再び立ち上がる

 改心しなければならない、あなたはそう思っている。主はもっと多くを要求しておいでになるのに、あなたの捧げものは日毎に少なくなっているからである。

 実のところ、私たちが動きを始めたのは一人ひとりがラザロのように「出て来なさい」という声を聞いたからであった。

 未だに死んだままで神の慈しみの力を知らない人のことを思うと、本当に悲しくなる。

 あなたの聖なる喜びを新たにしなさい。キリストから離れているがために滅びる人に対して、主と共に復活した人が立ち上がるからである。

 この世における愛情は、汚れて干からびた情欲でないにしても、普通なにがしかの自己愛を含んでいる。

 だから、まことに聖なる愛となり得るそのような愛情を侮(あなど)り軽んずることなく、常に意向を改めなさい。

 同情を求めないようにしなさい。そういう態度は多くの場合、自惚(うぬぼ)れと虚栄心の現れであるから。

 信仰と希望と愛、つまり対神徳について話すとき、それらが理屈をこねるためでなく、実行するための徳であることを考えなさい。

 あなたの生き方にはキリスト者としての身分にそぐわない点があり、それが自らを清める気もなくさせているのではなかろうか。

 良心を糾明し、改めなさい。

 自分の振る舞いをゆっくり振り返ってみなさい。あなたはたくさんの過ちを犯しており、その過ちが自分だけでなく、まわりの人たちにも害を与えていることに気づくだろう。

 子よ、猛獣よりも細菌のほうが恐ろしいことを忘れないように。それなのにあなたは、実験室で細菌を培養するように、過ちや違いを育てている。あなたの信仰不足、祈りの不足、義務の怠り、あなた自身についての認識不足が原因でそうなるのだ。そしてその感染源が、まわりを汚染するのである。

 あなたには毎日の深い良心の糾明が必要だ。糾明すれば、自分の過ちと怠りと罪に対する誠実な心の痛みを感じ、自己改善のために具体的な決心を立てることができるだろう。

 全能、万能、全知である神は、ご自分の母をお選びになる必要があった。

 万一あなたが母を選ばなければならないとしたら、どうするだろう。思うにあなたも私も今の母を選び、あらゆる恩恵で満たすのではないだろうか。神はそのようになさったのである。それゆえ、いとも聖なる三位一体のあとに位置するのはマリアである。

 神学者たちは、マリアのたくさんの恩恵について、サタンに支配され得ないことについて、真に筋の通った論拠を打ち立てている。すなわち、それがふさわしかった、神にはそれが可能であった、だからそうなさった。見事な論証である。これこそ神が最初の瞬間からあらゆる特権で聖母を飾られたことの最も明らかな証明である。事実、マリアは美しく清純、霊魂も体も清い御方である。

 勝利を、戦いの終結を、期待している。しかし、まだ来ない?

 すでにその目的を達したつもりになって主に感謝し、あなたのもどかしさを捧げなさい。「忠実な人は勝利を語る」、忠実を保つ人は勝利の喜びを歌うからである。

 神のみ旨に反抗しているのではないかと思われるときがある。あなたが眠りながらも絶えず祈りを続けることができるようにしてくださったのは神であるが、その主と一致していないからである。

 あなたがよく知っているように、それは無気力のなせるわざである。十字架を愛しなさい。すなわち、誰もが当然必要と考えるものの不足した状態を、また、歩みを始め、或いは歩みを続けるときに現れる種々の困難を、さらにあなた自身の下劣さと霊的な惨めさを愛するのである。

 行いに表れる効果的な望みをもって、あなたのもの及びあなたの仲間のものを捧げなさい。それらは人間的に見るとわずかなこととは言えないが、超自然の光に照らして見ると無に等しい。

 時折、誰かがこう言った。「神父様、疲れて心が冷たくなったときや、信心の規定を果たしたり祈ったりするとき、私は喜劇を演じているのだと思ってしまいます」。

 その友に、そして万一あなたが同じ状態にいるならあなたにも、私はこう答える。「喜劇だって? 子よ、素晴らしいことではないか。喜劇を演じなさい。観客は神である。〈私たちが喜劇を演じているとき〉、御父と御子と聖霊、つまりいとも聖なる三位一体の神が私たちを眺めておいでになるのだから」。

 何をするにも気持ちに逆らってしなければならないとき、神に愛を示すため神をお喜ばせするために、主の前でそのように振る舞うのは実に麗しいことだ。神の旅芸人になるのだ。自分では何ら満足を得られなくても、主をお喜ばせするため、神に愛を示すために、自分の役を演じるのは本当に素晴らしい。

 これこそ、神を愛する人の生き方である。

 地上の物事にみだりに執着する心は、鎖か〈細い針金〉で縛りつけられているような状態だから、神のもと飛んで行くことができなくなる。

「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」。束の間のペテンにだまされて、いかに簡単に神的な事柄を捨ててしまうか、経験を振り返って見ると恐ろしくなる。

 生温い使徒こそ、人々の大敵である。

 超自然的な〈頑固さ〉の不足。仕事を最後までやり遂げる剛毅を欠いて、〈最後の仕上げ〉をするまで頑張らないこと。これらは、明らかに生温さに陥っている証拠である。

 頑(かたく)なだが、高貴な心がある。そのような心がイエス・キリストの聖心の熱に近づくと、銅のように溶けて愛と償いの涙を流す。燃え上がるのだ。

 逆に、生温い人の心は泥や惨めな肉でできている。そしてそのような心は壊れて崩れてしまう。塵である。なんと悲しいことか。

 一緒に申し上げよう。イエスよ、私たちが絶対に生温くならないようお助けください。生温さにだけは陥りたくありません。

 すべての善、すべての美、すべての荘厳さ、すべての麗しさ、すべての恩恵が、私たちの御母を飾っている。このような母親になら、徹底的に心を奪われてしまうのではないだろうか。

私たちは愛そのものである御方に心酔している。だから、私たちが命なきもののように干(ひ)からびて固くなるのを主はお望みにならない。主への愛情に満ちた私たちをお望みなのである。

 この一見矛盾したことが理解できるだろうか。三十歳の誕生日を迎えた人が「もう若くはない」と日記に書き記した。そして、四十歳を越えた時、また書き付けた。「八十歳になるまで若さを保とう。万一その前に死んだら、失敗だと考えよう」と。

 その人は、寄る年波をものともせず、神への愛に円熟した若者のように動き回っていた。

 神に夢中になったあの人が何故あの質問をしたか、私には難無く理解できる。主よ、私の愛よ、私があなたを不愉快にし、しかめ面(つら)をさせたこと、あなたを悲しませたことはなかったでしょうか、彼はこう尋ねたのだった。

 私たちが愛に動かされて、絶えずこの程度まで自らに要求することができるよう、父なる神に願いなさい。

 キリストの友人たちがどれほどの愛情と信頼をもって主に接したか、見ただろう。ラザロの姉妹は、そうして当然だと言わんばかりに「もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、もっと早くそこにおいでにならなかったイエスをなじる。

 信頼を込めてゆっくり主に申し上げなさい。マルタとマリア、ラザロのように友愛に満ちた接し方をお教えください。最初のうちはあまり超自然的な動機と言えなかったにしろ、あなたに付き従った十二使徒のように接するには、どうすれば良いのでしょうか。

 キリストの胸に頭をもたせかけたヨハネを見るのはまことに嬉しく快い。イエスの聖心に燃える火で知性を燃え上がらせるため、辛くても愛情を込めて知性を従わせているようだから。

 神は私を愛しておられる。そして使徒聖ヨハネは、「わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです」と書いている。イエスは、それでもまだ足りないかのように、私たちの否定することのできない惨めさを気にも留めず、ペトロになさったのと同じ問いかけを私たち一人ひとりになさる。「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」。

 もうそろそろお答えするときだろう。「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。そして謙遜に言い添えなさい。「もっとあなたをお愛しすることができるようお助けください。私の愛を増してください」。

「愛とは、行いであって、理屈ではない」。行い、行い。そこで、決心を立てる。お愛ししております、何度もあなたに申し上げることにいたします。今日も幾度となく繰り返しました。しかしあなたの恩恵を得て〈沈黙の熱弁〉を振るい、み前で私の愛を示すのは、特に私の行いと日々の小さな行為でしょう。

 哀れな無骨者(ぶこつもの)とは言えキリスト者が、妻や子供や友など自分と同じく哀れな人間に対して日々優しく濃やかな心遣いを示すのに、私たちはイエスに対してそうすることができない。

 この事実は、私たちを奮い立たせる起爆剤(きばくざい)となるはずである。

 神の愛は真に魅力的で心を魅了するものだから、一旦それがキリスト者の生命の中で成長し始めると、留まるところを知らない。

 腕白坊主や異常者のように振る舞ってはならない。

 たくましい人、神の子でなければならない。すなわち専門職や人々との関わりにおいて落ち着いた態度を示し、神の現存を保つことによって小さな点まで完全を期する人でなければならないのである。

 正義だけを押し通すと、傷つく人の出る恐れがある。

 だから、常に神への愛を動機として行動しなさい。そうすれば単なる正義に隣人愛という香油が加わり、人間的な愛を清めて純粋にしてくれる。

 神を仲立ちにすれば、すべてが超自然化されるのだ。

 夢中になって主を愛しなさい。愚かと思えるくらい主を愛しなさい。愛があれば、その時こそ、愛する決心をする必要さえないと言えるからである。自分の親のことを考えてみなさい。私の親はわざわざ私を愛する決心をするまでもなく、毎日毎日、なんと濃やかな愛情を注いでくれたことだろう。

 この人間の心で神を愛することができるし、また実際に愛さなければならない。

 愛とは犠牲である。そして、愛ゆえの犠牲は喜びである。

 自問自答してみなさい。愛情と行いを捧げるため、心を神のうちに置け、と意志は一日に何度くらいあなたに要求するだろうか。

 あなたの愛の強さと質を確かめるために、うってつけの基準となるだろう。

 子よ、神はあなたに次のように問いかける権利があることを確信しなさい。「私のことを考えているだろうか」。「私の現存を保っているだろうか」。「私に支えを求めているだろうか」。「あなたの生活を照らす光であり盾である私、あなたのすべてである私を、探し求めているだろうか」。

 そこで、次の決心を再び確かなものとしなさい。世間が良いと呼ぶときが訪れると「主よ」と呼びかけ、世間が悪いと呼ぶときが来ても、やはり「主よ」と叫ぶことにしよう、と。

 超自然に対する感覚を決して失わないように。たとえ自分の惨めさや悪い傾向が、つまり泥でできたあなた自身があからさまに見えても、神はあなたに期待をかけておいでになるのだ。

 まわりに居る人たちと同じように、自然な生き方をしなさい。ただし、毎日の各瞬間を超自然的に過ごしながら。

 清い心と神に関する事柄への熱意、人々への偏見なき愛がなければ、正しい意向で物事を判断することはできない。

 よく考えてみなさい。

 知人たちがラジオの話をしているのを耳にした。私はほとんど意識せずに、その話を霊的な(超自然的な)分野に当てはめて聞いていた。私たちは多すぎるくらいのアースをしっかり付けているが、内的生活のアンテナを忘れていることに気づいたのである。

 これが神と付き合いを続ける人の少ない原因である。願わくは、私たちが超自然的な事柄に対するアンテナを欠くことがありませんように。

 私は、何の期待もできない無益でつまらないことや取るに足らないものの方を、神よりも大切にしているのではないだろうか。

 神と共に居ないとき、私は一体、誰と一緒にいるのだろうか。

 主に申し上げなさい。「あなたのお望みになることだけを望みます。最近ずっとお願いしていることも、あなたのみ旨からたとえ一ミリでも離れるようなら、どうかお与えにならないでください」。

 効果を上げる秘訣は信心深くなること、心から信心を深めることにある。こうすれば、丸一日を神と共に過ごすことができるだろう。

 決心。聖霊との友情と愛に満ちた素直な付き合いを〈頻繁に〉する。できればそれを中断せずに続ける。「聖霊よ、来たりたまえ」。私の霊魂のうちにお住みください。

 心の底から、そして常によりいっそう深い愛を込めて、特に聖櫃の傍らに居るときや、胸に主をいただいているときに繰り返しなさい。「主の熱から隠れうるものはない」。私があなたから逃げないようお助けください。私を聖霊の火で満たしてください。

 あなたは「聖霊の火で私を焼き尽くしてください」と叫び、さらに言い足した。「できるだけ早く私の哀れな心が再び飛翔を始め、あなたの内に憩うまで飛び続けなければなりません」と。

 実に立派な望みだと思う。聖霊があなたの存在の中心に座を占め、あなたを支配し、すべての行いと言葉、思い、熱意に超自然の調子をお与えくださるよう、あなたのためしっかり慰め主に祈ってあげよう。

 聖十字架称賛の祝日を祝うにあたり、能力と感覚を使って聖十字架を〈称賛〉できるよう恩恵をお恵みください、とあなたは心の底から主にお願いした。新たな命を願ったのである。使命が本物であることを確認するための封印、あなたの全存在が十字架上にあるための封印を願ったのである。

 どうなるか、様子を見ることにしよう。

 犠牲は、心臓の鼓動のように絶えず実行しなければならない。そうすれば、自らをコントロールし、人々に対してキリストの愛を実行できるだろう。

 十字架を愛するとは、キリストを愛するがゆえに、たとえ辛くても、また辛いからこそ、喜んで自分を〈嫌がらせる〉ことである。これが両立することをあなたも体験して欲しい。

 キリスト教でいう喜びは、生理的なものではない。喜びの根拠は超自然的なものだから、病や困難をものともしない。

 喜びとは鳴物入りの大騒ぎや祭りや踊りに浮かれることではない。

 本当の喜びは、もっと親密なもので、時として険しい表情を隠せないことがあっても、落ち着きを保たせ、内的な喜びで満たしてくれる。

 あなたに次の手紙を書き送った。普通の言い方ではあるが、高慢が原因となって生じた困難を十字架と呼ぶのを耳にすると不愉快になる。そのような悩みは十字架ではない。キリストの十字架でないから、本物の十字架ではないのである。

 自分で生みだした困難は、キリストの刻印とは関係ないから、捨て去りなさい。自我の偽装に過ぎない事柄をすべて捨てなさい。

 日常の無数のつまらない事柄を散文にしているうちに時が経ち、時間を浪費したと思われる毎日であっても、その中には相当以上の詩が含まれている。だからあなたは十字架の上、つまり見る人のいない十字架の上にいることを実感できるのである。

 いずれ消えてしまう事柄に心を執着させないようにしなさい。キリストに倣いなさい。主は私たちのために貧しくなり、枕するところさえお持ちにならなかった。

 世間に居ながらも、いささかの譲歩も認めない効果的な離脱の心を主に願いなさい。

 何一つとして自分のものだと考えないこと。これこそ、離脱した心を持っていることの明白なしるしである。

 誠実な信仰に生きる人は、現世の富が手段に過ぎないことを知っている。だから、それを気前よく英雄的に使う。

 復活し栄光に包まれたキリストは、地上的なものすべてを捨て去られた。主の兄弟である私たちに、何を捨てるべきかを教えるためである。

 聖なる処女マリアを愛さなければならない。いくら聖母を愛しても、決してもう十分とは言えないのである。

 たくさん愛しなさい。聖母のご絵を飾り、挨拶し、射祷を唱えるだけで満足してはならない。たくましく生き、日々、小さな犠牲を捧げなさい。あなたの愛、そして全人類が示して欲しいとあなたが望む愛を、聖母にお捧げするのである。

 キリスト教の真理とは犠牲を土台にした愛、つまり神への愛と神ゆえの隣人愛、及び献身のことである。

 イエスよ、信頼しきってあなたの腕に私自身を委ね、愛すべき胸に頭を埋め、心を聖心に寄せます。私は、何事においてもあなたがお望みになることを望みます。

 世界中に不従順や陰口、争い、嘘(うそ)偽(いつわ)りが満ちている今日、以前にもまして従順、誠実、忠誠、単純さを愛さなければならない。しかも、すべてを超自然の感覚で愛するのである。超自然的な感覚があれば、もっと思いやりのある人間になれるからである。

 キリストに従う固い決意ができている、とあなたは言った。

 それなら、あなたの歩調でなく、神の歩調に合わせて進まねばならない。

 何が私たちの忠実の根拠なのだろうか。

 あらましを述べるとこうなる。忠実の根拠は、神への愛である。神を愛するなら、利己主義や高慢、疲労、短気など、あらゆる障害に打ち勝つことができる。

 愛することのできる人なら自我を踏みつける。全霊を込めて愛しても、十分に愛したと言えないことが分かっているからである。

 アラゴン(スペイン)出身の修道女の言ったことを話してくれた人がいたが、美しい言葉だからここに書き写そう。父なる神の優しさに心から感謝していたその修道女は「神はなんとよく気のつく御方でしょう。何においても優しく心を配ってくださいます」と話したのである。

 すべての神の子と同じく、あなたにも個人的な祈りが必要だ。私たちの主と親しく付き合い、一対一で顔と顔を合わせて話し合い、匿名の人として隠れずに直接の付き合いをしなければならないのである。

 祈りの第一条件は堅忍であり、第二条件は謙遜である。

 聖なる頑固さを持ち、信頼して祈りなさい。大事なことをお願いするとき、私たちが何年にもわたって嘆願するのを主がお望みであるかもしれないことを考え、繰り返し願いなさい。ただし、祈る毎に、よりいっそう信頼を込めて。

 師キリストがお勧めになるように、堅忍して祈りなさい。これを出発点にすれば、平和と喜び、落ち着きの源となる。そして超自然的にも人間的にも、効果的な働きができるだろう。

 あなたは人々の雑談や音楽が聞こえてくるところに居たが、そのとき心の中で湧き出るように祈りが始まり、言うに言われぬ慰めを感じた。そして、「イエスよ、慰めは欲しくありません。あなたが欲しいのです」と申し上げて祈りを終えた。

 楽しいときも不愉快なときも、容易なことを前にしても、困難なことを前にしても、通常の場合でも特別の場合でも、あなたの生活は絶(た)え間(ま)ない祈り、主との継続的な話し合いでなければならない。 どのような時にも、心の中に現存される父なる神を求めて、すぐに語り合いを始める必要があるのだ。

 祈りや黙想のとき潜心するのは易しい。イエスは私たちを待たせたり、控室に通したりはなさらない。ご自分の方で待っていてくださる。

 「主よ、祈りがしたいのです。お話ししたいのです」と申し上げるだけで十分。それだけで、あなたは神の前に出て、すでに主と語り合いを始めているのである。

 それでも足りないかのように、あなたのためには時間を惜しみなく割いてくださる。十分や十五分どころか、何時間でも丸一日でも。しかも、そうなさるのは、ほかでもない全知全能の御方である。

 内的生活においては、人間同士の愛と同じく堅忍が必要である。

 そう。同じテーマを繰り返し黙想し、新たに〈地中海〉を発見する、つまり、何かを再発見するまで頑張らなければならない。

 今までこの点をこのようにはっきり見ることができなかったのは何故だろう、とあなたは驚いて尋ねることだろう。答えは簡単。私たちはしばしば石のようになって一滴も染み込ませず水を流してしまうからである。

 だからこそ、神の祝福に浸されるために、同じ事柄について、実は全然同じではないのだが、幾度も思いを巡らす必要があるのだ。

 祭壇上の聖なる犠牲のとき、司祭は私たちの神の御体と御血のカリスを手に取り、地上のものすべての上に掲げ、「キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに」、すなわち私の愛によって、私の愛と共に、私の愛のうちに、と唱える。

 司祭のこの動作に一致しなさい。それだけでなく、これをあなたの生活に組み入れなさい。

 福音史家によれば、奇跡の後で人々が自分を王にしようとするのを知ったイエスは姿を隠された。

 私たちを聖体の奇跡に与らせてくださった主よ、お願いいたします。姿を隠さず、共に居てください。私たちがあなたを見、あなたに触れ、あなたを感じ、常にあなたと共に居たいと望めますように。どうか、私たちの生活と仕事の王となってください。

 父なる神と子なる神、聖霊なる神、つまり三つのペルソナと付き合いなさい。そして至聖なる三位一体の神に近づくために、マリアを通って行きなさい。

 現に今、イエス・キリストに自らを捧げていない人は、〈生き生きとした〉信仰を持たない人である。

 すべてのキリスト者は、もっともっとイエス・キリストを愛するため、主を探し求め、主と付き合う必要がある。婚約期間と同じで、付き合いのない二人に愛は芽生えないからである。ところで、私たちは愛の生活を送らなければならない。

 エルサレムの神殿で御父に関することがひどく扱われているのをご覧になったときの、主の聖なる怒りについてゆっくり考えてみなさい。

 神に関する事柄が丁重に扱われていないとき、決してあなたが無関心な態度をとったり、臆病になったりしないために、大切なことを教えてくださっているのだから。

 イエス・キリストの至聖なる人間性に惚れ込みなさい。

 私たちと同じ人間になってくださったのに、嬉しくないのだろうか。イエスのこの上ない優しさに感謝しなさい。

 待降節がやって来た。キリスト降臨への、そして日々聖体の秘跡のうちにあなたの心に来られるキリストヘの、心からの望みと憧れと切望を生き生きとさせるため、絶好のときである。「キリストはすぐに来られる」と、教会は元気づけてくれる。

 降誕祭には「来たれ、われら拝みたてまつらん。来たれ、われら拝みたてまつらん」と歌う。行こう、主がお生まれになったから。マリアとヨセフが御子をお世話するのを見て、私は思い切ってあなたに勧めたい。もう一度ゆっくり幼子を眺めなさい、休みなく幼子を見つめなさい。

 苦しくても ― そして私はこの苦しみを増してくださるよう、神に祈っているが ― とにかく、あなたも私もキリストの死と無関係ではない。人間の罪が槌となって、主を木に釘づけたからである。

 聖ヨセフ。聖なる太祖を愛さなければ、イエスとマリアを愛することはできない。

 聖ヨセフを敬い、その生涯から学ぶべきだという理由はたくさんある。ヨセフは信仰の篤い人であった。一所懸命に働いて家族を、つまりイエスとマリアを養った。配偶者である処女(おとめ)の純潔を守った。そして、処女を母として選んだだけでなく、聖ヨセフをマリアの夫として選ばれた神の自由を尊重した ― 愛した ― のである。

 純潔そのもの、清さそのものであり、私たちの父であり主(あるじ)である聖ヨセフ、幼子イエスを腕に抱き、洗い清め、保護するよう任せられた聖ヨセフよ、どのようにして神と接すればよいのか、どうすれば清くなってもう一人のキリストになることができるのか、お教えください。

この世において、霊的に素晴らしい効果を絶えず上げることができると人々に教え、隠れているが輝かしい神への道の数々を、キリストのように切り拓き、そして教えることのできるよう、お助けください。

 全霊を込めて心から聖ヨセフを愛しなさい。ヨセフこそ、イエスと共に、聖マリアを最も愛し、誰よりも親しく神に接した方だから。また私たちの御母に次いで最も深く主なる神を愛した御方だから。

 聖ヨセフはあなたの愛情を受けるに値する方である。また彼と親しくすれば、大いにあなたの役に立つ。聖ヨセフは、内的生活の先生であり、主と神の御母の前で大きな力を持っているからである。

 聖母。三位一体の神とこんなにも親しい女王・貴婦人・御母、すなわち父なる神の娘・神の御子の御母・聖霊の花嫁であると同時に私たちの母である御方。この聖母ほど見事に神の愛を教える先生がいるだろうか。

 自分で個人的に取次ぎをお願いしなさい。

 愛徳があれば、そしてたとえ自分には辛くても、神を侮辱しないで人々を喜ばせることが実行できるなら、あなたは聖人になるだろう。

 聖パウロは濃やかな愛徳を実行するための処方箋を教えてくれる。「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」と。あなたの生き方はこうなっているだろうか。

私たちの主イエス・キリストは人間を愛するあまり託身(受肉)され、人間性を取り、貧しい人や金持ち、義人や罪人、若者や老人、異教徒やユダヤ人の間で、日々の生活を送られた。

 すべての人と絶えず話し合われた。主を愛する人々だけでなく、主を非難するため、お言葉を曲解する口実を求めて近づく人たちとも。

 あなたも主と同じようにしなさい。

 神を愛するがゆえに人々を愛するなら、すべての人を理解し、弁明し、赦すはずである。

 人間の惨めさの結果である無数の欠点をかばう愛を持たなければならない。「愛をもって真理を宣言する」、つまり、人を傷つけずに真理を弁護するという見事な愛徳を実行すべきである。

私が〈良い模範〉と言うとき、人々を理解し、弁明して、世界を平和と愛で満たすべきことを含めた意味で使っている。

 しばしば自分に問いかけなさい。一緒に生活する人々に対して濃やかな愛徳を実行するよう、一所懸命になっているだろうか。

私たちは人々が気持ちよく歩けるよう絨緞になるべきだ、言うとき、私は単に優雅な表現を玩(もてあそ)んでいるのではない。実際にそうしなければならないのである。聖性に達するのが難しいように、そうするのは難しい。しかし、容易であるとも言える。なぜなら、重ねて言うが、聖性は誰の手にも届くところにあるからだ。

 皆が自分のことしか考えないという、まことにひどい利己主義と無関心の直中(ただなか)にいると、机の上のがっしりして丈夫な木製のロバたちの速足の姿を思い出す。一頭は片足を無くしたが、それでも歩みを続けていた。仲間を支えにすることができたからである。

 カトリック信者は、― 譲歩せずに真理を守り、維持するにあたり ― すべての憎しみと恨みを窒息させることのできる愛徳と共存の雰囲気を作り出すよう努力しなければならない。

 キリスト者、すなわち神の子にとって、友情と愛徳はひとつである。つまり、それは熱を与える神的な光である。

 福音書を根拠とした兄弟的説諭を実行するなら、それは超自然の愛情と信頼を持っている証拠になる。

 説諭を受けたときは感謝しなさい。そして、一緒に生活している人たちへの説諭を怠らないように。

 必要であり当然の義務でもあるゆえに兄弟的説諭をするときは、相手が感じる心痛とあなた自身の心痛を考えておかなければならない。

 しかし、だからと言って、心痛を口実にして説諭を控えてはならない。

 あなたの母・処女マリアのすぐ傍に居なさい。あなたは常に神と一致していなければならない。だから、聖母の傍らに居ることによって主との一致を目指しなさい。

私の言うことをよく聞きなさい。この世に居(お)り、この世に属すると言っても、俗物になれということではないのだ。

 あなたは、どこに居てもまわりに火を移す真っ赤な熾(おき)の働きをしなければならない。あるいは少なくとも、まわりに居る人たちの霊的な温度を高め、彼らがしっかりしたキリスト教的生活を送れるよう導かなければならないのである。

 神は、人間に任せられたご自分の事業が、祈りと犠牲をもとにして成功するよう望まれる。

 市民 ― カトリックの市民 ― として、私たちが携わる全活動の基礎は深い内的生活にある。本当に、実際に、一日中、絶え間なく神と語り合いを続ける人になることにある。

 誰かと一緒にいるとき、その人の霊魂を見なければならない。あなたが助けるべき霊魂、理解すべき霊魂、仲よく一緒に生活すべき霊魂、救うべき霊魂を見るべきなのだ。

 あなたは独り歩きしようとする。つまり、自分の思い通りにし、自分の判断にしか従わない。そうすればどうなるか分かるだろう。その結果は〈不毛〉と呼ばれる。

子よ、万一、あなたが自分の判断を捨てず、高慢であり続け、〈あなたの〉使徒職をするなら ― あなたの一生は一晩に過ぎないから ― 一晩中働いたあげく朝を迎えても、網は空のままだろう。

 キリストの死を考えると、徹底的に誠実な心で日々の務めに対処し、私たちが告白する信仰を真剣に考えるよう招かれる。

 神の愛の大きさを深く理解し、言葉と行いでその愛を人々に示す機会にしなければならないのである。

 あなたはキリスト者であり、四六時中そうでなければならない。そして人々を動かし駆り立てる言葉、徹底的に打ち込む心構えを示す超自然の言葉が、あなたの口から出なければならないのである。

 権威ある立場にいる人が、人々の苦しみを避けるという口実のもと、自分が苦しみたくないので説諭しないとすれば、それは裏に安逸をむさぼる心があり、〈時には重大な無責任〉が潜んでいる証拠である。

 多分この世での不愉快を避けることはできるだろう。しかし、その怠り(実はれっきとした罪)によって、― 自分と他人の ― 永遠の生命を危険にさらすことになる。

 聖人とは大勢の人の生活にとって〈窮屈な〉人間であるが、だからと言って我慢できない人間でなければならないわけではない。

 聖人の熱意が辛辣であってはならない。聖人は人を正すとき、傷つけるようなやり方をすべきではない。聖人の模範は隣人を精神的に辱めるような傲慢であってはならない。

 あの若い司祭は「たとえを説明してください」という使徒たちの言葉を使ってイエスに話しかけるのを常としたが、その後でこう付け加えていた。「私たちの霊魂にあなたの明晰な教えを注ぎ込んでください。私たちの生活と行いに教えの明るさが欠けないよう、またそれを人々に伝えることができるようになるためです」。

 あなたも主にこう申し上げなさい。

 譲歩せず、曖昧さにも陥らずに、信仰の真理をそのままそっくり提示する勇気を持ちなさい。実はその勇気こそ、謙遜であり、神に仕えていることの証拠である。

 カトリック信者であれば、これ以外の心構えは考えられない。すなわち教皇の権威を〈常に〉擁護すること、教会の教導職の教えに沿って素直に意見を正す決意が〈常に〉できていること。

 ずいぶん昔の話だが、私に無遠慮な質問をした人があった。司祭の道を歩んだ人は歳をとってから退職したり引退したりするのですか、と。私が答えないものだから、その人は無作法にも質問を繰り返した。

明らかな返答が私の心に浮かんだ。「司祭職は経歴ではない。それは使徒職なのだ」。私はこう彼に答えたのである。

 私はこう考えている。神の助けを得て、単なる経歴と使徒職の違いを決して忘れないよう、ここに書き記す。

 カトリック精神を持つとは、この部分、あの部分と限らず、教会全体への心遣いを示すことである。そのため、私たちの祈りは北から南へ、東から西へと広がる寛大な嘆願でなければならない。

 そうすれば、私たちの母・聖なる教会に対して冷淡な態度をとる大勢の人を見て、あの友が叫んだ言葉 ― 射祷 ― の意味が、あなたにもよく理解できるだろう。彼は、「教会を思うと心が痛む」と言ったのである。

「日々わたしに迫るやっかい事、あらゆる教会についての心配事があります」と聖パウロは書いている。使徒のこの溜息を聞くと、あなたも含めてすべてのキリスト者がイエス・キリストの花嫁、すなわち聖なる教会の足元に私たち自身と私たちにできることすべてを差し出して、財産と名誉と生命をかけても忠実に教会を愛すべき責任を思い出す。

 教会に猿ぐつわをはめるため共謀して沈黙を守ろうという試みに対して、驚かずに、できる範囲内で抵抗しなければならない。ある者は人々に教会の声を聞かせず、またある者は行いをもって教えを述べる模範的な人たちが誰の目にも留まらないようにする。ある者は確かな教えが跡形も残らないようにし、大多数の者は確かな教えに堪(た)えられず、耳も貸さない。

 重ねて言うが、驚く必要はない。しかし、飽きず疲れず拡声器の役目を果たし、教導職の教えをどんどん広めなさい。

 日毎に〈ローマ的〉になりなさい。そして、唯一で真の教会の子供たちを飾るこの幸いな身分を愛しなさい。イエス・キリストがそれを望まれたのだから。

 聖母信心は、キリスト者が「神の家族」の一員として振る舞うよう、超自然の衝動を起こしてくれる。

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