永遠

 神の子なら、生命も死も恐れない。神の子としての精神が内的生活の基礎となっているからである。神は私の父であり、すべての善の創り主、善そのものであると考えているからである。

ところで、あなたも私も本当に神の子らしい生き方をしているのだろうか。

私の言ったことを理解してくれたので本当に嬉しかった。「あなたと私は愛することを知っている人らしく働き、生き、死ななければならない。そうすれば、永遠に〈生きるだろう〉」、私はそう言ったのだった。

 主は常に勝利を得られる。あなたが主の道具になれば、やはりあなたも勝利を得るだろう。そのとき、あなたの戦いは神の戦いとなっているからである。

 聖性とは、一生を通して忠実を保つために戦い、死が訪れたときは神のみ旨を喜んで受け入れること、これに尽きる。

 ご聖体の主を拝領したときは、あなたと共にいてくださる主の優しさに心の底から感謝しなさい。

 救い主の降臨が実現するまでに幾世紀もの歳月を待たなければならなかったことを考えたことがあるだろうか。太祖や預言者たちがイスラエルの民全体と共に、「地は渇いています。主よ、来てください」と祈り続けたのだった。

 愛を待つあなたもこのようであって欲しい。

 神を否定する人の居る現在でも、地は天のすぐ近くにある。

 あなたは次のように書いていた。「『天の国は宝が隠されている畑』。福音書のこの一節は、心に落ちて、しっかり根を張った。幾度も読んだ箇所であったが、その時までその核心の神的味わいを捉えることができなかった」。

 分別のある人は、栄光に輝く素晴らしい宝・真珠を手に入れるためなら、すべてを売り払うはずである。

 聖母マリアに話しかけ、信頼を込めて申し上げなさい。「聖母よ、神が心に注がれた理想を実現させるには、高く、高く、非常に高くまで飛び上がらなければなりません」。

 神の御助けを得て、土に過ぎないこの世のものから離脱するだけでは、十分とは言えない。さらに、天に近づくためには、たとえ宇宙全体を山積みにしてあなたの足下(あしもと)に置いたとしても、まだ十分とは言えない。

 地上の事物を頼りにせず、聖霊のみ声とささやきに耳を傾けて、舞い上がる必要があるのだ。「しかし」とあなたは言う。「私の翼は汚れています。汚れてべたべたした何年分もの泥がこびり付いているのです」。

 処女マリアの御名をお呼びしなさい、と私は重ねてあなたに勧めた。「舞い上がることさえできません。この世が呪われた磁石のごとく私を引き寄せます。聖母よ、あなたなら、わたしが栄光に輝く決定的な飛行を始め、やがて神の聖心に届くよう、お助けになることができます」。繰り返し、こう申し上げなさい。

 必ず聞き届けてくださるから、信じてお任せしなさい。

 主のために焚(た)く香(こう)がどれほど神をお喜ばせできるか考えてみなさい。始まった途端に終わるこの世のものが、いかに値打ちのないものであるかについても考えなさい。

 それに対し、天では偉大な愛があなたを待っている。裏切りも欺(あざむ)きもない、愛そのもの、美そのもの、偉大さそのもの、知恵そのものでありながら、うんざりさせない。すなわち、飽(あ)かせることなく満足させ、いくらでも欲しくなる愛が待っているのだ。

 超自然的な見方、落ち着き、平和。このように、つまり永遠の目で、人と物事と出来事を眺めなさい。

 そうするなら、たとえ人間の力ではどうにもならないほど厚く高い壁が道を塞いだとしても、本気になって目を天に上げるだけで、それらすべてがちっぽけなものに見えてくる。

 キリストの傍に居て、キリストの跡に従うなら、地上の物事からの離脱や清貧、種々の欠乏や不足を心から愛さなければならない。

 霊的生活においては、天国で勝利を得るため、しばしば地上で敗北を喫(きっ)するべきである。そうすれば、常に勝利を得ることができる。

 現世的な事柄について〈いつまでも〉というのは嘘である。どこから見ても嘘偽りなく真実なのは、永遠の〈いつまでも〉だけである。このように、すなわち真の〈いつまでも〉と言える永遠を思うとき、蜜の味と天の甘美を味わわせてくれる信仰を持って生きなければならない。

 現世しかないとすれば、一生は残酷な冗談となる。人生が、偽善、邪悪、利己主義、裏切りとなるのだ。

 まことに小さな存在 ― 無 ― に過ぎないあなたであっても、喜んで努力を続け、前進しなさい。

 神と一緒であれば、この世であなたの歩みを妨げる者はいないだろう。また次のことも考えなさい。神を愛する人にとってすべては良いものである。この世では死以外のすべてが解決可能であり、私たちにとって死は〈生命〉である。

 主よ、あなたは人間を救うため十字架の上で死去されます。それにもかかわらずあなたは、たった一つの大罪を犯した人を断罪し、永遠の苦しみという不幸へ落とされます。あなたにとって罪はなんとひどい侮辱なのでしょう。私は徹底的に罪を憎まなければなりません。

 大聖テレジアは、「祈りをしない人なら、悪魔が誘惑するまでもありません。毎日十五分の祈りさえすれば、必ず救われます」と保証している。苦しいときも、心が冷たいときも、神との優しくて温かい語り合いがあれば、生活の本当の意義と正しい値打ちを知ることができるのである。

 祈りの人になりなさい。

「すると、あなたは王か?」、そう、キリストは王である。そして王は、あなたが望むとき謁見をお認めになるだけでなく、愛に捕(とら)えられ、あなたにはまだ行くことができない天の素晴らしい宮殿を捨てて、聖櫃の中であなたを待っていてくださる。

 急いで近づき、もっと忠実に主と話し合わないなんて、愚かなことだと思わないのだろうか。

 天国の幸せは、この世に幸せでいることのできる人が手に入れる。私のこの確信は日毎に強くなる。

 現世と永遠の幸せを得るための方法・秘訣が真昼の太陽に照らされたようにはっきり見える。それすなわち、神のみ旨に順応するだけでなく、意志の積極的な行為によって神のみ旨と一致し、それに固執すること、一言でいえば、神のみ旨を愛することである。

 繰り返すが、これこそ喜びと平和を得るための最も確実な秘訣である。

 幾度も幾度も神の恩恵に満たされ、酔っていると言えるほどの状態であることに気づくだろう。それにもかかわらず、恩恵に応じないとすればなんと大きな罪になることだろう。

 誘惑に襲われたときは希望の徳を実行して、次のように言いなさい。「永遠の休息と喜びが私を待っている。今は信仰に満ち、働きによって休息を得、苦しみを通して喜びを得るときだ。天国ではどのような愛を得ることができるのだろうか」。

 もっと良いのは、愛を実行して、次のように反応することである。「すべてにおいて神のみ旨を果たし、私の神・私の愛する御方をお喜ばせしたい。賞も罰も考えず、ただただ神をお喜ばせするという目的のために神のみ旨を果たそう」。

 時には稲妻のように、また時には追い払っても舞い戻ってくる汚くてうるさい蝿(はえ)のように、意向が正しくなかったのではないかという不安が襲ってきたら、いつもすぐに意向を正し、主によって、主と共に、落ち着いて仕事を続けなさい。

 ついでに、口先だけのように思えても、「主よ、私のためには何も欲しくありません。すべてはあなたの栄光のため、あなたの愛のためにいたします」と、ゆっくり申し上げなさい。

「ここに居るのも中国に居るのも私にとっては同じことです」と、あなたは言った。

 それなら、神の聖なるみ旨を果たせるところに居るようにしなさい。

 大勢の人が闇に留まらず、永遠の生命に至る道を歩むか否か、これもあなた次第である。

 あなたが接する人々、一人ひとりをそれぞれの守護の天使の保護に委ねなさい。その人たちが善良で忠実、しかも朗らかでいることができるため、また定められたときに、父なる神、子なる神、聖霊なる神、聖マリアの、永遠の愛を受けることができるためである。

私たちは、麦の粒と同じく、実を結ぶために死ななければならない。

 あなたと私は神の恩恵を受け、深くて光り輝く道を拓(ひら)いて行きたいと思う。そのために哀れな動物的人間(古い人)を捨てて霊の分野に飛び出し、人間が携わるすべての仕事とそこで働く人々に、超自然的な意味を伝えなければならない。

 イエスよ、あなたと語り合うときは世間のことを思い出さず、この世の事柄を相手にするときは注意散漫となりあなたを思い出すことができますように。

 あまりにも光が強すぎて、見つめることはおろか、見ることさえ難しいのではないかと、あなたは少し恐れた。

 あなたの明らかな惨めさに対して目を閉じ、心の目を信仰と希望と愛に向けなさい。そして人間を通してあなたをお導きになる御方にすべてを委ねて、道を歩み続けなさい。

 寛大になりなさい。イエスにはわずかの慰めを求めないようにしなさい。

 あなたは「なぜ?」と問うた。あなたたちも知っているように、私たちの神は遠くにおられるようでも心の真ん中に座を占めておいでになり、生活全体に神的な彫りと深みを与えてくださるからである。

 あなたに話したように、洗礼を受けていない人でさえ感動して言っていた。「本当に、聖なる人は幸せであって当然です。地上の事柄を超越した目でこの世の出来事を眺め、永遠の目で物事を見るからです」。

 その後で、「三位一体の神がお与えになった寵愛にふさわしい生き方ができるよう、超自然の見方を失わないようにしなさい」と、私は付け加えた。

 あなたに保証しよう。神の子らが望みさえすれば、主が私たちの心に委ねられた ― 永遠の ― 神的な光で、人々の仕事と生活を照らすため、大いに貢献できる。

 しかし聖ヨハネが教えるように、「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」。必ず栄光に至る道を歩むわけだが、その道は必ず犠牲を通って行くのである。

 偽(にせ)の使徒の光を見た人々は、闇から出てその明るさに近づいたとき、がっかりすることだろう。そこへ行くには走らなければならなかった。道の途中で皮膚が傷だらけになることもあっただろう。光を渇望するあまり魂をずたずたにした人もいただろう。そしてやっと偽の使徒のもとに着いたと思ったら、あるのは冷淡さと闇。わずかのあいだ理想を信じた人たちの傷ついた心を満たすのは冷淡さと闇のみである。

 偽の使徒の邪悪な仕業である。燃え上がる火や素晴らしい愛徳のルビーとであれば、自らの肉体さえ交換する覚悟でやって来た人々も、がっかりして再び元のところへ落ちて行く。燃え尽きた心、心と呼べない心、やがて頭脳さえ真っ暗にするような闇に包まれた一片の氷のごとき心で、落ちて行くのである。

 矛盾だらけの偽の使徒よ、自らの仕業を見よ。口先でキリストの名を呼ぶが、お前の行いはキリスト不在である。自分が持たない光で人を引き付けるが、愛徳の熱は持っていない。見知らぬ人を気遣うふりはするが、仲間のことは無視する。お前は嘘つきで、嘘は悪魔の申し子である。だからお前は悪魔のために働き、私たちの主に付き従う人々を迷わせる。そしてこの世でしばしば勝利を得るとしても、哀れな人間よ、私たちの友なる死の訪れる日、お前が決して欺(あざむ)き通せなかった審判者の怒りを目にするだろう。主よ、矛盾は嫌です。矛盾だらけの生き方は決してしたくありません。

 確実な道を教えよう。恥辱を通って十字架へ、そして十字架からキリストと共に、御父の終わりなき栄光へと向かう道である。

その日のミサの書簡は本当に嬉しかった。聖霊が聖パウロを通して不滅と栄光の秘訣を教えてくださるのである。人間は誰でも永遠に生きたいと切に望んでいる。

 自分が幸せだと思う生活の瞬間を永遠にしたいと望み、自分についての思い出を称えたいと思っている。私たちは自分の理想を不滅にしたいと望むのである。だから、見せかけの幸せを感じるときや孤独を慰めてくれるものがあるとき、誰もが自然に、〈永遠に、永遠に〉と言い、またそう願うのである。

 悪魔のなんと賢いことか。人間の心を知り尽くしている。人祖に、あなたたちは神のようになる、と言った。実に残酷な嘘であった。聖パウロはフィリピの信徒への手紙の中で、不滅と栄光を得るための神的な秘訣を教えてくれる。イエスは僕の身分になり、自らを無とされた。へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であった。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになった。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名に跪(ひざまず)いた、と。

 栄光のキリスト、決定的な勝利を得たキリストのお伴をするには、その前に主の燔祭に与り、カルワリオで死去されたキリストとひとつになる必要がある。

 気を散らしてはならない。想像力を野放しにしてはいけない。あなた自身の中で生きなさい。そうすれば、もっと神の近くに居ることができるだろう。

 あの人にも、この人にも、すべての人の耳元で繰り返したいので手伝ってほしい。信仰のある罪人なら、たとえこの世のあらゆる幸福を手に入れたとしても、必ず自分が不幸で惨めな存在であることを感じるものである。

 確かに、たとえ小罪であっても罪を憎む動機は ― 誰もが持つべき動機だが ― 超自然的でなければならない。神は罪を無限の善に反する悪として、神の無限性をもって、最高に、永遠に、必然的に憎まれるからである。ところで、最初に述べたことを考えると、二番目に述べた考えに導かれるだろう。

 愛なる方のために捧げる犠牲が多ければ多いほど、それだけ高い聖性が得られる。

 激しい迫害が猛威を振る始めた。そこで、あの司祭は祈った。イエスよ、汚(お)聖(せい)の放火がなされるごとに、私の愛と償いの火をより大きくしてください。

 使徒職の偉大さと効果に思いを馳せると ― なんと大勢の人が待っていることか ―、走るべき道程の長さを思って頭が痛くなるが、同時に、自らを奴隷としてイエスに捧げることの幸せを感じる、と言う。十字架、苦しみ、愛、そして人々の救いをあなたは熱望している。考えたわけではないが自然に、愛に動かされて、腕を広げ、両手を開いた。イエスがあなたを幸いな十字架に釘づけになさるため、〈わたしは仕えます〉、わたしをご自分の奴隷になさるためである。ところで、奴隷になるとは支配することである。

 あなたの口から出る、燃えるがごとき嘆願を聞いて私は感動した。「神よ、あなたの目に喜んでいただけることだけを望んでいます。それ以外はどうでもよいのです。無原罪の御母よ、私が愛だけを動機として生きるよう、お助けください」。

 神を侮辱するくらいなら、その前に死を、何千回もの死を心から願いなさい。

 そして罰を受けるのが当然とは言え、罪に対する罰を恐れてではなく、イエスは今も昔も非常に優しい方であるから、そう願いなさい。

私の神よ、いつになったらあなたのためだけを考えて、あなたをお愛しすることができるのでしょうか。よく考えれば、主よ、あなたはご自身を報いとしてお与えになりますから、不滅の褒美を望むとは、すなわちあなたを望むことであるのは確かなのですが…。

「味わい、見よ。主の恵みの深さを」と詩編作者は歌う。

 霊的な征服とは愛の行為であるから、大きなことや小さなことにおいて、無限を、そして永遠を熱望するものでなければならない。

 イエスよ、〈明日〉はどうなるかについて考えたくありません。あなたの寛大さを制限したくないからです。

 あの友の書いたことをあなたの考えにしなさい。「神がお示しくださった数々の慈しみを考えていたが、喜びに溢れた心で街に飛び出して、『父よ、父よ』と叫びを上げ、私が子として抱く感謝の思いを皆に知ってほしいと思ったくらいだった。そしてたとえ叫ばないまでも、きっと喜んでくださると確信して、小声で幾度も『父よ』と呼びつつ歩いたのだった」。

 「他のことは望まない。主に喜んでいただけること、主の栄光だけを望む。すべては神のためである。自分の救いと聖性を望むのは、主がそれをお望みであることが分かっているからである。キリスト者として生きる私が人々の救いを熱望するのは、神がそれをお望みであることを知っているからである。本気で言う。私は褒美に目を留めない、褒賞は望まない、すべて愛のためである」。

 霊的に世話をしてあげていたあの病床に伏す女性は、なんと見事に神のみ旨を愛していたことか。健康なところが一つもないその人は、たくさんの苦しみを伴う長患いを、イエスの祝福であり寵愛のしるしであると考えていた。そして自分は、罰に値する人間だと謙遜に話していたが、彼女が体中で感じていた大変な苦痛は罰ではなく、慈しみの現れであった。

 私たちは死について、天国について、さらに、イエスと聖母にお話しすべきことについて語り合った。天国からなら、この地上にいるときよりも、ずっと効果的な〈働きができる〉ことについても考えた。病人は神がお望みのときに死を受け入れるつもりでいたが、喜びに溢れて、「今日だったらよいのに」と叫んでいた。死ねば御父と一緒にいることができると知っている人に特有な喜びをもって、死を見つめていたのである。

 死を恐れてはならない。死はあなたの友なのだから。

 死という現実に慣れなさい。あなたの墓を頻繁に覗(のぞ)き見るのである。そこで、一週間を経たあなたの腐敗した死体を眺め、臭いをかぎ、触れてみるのだ。

 特に肉体があなたを困らせるとき、この場面を思い出しなさい。

 ある人が心を開いて話してくれた。「私は多くの罪を犯してきましたが、それにもかかわらずここ数日、死は休息であると考えていました。そして〈死の時が来たぞ〉と言われれば、大喜びで〈生きる時が訪れた〉と応えることを考えていたのです」。

 死ぬというのは良いことである。信仰を持ちながら死を恐れる人がいるなんて考えられるだろうか。ところで、この世にいることを主がお望みになっているのに死を望むのは、臆病以外の何ものでもない。愛なる御方のために生きる、生きて苦しみ、そして働く。これこそ、あなたのすべきことなのだ。

一日に一度でよいから、臨終の時を考えなさい。死という光に照らして日々の出来事を見るためである。

 そうすれば、素晴らしい心の平安を経験できると保証する。

 あなたは私の話を聞いて考え込んだ。「私は、主がお望みの時、お望みの方法、お望みの所で、死を受け入れる覚悟です。それと同時に思うのは、早死(はやじに)するとは〈楽を求める〉に等しいということです。私たちは、主のため、主によって、長年の間働いて人々の役に立つことを望みとしなければなりません」。

 繰り返し言う。死ぬというのは、楽を求めることだ。

 あの病に伏す年老いた聖なる司教のように申し上げなさい。主よ、〈苦労は厭いません〉。お役に立つ限り、あなたのために生きることも働くことを拒むつもりはありません。

 何をするにも、功徳を得るためや練獄の罰を恐れてするようなことは避けなさい。今から常に、小さなことも含めてすべてを、イエスをお喜ばせするためにするよう努力しなさい。

 避けることのできない友、すなわち死が、神のみもとに連れて行くために訪れたとき、すべてのものから離脱していたい。こう強く望みなさい。

 生命、それも永遠の生命と幸せを切望するのなら、母である聖なる教会という船を下りてはならない。考えてもみなさい。船を離れると、波にもまれて溺れ死ぬ。キリストと共にいることができなくなり、主がお与えになっていると気づいても、自ら自由に選んだ主との友情を失ってしまうのである。

 イエスは、自ら苦しむため、そして人々のこの世での苦しみを避けさせるために、この世に来られたのである。

 仕えることを知る。人々のため自ら仕えることを知るほど、優雅な自己支配はない。

 これが、天と地の両方で、素晴らしい名誉を得るための方法である。

 苦しみと迫害を前にした人が、それらを超自然的に受けとめて、「煉獄で打ちのめされるよりは、この世で打たれるほうがいい」と言っていた。

私が愛するなら、私にとって地獄はなくなるだろう。

 神に頼って生きる、なんと素晴らしいことだろう。神の栄光のみを望むこと、本当に素晴らしいことだ。

 本当に永遠の生命と栄誉を得たいのなら、いかに高貴ではあっても多くの事柄において、個人的な野心を捨てなければならない。

 〈私の〉健康、〈私の〉名前、〈私の〉経歴、〈私の〉仕事、〈私の〉歩みの一歩一歩など、〈私の〉という言葉をくっつけないでほしい。なんて不愉快なことだろう。〈あなた〉は何も持たず、すべては主に属することを忘れているようだ。

 一日のうちに、おそらく訳(わけ)もないのに辱(はずかし)められたと感じ、自分の考えが通るべきだと思ったとき、あるいは各瞬間毎に、あなたのもの、貴方のもの、貴女のものという風に、アナタの自我が湧いて出てくるなら、それはあなたが時間を潰(つぶ)している証拠である。ところで、〈潰す〉べきは、あなたの利己主義であることを確信しなさい。

 受けて当然と言える場合を含めて、自らに対する称賛を求めないようにと勧める。隠れて過ごすのが最高なのだ。私たちの活動や生活のうち最も美しく高貴なことは、目立たず隠れていなければならない。〈小さくなる〉とは、なんという偉大なことだろう。〈すべての栄光は神に〉。

 悲嘆にくれていたとき、あの人は主に申し上げた。「私のイエスよ、私は他には何も持っていません。自尊心以外に何を差し上げれば良いのでしょうか。財産があれば、差し出したことでしょう。徳があれば、あなたに仕えるためその一つひとつで人々を啓発したことでしょう。私にあるのは自尊心だけでしたが、それを差し上げました。あなたが賛美されますように。御手の中にいれば、安全であることは明らかです」。

 私は泥でできたもの、土こそ私の先祖の遺産である。

 神のほかに、称賛を受けて当然な方がおられるだろうか。

 あなたの中で自負心 ― 高慢 ― が煮えたぎり、自分をスーパーマンだと考え始めたなら、「いやだ!」と叫びを上げるときが訪れた証拠である。そうすれば、失敗を繰り返しながらも善を実行しつつ、この世の歩みを続け、神の子としての喜びを味わうことができるだろう。

 〈聖母マリア、海の星〉よ、どうか私たちをお導きください。

 このように力一杯叫びなさい。処女の甘美な御心を〈難船〉させるほどの嵐はないからである。嵐の訪れを感じたなら、このマリアという堅固な拠り所に逃げ込むことによって、座礁や沈没の危険を避けることができるのである。

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