敗北

 目が曇った時も明るさを失った時も、光のもと行かなければならない。ところでイエスは、私は世の光である、私は病人を癒すために来た、仰せられた。

 だから、病に伏すときや主が阻止されなかったので罪を犯したときも、キリストから離れるのではなく、かえってキリストに近づく機会にしなければならない。

「イエスは通り過ぎて行かれる、私を放って行かれる」と、惨めな私は友人の一人に愚痴をこぼしていた。

 しかし直ちに痛悔し、信頼して申し上げた。

 「私の愛よ、実はそうではありません。あなたから離れたのは確かにこの私なのです。今後決してこんなことはいたしません」。

 神への愛と絶え間ない償いで自分を清めることができるよう、主に恩恵を願いなさい。

 処女マリアのもとへ行き、自分の罪とあらゆる時代の人々の罪に対する、愛の痛みを伴った痛悔と悔俊の贈物を、聖母があなたへの愛情のしるしとしてお恵みになるよう願いなさい。

 このような心で大胆に付け加えなさい。「御母、生命、私の希望よ、御手ずからお導きください。そして今、万一私のうちに父なる神を不愉快にするところがあれば、あなたの助けによってそれを見つけ、そしてあなたと二人で抜き去ることができますように」。

 恐れずに話を続けなさい。「寛容、仁慈(じんじ)、甘美でおられる処女マリアよ、御子のいとも愛すべきみ旨を果たすことによって、私たちの主イエス・キリストの御約束にかなう者となり、それを味わい楽しむことができますように」。

 天の御母よ、再び私を熱心、献身、自己放棄に、すなわち愛に立ち戻らせてください。

 そんな呑気なことを言わないでほしい。決心を立てるのに新年を待つ必要はない。良い決心をするのに悪い日などないのだから、〈今日、今〉を実行しなさい。

 新年を待って再出発しようなんていうのは敗北主義者の料簡だし、彼らは結局のところ、いつになっても始めない。

 振る舞いが悪かったのは弱さのなせる業であったことは認めよう。しかし、あなたが確かな良心をもって反応しないことが私には理解できない。悪いことをしておきながら、聖なることだとか、重要なことではないとか、言ったり考えたりすべきではないからである。

 霊的な能力は感覚が提示するものを栄養にするという点を忘れないように。五官をしっかり守りなさい。

 道から逸れるような事柄に同意すると平安を失うが、それはあなたもよく知っている。

 首尾一貫した責任ある生き方をするよう決意を固めなさい。

 神の恵みについての忘れがたい思い出は常に力強い励みになるはずであるが、困難の最中(さなか)にいるときは、なおさら強い激励となる。

 死に至る病・忌(いま)わしい過(あやま)ちが一つある。それは、敗北に順応すること、神の子の精神で戦おうとしないことである。この個人的な努力がないと、霊魂は麻痺し、勝手に惰眠して実が結べなくなる。

 私たちがこんな臆病な態度をとるから、主はあの人と同じ言葉を私たちに繰り返さなければならなくなったのである。ベトザタの池で、あの体の麻痺した人は「人がいないのです」、私を水に入れてくれる人がいません、主に申し上げたのだった。

 万一、あなたが主の期待なさる男性や女性でなかったら、本当に恥ずかしいことではないか。

 修徳のための戦いとは、否定的なものでも嫌なものでもなく、喜びに満ちた肯定的な戦いである。スポーツなのだ。

 有能なスポーツ選手なら、初めての挑戦で、一度だけの勝利を目指して戦ったりしない。確信に支えられ落ち着いて、長い時間をかけて準備をし、トレーニングするものだ。一度また一度と試み、最初に上手く行かなくても、障害を乗り越えるまで粘り強く続けるのである。

 私のイエスよ、あなたにすべてを期待しております。私を改心させてください。

私たちの友であるあの司祭が、自らを〈罪人〉と署名するとき、それが本当の姿であると常に自覚していた。

 私の神よ、どうか私も清めてくださいますように。

 万一、罪を犯した場合には、大きな罪か小さな罪かを別にして、とにかく大急ぎで神のもとへ駆け寄りなさい。

 詩編の言葉を味わいなさい。「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」。神は痛悔の心をもつ謙遜な人を軽んじられないし、知らん顔をなさることもないのである。

 頭と心で、幾度も繰り返しなさい。「主よ、あなたは倒れた私を何度も助け起こし赦してくださり、その後で聖心の方へ抱き寄せてくださいました」。

 何度もよく考えなさい。今後は決して主から離れないように。

 あなたは主人にお仕着せを剥(は)ぎ取られた哀れな召使のように感じている。罪人としての自分しか見えないからである。そして人祖が裸の状態をどう感じていたかがよく分かった。

 本来なら泣き続けて当然である。大いに涙を流し、そして苦しんだ。それにもかかわらず、あなたは幸せを実感している。誰にも代わって欲しいとは思わない。その〈喜びと平和〉、何年も前から保っている静かな喜びを失わないようにしなさい。神に感謝の心を上げ、すべての人に幸せの秘訣を教えたいと望んでいる。

 そう、しばしばあなたが〈平和の人〉と言われる訳が分かった。勿論、あなたは〈人がどう言うだろう〉などと、心配はしていないけれど。

 ある人たちは、無力な被造物にできることしかしないので、時間を浪費する。文字通りペトロの経験を繰り返すのである。「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」。

 教会と一致せず、教会抜きで勝手に働いたところで、そのような使徒職にどんな効果を期待できるだろうか。ゼロである。

 勝手に働いても何もできないことを納得しておかなければならない。人々が福音書の話に耳を傾け使徒職を続けるよう、あなたが助けなければならないのである。「お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」、あなたのお言葉を信じて網を打ってみましょう、と。そうすれば効果的な漁ができ、大漁になるだろう。

 理由はともあれ、自分勝手な使徒職をしたときには改める ― 真に素晴らしい態度である。

 あなたが書き寄こしたことをここに写そう。「〈主よ、私があなたをお愛ししていることは、あなたがよくご存じです〉。イエスよ、あなたのケファの甘く苦い、つまり痛悔と愛の入り混じった言葉を連祷(れんとう)として何度もなんども繰り返します。あなたをお愛ししていると思うのですが、まったくもって自信がなくて、はっきりと申し上げる勇気がありません。邪(よこしま)な私の生涯を通して幾度となくあなたを否みました。〈主よ、あなたはすべてをご存じです〉、私があなたを愛していることはあなたがご存じです。イエスよ、私の行いが心のこの強い望みに背くことのないようお助けください」。

あなたのこの祈りを繰り返しなさい。主は必ず聞き入れてくださるだろう。

「主よ、私の涙が痛悔の心から出ていたら良いのですが」。信頼してこう繰り返しなさい。

 あなたの望む悔い改めの心をくださるよう謙遜に願いなさい。

私の振る舞いのなんと下賎なこと、またなんとしばしば恩恵に忠実でなかったことか。

 罪人の拠り所なる御母よ、私の内でお働きになる神の邪魔をすることが決してないよう、私のためにお祈りください。

 主のこんな近くに、こんなに長い間いるのに、こんなにも罪深い人間だなんて。

 イエスとそんなにも親しいのなら、泣きじゃくって当然ではないのだろうか。

 本物の喜びがないというのではない。ちゃんとあるのだ。しかし、自分の卑しさを知っているので、聖パウロと一緒に「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と叫んで当たり前だろう。

 こうして、あなた自身の自我が作る障害物を根元から倒したいと切望するようになるのだ。

 過ち、しかも大変な過ちをしでかしたことが分かっても、驚いたり落胆したりしてはならない。

 それらを一掃するために戦いなさい。戦いの途中でそのような弱さすべてを感じるのは良いことだと納得しなさい。でないと、あなたは高慢になる。そして高慢になると、神から離れてしまう。

 神の優しさに驚嘆して当然なのではないか。哀れな体、惨めな肉体、卑しさや哀れな泥の重さのすべてをあなたが感じるときにも、キリストはあなたの中で生きたいと思っておられるからである。

 そう、そのようなときにも、神の呼びかけを疎かにしてはならない。神であり人であるキリストは、私たちの兄弟であり友であるから、私を理解し、私の世話をしてくださるのである。

 時に悲しみの一撃を受け、また常に言ってよいくらい、あなたの中に沈澱している憂いと悲しみを生々しく感じるが、それでもあなたは満足して幸せに生きている。

 その喜びと悲しみは、各々の〈人〉の内に共存できる。喜びは新しい人の内に、そして悲しみは古い人の内に。

 謙遜は、神を知り、自分自身を知った結果として生まれる。

 主よ、プレゼントを一つお願いいたします。あなたへの愛、それも私を清くする愛をいただきたいのです。さらにもう一つ、私自身を知ることができるようにしてください。私が本当に謙遜になるために。

 生涯を終えるまで戦う人、失策や過ちを犯すたびに立ち上がり、謙遜な心で愛と希望に溢れて勇敢に歩みを続ける人 ― こういう人を聖人と呼ぶ。

 過ちを犯しても、そのおかげでいっそう謙遜になり、助けを差し伸べる神の手を以前にも増して必死に求めるきっかけとなるのなら、過ちも聖性への道である。教会は「幸いな罪よ」と歌う。

 たとえ私の祈りであっても、とにかく祈りは全能である。

 謙遜であれば、自分の失敗を見てもがっかりしなくなる。

 本当の謙遜があれば、赦しを願うようになる。

 たとえ私が重い皮膚病に罹っていても、母親なら抱きしめてくれるだろう。恐れたり、ためらったりせず、傷に接吻してくれるだろう。

 ところで、聖母ならどうなさるだろうか。重い皮膚病に罹り、傷ついていると分かった途端、私たちは「お母様」と叫ばなければならない。聖母のご保護は、傷に接吻するようなもので、癒す力があるのだ。

 ゆるしの秘跡においてイエスは私たちをお赦しになる。

 この秘跡においてキリストの功徳が適用される。そしてそのキリストは、私たちを愛するがゆえに十字架上においでになる。腕を広げ、釘づけにされたと言うよりは、私たちを愛するゆえに、磔(はりつけ)にされておられるのである。

 子よ、罪を犯して倒れるようなことがあれば、すぐにゆるしの秘跡と霊的指導を受けに行って傷口を見せなさい。外科手術のように痛くても、徹底的な治療を受けて感染する危険を完全に防ぐためである。

 神との一致を深めるためには誠実さが不可欠である。

 醜い子よ、心の中に醜いひきがえる〉がいたら、すぐに放り出しなさい。常に勧めているように、知られたくないことを最初に話しなさい。一旦ゆるしの秘跡で醜いひきがえる〉を放り出しさえすれば、文句なしの状態になる。

「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない」。私の惨めさにも敵の誘惑にも心配する必要はない。「あなたがわたしと共にいてくださる」。

 イエスよ、私の惨めさについて考えた今、あなたに申し上げました。優しい父親たちのように、あなたの子にわざとだまされてください。子供に甘い父親は、幼子から贈られたいプレゼントを子に与えます。子供たちが何も持っていないことをよく知っているからです。

 そして父親と幼子のなんという喜びよう。二人とも秘密を持っているにもかかわらず。

 イエスよ、私の愛よ、再びあなたを侮辱するかもしれないと考えると…。「わたしはあなたのもの。どうかお救いください」。

 徳も才能も能力もない自分を見て、盲人バルティマイのように叫びたくならないのだろうか。「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」。

 なんと美しい射祷だろう。幾度も幾度も繰り返すべき射祷だ。主よ、どうか私に慈しみを。

 主はあなたの願いを耳にし、きっと助けてくださるだろう。

 償いたいという望みを心に育てなさい。日毎によりいっそう深い痛悔の念を持つためである。

 忠実を保つなら、やがて勝利者を名乗ることができるだろう。

 生涯を通して、戦闘に負けることが時にあっても、戦いそのもので敗北を喫することはないだろう。確信しなさい。正しい意向と神のみ旨を果たす熱意をもって働く人に、失敗はあり得ないのだ。

 となれば、成功か失敗かは別にして、常に勝利を得るだろう。神を愛する心で戦うからである。

 謙遜で燃えるような願いを神が聞き入れてくださった、とあなたは確信している。あなたはこう祈ったのだった。私の神よ、〈何を言われようが〉、私は気にしません。私の恥知らずな行いをお赦しください。聖人になれますように。ただし、あなたをお喜ばせするだけのために、そうなりたいと思います。

 キリスト者としての生活において、〈すべて〉は神のためでなければならない。個人的な弱さも神のためである。弱さを正しなさい。神は理解して赦してくださるのだから。

 イエスよ、これほどの愛を注いでくださるなんて、私は何をして差し上げたのでしょうか。あなたを侮辱すること、そしてあなたを愛すること、それだけでした。

 あなたを愛する。私の一生は今後この一言に尽きることでしょう。

私の主である神がお与えになるこれらすべての慰めは、次のことを要求されていることのしるしではなかろうか。すなわち私が常に神のことを考え、小さな事柄において主に仕えることによって、大きな事柄においても神に役立つことができるようになることの。

 そこで、日常生活のごく小さな事柄で、優しいイエスをお喜ばせしようと決心する。

 神を愛さなければならない。心は愛するために造られたのだから。したがって、神を、私たちの母・処女マリアを、そして人々を清い愛で愛さないと、心が復讐し、うじを湧かせてしまう。

 惨めさで一杯であっても、心の奥底から主に申し上げなさい。愛なる御方に夢中になっています、愛なる御方に酔っています、と。

 犯してしまった無数の罪を痛悔しているのだから、今後は神の助けを借りて常に十字架にかかっていることにしよう。

 体で失ったものは、体で買い戻しなさい。すなわち、けちけちせずに償いを捧げるのだ。

 主を呼び求め、日々、自分に打ち勝つことのできる人に固有な償いの精神を乞い求め、その絶え間ない勝利を沈黙と犠牲の心で主に捧げよう。

 肉の弱さを感じるなら、祈りの中で繰り返し申し上げなさい。主よ、疲れて反抗するこの哀れな体に十字架をお与えください、と。

 あの説教をした司祭は真(まこと)に正しかった。「恩知らずな私であるにもかかわらず、言うに言われぬほど寛大なイエスは数知れない罪をすべて赦してくださった。マグダラのマリアは多く愛したから多くの罪を赦されたが、私の場合、彼女以上の赦しを得た。なんと多くの愛の負債があることか」。

 イエスよ、気も触れんばかりに、英雄的と言えるまで、お愛ししたいと思います。主よ、たとえあなたのために死ななければならないとしても、恩恵の助けによって、もう決してあなたを離れない覚悟でいます。

 ラザロは神の声を聴いたので復活した。そして直ちにあの状態から抜け出そうと望んだ。自分から動くことを〈望まなかった〉のであれば、再び死んでしまったことだろう。

 誠実な決心を立てる。たとえラザロのように腐っていても、決して私たちをお見捨てにならない神を信じ、常に神に希望を託し、常に神をお愛ししよう、と。

 キリスト者としての身分のこの素晴らしい逆説に感嘆しよう。私たちに固有な惨めさこそ、神のもとに拠り所を求めさせ、私たちの〈神化〉を可能にする。こうして神と共にすべてが可能となる。

 倒れたときや、惨めさが重くのしかかってきて苦しいときには、確かな希望を支えとして繰り返しなさい。主よ、私は病に罹っています。私を愛するがゆえに十字架の上で死去された主よ、私を癒すために来てください。

 重ねて言う、信頼しなさい。主のいとも愛すべき聖心を辛抱強く呼び続けなさい。福音書の重い皮膚病の人になさったように、あなたにも健康を与えてくださるだろう。

 神への信頼で心を満たしなさい。決して神から離れたくないという大きな望みを、日々、よりいっそう大きくしなさい。

 無原罪の処女(おとめ)、御母よ、私を見捨てないでください。ご覧ください。心は涙で一杯になっています。私の神を侮辱するようなことはしたくないのです。

 私になんの値打ちもないことはよく知っているつもりですし、決して忘れないつもりです。自分の不甲斐なさと孤独が重くのしかかってきます。けれども、優しい御母よ、あなたと父なる神が私をお見捨てになることはありませんから、私は独りぼっちではないのです。

 体が反抗し、信仰に刃向かう悪魔的な思いが湧いてきても、私はイエスを愛します、そして信じます。〈愛し、そして信じます〉。

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