キリストの愛徳を優しく強く、そして立派に実行するなら、征服者の精神を身につけるだろう。人々のために働きたいという望みが日毎に増してくるのである。

 子よ、私は確信をもって言っただろう。私たちの〈狂気〉を他の使徒たちに移そうとすれば、必ず困難に出遭う、と。中には克服できそうにない困難もあるだろう。しかし、「山の狭間(はざま)にも、小川は走る」。山々の間にも水は流れるのである。超自然の精神と私たちの熱意に溢れた勢いがあれば、山々に穴を開けてでも困難を克服するのである。

「わたしの神、わたしの神よ、あなたによって、あなたのうちに、あなたと共に、皆が同じように愛されていました。ところが今は、皆が散り散りばらばらになっています」。あなたは再び独りぼっちで人間的な手段を持たない自分を見て、不平を言っていた。

 しかし直ぐに、主がすべて解決なさるという確信が与えられた。そこで、「すべてを整えてください」と、主にお願いしたのだった。

 事実、主はあなたが期待したよりも早く、より多く、より立派に、すべてを整えてくださったのである。

 御父と御子と聖霊が処女マリアに全被造物の上に立つ貴婦人・元后としての冠を被せられたのは、真に尤(もっと)もなことであった。

 聖母の力を思い切り活用しなさい。子供のように大胆に天の祝いに加わりなさい。私は自分の惨めさを清めて冠とし、それを神の御母・私の母の頭に戴(の)せよう。私には宝石も徳もないからである。

 元気を出してやってみなさい。

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