仕事

 イエス・キリストの精神で世界を新たにすべきことを、また、すべてのものの頂点と中心に主を据えるべきことを、私たちは聖パウロの教えのおかげで知っている。

 あなたは仕事や専門職の中でこの義務を果たしていると言えるだろうか。

 なぜあなたは、仕事と休息、涙と微笑み、すなわち生活全体を神への奉仕に変えないのだろうか。

 あなたにはそれができるし、またそうする義務があるのだ。

 すべての被造物とその一つひとつ、この世の出来事のすべてが例外なく、あなたを神へと導く足掛かりとなるはずである。神を知り、神を愛せよ、神に感謝せよと励ますと同時に、皆が神を知り、神を愛するよう努力せよとあなたを駆り立てるはずである。

私たちには働く義務がある。しかも良心に従い、責任を自覚し、愛と堅忍の心を持ち、投げやりにも浅はかにもならずに働かなければならない。なぜなら、仕事は神の命令であり、詩編作者が言うように、私たちは「喜んで」神に従わなければならないからである。

 すべての気高い人間的な諸価値を、キリストのために勝ちとらなければならない。

 本当に愛徳を実行するなら、利己主義になる時間も高慢になる時間もない。すべては仕える機会になるからである。

 人間的に見て非常に重要であろうとなかろうと、すべての活動を神と人々に仕える機会にしなければならない。これこそ、活動が重要であるかどうかを決める真の尺度であるから。

 何をするにも常に犠牲を厭わず、人間が従事するすべての活動の頂点にキリストを据えることを目指して働きなさい。

 恩恵に応えるとは、些細なようであっても、実は神の愛という卓越性をもつ日々の小さな事柄を大切にすることでもある。

 決して忘れてはならないことがある。すなわち、人間的に見て価値があり高尚で正直な仕事なら、超自然のレベルに高めて神的な仕事にすることができるはずだし、またそうしなければならない。

私たちと同じように成長し生活された主、私たちの模範であるイエスは、ご自分のものとされた人としての生活 ― あなたの生活 ― と日常のありふれた仕事に、超自然的な意味・永遠の意味があることを示してくださった。

 父なる神の優しさに感嘆しなさい。あなたが夢中になって愛する家庭や家族や祖国が聖化され得ることを知れば、喜びに満たされるのではなかろうか。

 娘よ、家庭を築いたあなたに思い出してほしいことがある。知ってのとおり、女性は見事な剛毅を備えているが、それが表に現れないよう特別の優しさで包み込む知恵を持っている。あなたは、その剛毅を使って夫と子供を神の道具にすることも、悪魔の道具にすることもできる。

 あなたは常に彼らを神の道具にすべきである。主があなたの助けを期待しておいでになることを忘れないようにしよう。

 使徒聖パウロがキリスト者の結婚を「偉大な秘義」と呼ぶのを聞くと、感激する。両親の仕事はすこぶる重要であるという結論を私が出すのも、この教えからである。

 親であるあなたたちは神の創造力に与っている。だから、人間の愛は聖なるもの、高貴にして良きもの、心の喜びである。そして主は愛のこもった摂理により、ある人々、つまり私たちには、この愛を捨て去れと要求なさる。

 神がお恵みになる子供一人ひとりは神の素晴らしい祝福である。子供を恐れてはならない。

 大勢の夫婦と話すとき、私が力説することがある。彼らとその子供たちが生きている間、親は子供たちが聖人になるよう助けなければならないということである。ただし、この世に聖人は一人もいないことを知っておかなければならない。私たちにできるのは戦うこと、そう、戦いを戦い続けることだけである。

 さらに次のように付け加えることにしている。あなたたちキリスト者である母親と父親は、霊的な原動力であって、子供たちが戦い、勝利を得て聖人になるよう、神の剛毅を送ってやらなければならない。子供たちを裏切るようなことは決して許されないのである。

 神を愛するがゆえに人々を愛することを恐れてはならない。そして心配せず、それ以上にあなたの家族や仲間を愛しなさい。ただし常に、彼らに対する愛の何百万倍もの愛で、主を愛さなければならない。

「行い、また教え始め」た。イエスはまず行い、それから教えられた。あなたも私も模範を示さなければならない。二重生活などできない、つまり自ら実行しないことを他人に教えることはできないからである。言い換えれば、少なくとも実行するよう努力していることを教えるべきなのである。

 キリスト者よ、あなたはあらゆる分野で模範的でなければならない。共通善を守るために定められた法律を遵守(じゅんしゅ)するという点においても、模範的な市民でなければならないのである。

 あなたはたいへん厳しい人だ。公共事業で働く人にも義務の遂行を強く要求する。それが務めだからというわけだ。ところで、あなた自身は仕事の予定表を守っているだろうか。良心に従って仕事をしているのだろうか。

 いかなる義務といえども避けることなく、市民としての務めをすべて果たしなさい。不用意に例外を設けず、全体の善を考えて、すべての権利を行使しなさい。

 この点についても、あなたはキリスト者としての証(あかし)を示さなければならない。

 本当に仕事を聖化したいのなら、どうしても第一の条件を満たさなければならない。すなわち、人間的にも超自然的にも真剣に働くこと、きちんとした仕事をすることである。

 あなたの愛徳は優しさに包まれていなければならない。たとえ心で泣いていても、賢明さと自然さを失わず、常に誰に対しても微笑みを絶やさず、惜しみない心で人々に仕えなければならない。

その中途半端に仕上げた仕事は、神が要求なさる燔祭の戯画である。

 キリストに倣いたいと言いながら時間が余るようなら、それは生温い道を歩んでいる証拠である。

 第一級の仕事である家事を含めて専門職は、人間の尊厳の証である。人格を発展させる機会であり、生計を立てるための手段、人々との一致の絆である。また、私たちが生きる社会の向上に貢献する手段であり、人類全体の発展に資(し)する手段でもある。

 キリスト者の場合、このような展望はさらに大きく広がる。贖われた現実であり、贖う力を持つ現実として、キリストが取り上げられた仕事は聖性の手段、及び道となり、聖化され得ると同時に聖化する力を持つ具体的な仕事になったからである。

 信仰の賜物を受けた私たち神の子らが、創造された世界についての神がお創りになったときの楽観的な見方、キリスト教の中に脈打つ〈世界を愛する〉心を示すよう、神はお望みである。

 だから、あなたが専門職に精を出すにあたり、熱意を欠いたり、地上の国建設のための努力が不足したりするようなことがあってはならない。

 成功や失敗は仕事に付きものだが、たとえ一瞬たりともそれらに惑わされて、神の栄光という仕事の真の目的を忘れることのないよう、警戒していなければならない。

 キリスト者が仕事に対して持つ責任は、時間を費やして働くだけでなく、技術的にも専門的にも立派にやり遂げること、特に神への愛を込めて仕事にあたる態度に表れなければならない。

 神がくださる宝物である時間を潰すなんて、まことに悲しいことだ。

 まっとうな職業ならどんな職業であっても聖化できるし、また聖化しなければならない。だから、神の子なら一人として「使徒職ができない」などと言う権利はない。

 イエス・キリストの隠れた生活から、もう一つ、次のような結論を引き出さなければならない。すなわち、急いでいても、慌てないこと。

 言い換えれば、最初に内的生活が来る。他のこと、つまり使徒職、すべての使徒職は内的生活の必然的な結果なのである。

 超自然的な感覚を持ち、倫理の規準に従って世界の諸問題に対処しなさい。それらは、人格を善導しても、脅(おびや)かしたり破壊したりすることがないからである。

 こうして生き生きとした力を得たあなたの行いは人々を惹きつけ、自分が正しい道を歩んでいることを確認できるのである。

私たちの主なる神は、あなたが人々を聖化できるよう、まずあなた自身が聖人になるのをお望みである。そのため、勇気を出して誠実に、あなた自身を、そして主なる神を見つめなければならない。その後で、それらが終わった後で、今度は世界を眺めなさい。

 あなたの高貴で人間的な素質を育みなさい。あなたの聖性という建物の第一歩になり得るからである。それと同時に、すでに他の機会に言ったことだが、神に仕えるには、「他人はどう言うだろうか」という心配や、いわゆる評判や名声に至るまで、必要ならすべてを焼き尽くすべきことを忘れてはならない。

 あなたは形成が必要だ。あなたは強い責任感を持たなければならないからである。それによって、カトリック信者は各自の自由を互いに尊重しつつ社会の中で活動するよう勧められ、励まされる。また、すべての人が信仰に一致した生き方をする必要のあることを思い出すのである。

 専門の仕事を人間的にも超自然的にもできるだけ完全にやり遂げることによって、あなたは仕事や専門職を果たすところでキリスト教の〈行動基準〉を示すことができるし、また、そうしなければならない。

 キリスト者であるあなたは、共通善のために働かなければならない。無関心の態度をとることなく忠誠心を持って、自由に共通善に資するため協力すべきなのである。

 他の人々と同じく市民である神の子らは、人々の正直な活動や組織のすべてに〈恐れることなく〉参加し、キリストがそれらの中においでになるよう努力すべきである。

 人間社会の現在と将来がかかっている仕事や決定であるにもかかわらず、私たち一人ひとりが楽を求める気持ちや怠りに負けて、自由に参加する努力をしないなら、主は厳しい決算を要求なさるだろう。

 深い謙遜を支えにして、つまり詩編作者が言うように、「戦車や馬を誇らず」、神の御名(みな)に頼って強くなり、社会のどこを捜してもキリストを知らない人がいなくなるよう、世間体を気にせずに努力しなければならない。

 あなたの国にある真っ当な公的あるいは私的な団体に、自由に、しかも自分の好みや素質に合わせて積極的かつ効果的に、またキリスト教精神に満ちた仕方で参加しなさい。そのような組織も人間の現世的な善と永遠の善に関係があるのだから。

 あなたがその中で市民としてのすべての権利をもって働き、そして活動する人間の制度や組織や機関が、キリスト教の生き方と一致した原則に従って動くよう努力しなさい。

 そうすれば必ず、人間の尊厳にふさわしい生き方を人々に保証し、大勢の人が神の恩恵を得て個人的にキリスト教の召し出しに応えるのを容易にすることができる、と確信しなさい。

 十字架やマリア像など大路(おおじ)小路(こうじ)に置かれている記念碑を、信仰心と文化を尊ぶ心で保護し奨励し、野蛮な行為や天候が破壊したものを再建することこそ、キリスト者であり市民である人の義務である。

その〈亡びの自由〉に対して勇敢に抵抗しなければならない。それはわがままの子、悪い情念の孫、原罪の曾孫(ひまご)であり、見ての通り悪魔直系の子孫である。

 客観性を保つため、また被害がこれ以上拡がらないために、私は言っておきたい。

 神の敵の宣伝をしたり褒め称えたりすることは、敵が死んだ後であっても避けるべきである、と。

今日(こんにち)、母なる教会は社会的な面で国々の政府から攻撃を受けている。だから神は、その分野で戦わせ、真理を広げさせるために、神の子らを ― あなたを ― 派遺されるのである。

 あなたは普通の市民の一人であり、同僚以上でも同僚以下でもなく、彼らと同じくあなた自身の〈在俗性〉を持っているのだから、勇気を出して、時には勇気を奮い起こして、人々があなたの信仰を〈感じとれる〉よう努力しなければならない。人々があなたの良い行いとあなたを駆り立てる動機とを目にすることができるためである。

 あなたも神の子なら、自分に固有な職業や社会の環境の中で生活することを恐れてはならない。神の子は決して独りぼっちではない。常に同伴してくださる私たちの主なる神は、あなたが神への忠実を保ち、人々を神のもと導くために必要な手段をお与えになるのである。

 すべては神の愛のために。これこそ聖性と幸せへの道である。

 この点を頭に入れて、あなたの知的な仕事、高度に精神的な仕事、すこぶる地上的な事柄、私たちがどうしても果たさなければならない事柄に対処しなさい。そうすれば、喜びと平和に満ちた生き方ができるだろう。

 あなたはキリスト者であるから、教義と道徳の許す範囲内で、自分に関することすべてにおいて心の底から譲歩してよい。ただし、イエス・キリストに属することなら、絶対に譲歩してはならない。

 あなたが命じる必要のあるとき、相手を辱(はずかし)めてはならない。従う立場にいる人の知性と意志を心濃やかに尊重しなさい。

 当然ながら、あなたは現世の諸手段を使わなければならない。しかし、地上的なものすべてから完全に離脱するよう懸命に努力しなさい。常に神と人々に役立てるよう考えつつ、すべてを使うためである。

 すべてを計画的に? そう、すべてを、とあなたは私に答えた。賢慮の徳を実行しなければならないから、私は賛成だ。しかし、心に留めておくべきことがある。すなわち、困難であるか容易であるかにかかわらず、人間が携わる事業には必ずいくばくかの予測できない要素があるということ、さらにキリスト者なら、希望への道を閉ざすことも神の摂理を無視することもできないということである。

 しっかりした自然的な見方に従って働かなければならない。そうすれば、活動を神的な仕事に変えることだけに没頭するだろう。こうして地上的なものは神的となり、現世的なものは永遠となる。

 神に仕えるための仕事が水泡に帰することがあるとすれば、それは資金の不足によるのではなく、精神の不足による。

 イエスの貧しさを自ら実際に体験して嬉しくないだろうか。必要なものさえ不足した状態、麗しいことだ。ところで清貧は、イエスと同じように、表に現さず黙々と実行しなければならない。

 誠実な信心、つまり神への本当の愛があれば、一所懸命に働き、たとえ辛くても日々の務めを果たすはずである。

 内的生活は行いに生命を与えるが、その内的生活という基礎を持たない行いがいかに危険であるかは、しばしば強調されてきた。ところで、仮にこういうことがあるとすればの話だが、行いの伴わない内的生活の危険性も強調しておかなければならない。

 内的戦いを続ければ現世的な仕事から遠のいてしまうというのは、嘘である。それどころか、かえって最後まで完璧に仕事をやり遂げるのに役立つ。

 あなたの生活は同じ行為の繰り返しではない。前よりも次の機会にはもっと正しい意向で、もっと効果的に、もっと愛に溢れた行動をするはずだからである。日々よりいっそう多くの光を受け、新たな熱意に動かされて、神のために働くからである。

 神を知るため、神と付き合うため、各瞬間毎にもっと神を愛するため、神の愛と栄光以外のことを考えないため、毎日できるだけの努力をしなさい。

 子よ、この計画を実現させるためには、何が起ころうとも祈りのときを持ち、(熱意を維持するための射祷と霊的聖体拝領唱を繰り返して)神の現存を保ち、落ち着いてミサ聖祭に与り、神を思いつつ仕事を最後までやり遂げなければならない。

 祈りの生活と活動の生活を、両立しないものであるかのように切り離して考える人がいるが、その意見は尊重するにしても、決して賛成することはできない。

 神の子らは観想生活を営まなければならない。すなわち、人ごみの喧騒の中で主と絶えず語り合いを続けるため、心の沈黙の持てる人、夢中になって愛する父として友として主を見つめることのできる人でなければならないのである。

 信心家ぶった人ではなく、本当に信心深い人なら、職業上の義務を完全に果たす。その仕事は神のもとへと昇る祈りであることを知っているからである。

 重ねて言うが、私たちは神の子の身分にいるのだから、あらゆる人間的な活動のなかにあって観想の精神を持つようになる。祈りと犠牲、宗教・職業面の教養によって、光・塩・パン種となるのである。そして世間の中に入り込めば入り込むほど、よりいっそう神の人になるという目標に達するのである。

 良質の金とダイヤモンドは、手の平にではなく、地の深みにある。

 あなた自身と人々を聖化できるか否かは、あなたが熱意と喜びを持っているか否か、目立たず日常的でごく普通の地味な仕事を続けるか否かにかかっている。

 伝説のミダ王は触れるものすべてを金に変えたが、私たちはそれに勝る力を日常の振る舞いにおいて必要としている。

 私たちは愛によって日常の人間的な仕事を、永遠の値打ちをもつ神の業に変える必要があるから。

 あなたが決心さえすれば、生活のすべてを主への捧げものとし、天の御父と語り合う機会にできる。御父は常に準備しておられる新たな光をお与えになるからである。

 喜びと平和の心で、神の現存を保ちつつ、働きなさい。

 そうすれば、良識に沿った働き方ができるだろう。疲れて倒れそうになっても最後まで完全にやり遂げ、神に喜ばれる仕事をすることになるのである。

 一日中、絶えず神との会話を続けなければならない。あなたの仕事に関わるもろもろの出来事も、話し合いの糧になるだろう。

 心の中で聖櫃を訪問し、今あなたが持っている仕事を主に捧げなさい。

 そこ、あなたの仕事場に居ながら、心の中で主のもとへと抜け出し、聖櫃の傍で、ごく自然に「私のイエスよ、あなたをお愛ししております」と申し上げなさい。

 心配せずに、「私のイエスよ」とお呼びしなさい。幾度もこう繰り返しなさい。

 ある司祭は「教会の祈り」(聖務日祷)を唱えるとき、次のようにしようと考えた。「始める前には〈聖人たちが祈ったように祈りたい〉と言い、その後で、一緒に主への賛美を歌うため守護の天使を招待することにしよう」。

 口祷を唱えるときのため、また仕事中に神の現存を生き生きとさせるために、この方法を試してみなさい。

 あなたは具体的な道への神の呼びかけを受けた。専門職を通して神の内に没頭しつつ、世間の大路(おおじ)小路(こうじ)に入り込むという道である。

 決して超自然的な照準を見失わないようにしなさい。沖に出て航路を修正する船のように、星、つまりマリアを見て、意向を正しなさい。そうすれば、必ず港に到着すると確信できるだろう。

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