戦い

 神の選びは個人の聖性を意味すると同時に、聖性を要求する。

 主の呼びかけに応えるなら、あなたの一生、哀れな生涯も、人類の歴史に深くて広い跡、光り輝く豊かな跡、永遠かつ神的な跡を残すことだろう。

 毎日、聖人になる義務について考えなさい。聖人とは、変わったことをする人のことではない。聖人とは内的生活で戦う人、義務を英雄的に最後まで完全に果たすため戦う人のことである。

 聖性とは偉大な仕事をやり遂げることではない。聖性とは、超自然的な生活の火が消えてしまわないよう戦うことである。聖性とは、地位の高い・低いを問わず、神がお与えになったところで神に仕えつつ、とことんまで自らを燃焼させることである。

 主は「あなたたちを愛している」と仰せになるに留まらず、ご自分の業と全生涯をかけてその愛を示してくださった。ところで、あなたはどうするつもりなのか。

 主を愛しているなら、人々を主のもと導くという幸いな責任の重さを感じて〈当然〉である。

 神の愛によって生きようと望む人にとって、中庸とは、ほんのわずか、けち、卑しむべき打算のことである。

 あなたがキリスト者として歩むための処方箋、それは愛を込めて義務を果たしつつ、祈り、償い、休みなく働くことである。

私の神よ、愛し方を教えてください。神よ、祈り方をお教えください。

 信仰と希望と愛を神に願わなければならないが、この願いには謙遜と辛抱強い祈り、正直で誠実な振る舞いと、清い生き方が伴っていなければならない。

「聖なる熱意を溢れんばかりに心に注いでくださったことに対して、どうお礼を言っていいか分かりません」と、あなたは言った。

 私は慌(あわ)てて、「あなたを動かすその熱意を与えたのは私ではなく、聖霊ですよ」と答えた。

 聖霊を愛し、聖霊と付き合いなさい。そうすれば、聖霊をもっと、いっそうよく愛するようになり、あなたが内的生活を営むよう心に住まわれるのは聖霊であるのを知って、感謝することだろう。

 祭壇上の聖なる犠牲があなたの内的生活の中心となり源となり、一日全体が礼拝の行為となるよう戦いなさい。すなわち丸一日が与ったミサ聖祭の延長、及び次のミサの準備となり、それが射祷や聖体訪問、専門職と家族生活の奉献となって溢れ出るように。

私たちの貴婦人、清き処女、汚れなき御方、主をこの世にもたらした聖母を称える歌を歌って、ご聖体のイエスに感謝するよう努めなさい。

 そして、子供のように思い切って大胆に、「私の麗しい愛よ、あなたを世にもたらした御母は祝せられますように」と、イエスに申し上げなさい。

 確かに主をお喜ばせすることになるから、きっと心にもっと大きな愛を注いでくださるだろう。

 福音史家聖ルカによると、イエスは祈っておられた。イエスはどのような祈りをなさったのだろうか。

 次の場面をじっくりと眺めなさい。弟子たちがイエスと親しく接している。主は弟子たちに、会話を通して、また行いによって、祈り方と神の驚くべき慈しみの真理をお教えになる。私たちは神の子であり、子が御父に向かって話しかけるように神とお話しすることができる、とお教えになるのである。

 毎日、キリストの傍らで仕事を始め、キリストを探し求める大勢の人々の世話をするにあたり、確信しておくべきことがある。それは、主に頼る以外に道はないということである。

 祈りにおいて、祈りによってのみ、人々に仕えることを知るのである。

 祈りとは、美辞麗句を連ねた演説をしたり、雄弁をふるったり、慰めになる言葉を並べたりすることではない。これを忘れてはならない。

 祈りとは、ある時には主やその御母のご絵やご像に視線を向け、また時には祈願の言葉を述べ、またある時には良い行いや忠実の実りを捧げることである。

 私たちは、見張りに立つ兵士のように、主なる神の〈お住い〉の入口に居なければならない。これこそ祈りである。あるいは、主人の足元に身を置く子犬のようにすることである。

 次のように申し上げたら良いだろう。「主よ、あなたの忠実な犬のように、いやもっと良いのは、自分をかわいがってくれる人を蹴ったりしない子ロバのように、私はここにおります」と。

私たちは皆〈キリスト自身〉にならなければならない。聖パウロは「主イエス・キリストを着よ」と、神の御名(みな)において命じている。

 私たちの一人ひとりが、そしてあなたが、使徒の言う衣服をどうすれば身に着けることができるかを考えなければならない。一人ひとりが主と個人的に休みなく話し合うべきなのである。

 あなたの祈りが言葉だけに留まってはならない。実際に現実と結果に現れる祈りでなければならない。

 祈ることこそ、私たちを苦しめるすべての悪を食い止める道である。

一つ勧めたいことがある。飽きずに幾度でも人々に繰り返したい勧めである。私たちの母であり神の御母である御方を無我夢中になって愛しなさい。

 英雄的な行為や聖性、大胆さは、霊的に絶えず準備をしていなければ実現できない。人々に与えることのできるのは、自分が持っているものだけである。そして人々に神を与えるつもりなら、あなた自身が神と付き合い、神の生命を生き、神に仕えていなければならない。

 しっかり頭と心に刻みつけることのできるよう、重ねて言っておこう。信心、信心、信心が大切だ、と。万一、愛徳に背く行いがあるとすれば、それは性格が悪いからではなく、内的生活の不足が原因なのである。

 あなたが神の良い子であるなら、幼子が起きあがるときや眠りにつくとき母親が傍(そば)にいなければならないのと同じように、毎日の最初と最後の思いを神に捧げることだろう。

 信心の業をするに際して、たとえ疲れていても無味乾燥と思えても、堅固な態度を保ち、自らに強く要求しなければならない。堅忍しなさい。信心業の一つひとつは、雪が積もっても常に安全な道を示すしるし、山道に立ててある赤く塗った棒のようなものである。

 各瞬間毎に神の要求に応える努力をしなさい。神への愛を行いに表す意欲を持ちなさい。小さな行いでいい。しかし、たった一つであっても、無視してはならない。

 内的生活は、信心の業や行為を、愛を込めて果たすための戦いを続けることによって強くなる。しかし、果たすというより〈生きる〉のでなければならない。神の子である私たちは愛の道を歩んでいるからである。

 あなたの清く純粋な心の奥においでになる神、忠実であれば霊魂の奥に居てくださる神を探し求めなさい。そして神とのその親しさを決して失わないようにしなさい。

 万一、いつか、どのように話しかけ、何を申し上げてよいのか分からなくなったときや、あなたの内においでになるイエスを捜す勇気がなくなったときは、〈すべてが美しく〉、まったく清く、素晴らしいマリアに助けを求め、「婦人よ、私たちの御母よ、主はあなたが手ずから神をお世話するよう望まれました。どうか私に、そしてすべての人に、どのようにして御子と接すればいいのかお教えください」と、心を打ち明けなさい。

 日々の小さなことを完全に果たすという英雄的行いの大切さを、人々に説き、勧めなさい。そのような行為の一つひとつに世の救いがかかっているつもりで果たしなさい、と。

 信心生活をしているなら、神の子として、キリスト者としての身分にふさわしい徳が実行できるようになるだろう。

それらの徳と同時に、些細なことのように見えるが実は優れた一連の霊的価値を身につけるだろう。それは道を歩みつつ拾い集め、人々の役に立てるため神の玉座に捧げる宝石類のこと、すなわち、単純さ、喜び、忠誠、平和、小さな放棄、誰にも気づかれない奉仕、義務の忠実な遂行、親切などのことである。

 神に栄光を帰し、神を愛し、神の使徒職をする以外の義務を作り出さないようにしなさい。

 主はこの世の直(ただ)中(なか)で生きるキリスト者としての道をはっきり見せてくださった。しかしあなたは、正直言えば楽をしたいからだと認めながらも、見知らぬ人となり誰にも知られず、どこかの隅っこで仕事をする、つまり神とあなただけの幸せな生き方をする。それを思うと羨ましい限りだ、私に言っていた。

今は日本での宣教以外に、苦しみの多い隠れた生活のことも考えている。ところで、他の聖なる自然の義務から解放されて自分の召し出しでもないのにどこかの修道院に〈身を隠して〉みても、幸せになれるわけはないだろう。神のみ旨でなくあなた自身の意志を果たすわけだから、平安を得ることはできないだろう。

そうして、あなたの召し出しは違った名を持つことになる。すなわち遺棄である。神の霊感によらず、近づいて来る戦いを人間的に考えて恐れた結果なのである。だが、それでは駄目だ。

 清い生活をし、聖なる純潔を実行するのが大変むずかしくなっているが、私たち全員がこの危険に晒(さら)されている。霊的生活や仕事がブルジョアのようになる危険、すなわち婚期を過ぎた独り者のように感じて、自己本位な人間・愛なき人間になる危険である。ただし、これらは結婚生活への召し出しを受けた人たちに通じる危険でもある。

このような危険に対しては、一切譲歩せず、徹底的に戦いなさい。

私たちは常にこのロバ、すなわち体を背負っているから、官能に打ち勝とうとすれば毎日、寛大に小さな犠牲を、時には大きな犠牲を実行し、決して目を離さずにあなたを見つめておいでになる神の現存を保たなければならない。

 貞潔でいるためには、罪や罪の機会を避けるだけではいけない。貞潔とは決して冷たく数学的な否定ではないのである。

 貞潔とは徳であるから、当然のこと、成長させ、完成させるべきである。

 したがって、自分の身分に合った禁欲(節制)を実行するだけでなく、英雄的に貞潔の徳を実行しなければならない。

 〈キリストの良き香り〉とは私たちの清い生活の香りでもあり、繰り返すがそれぞれの身分に合った貞潔の香り、喜びに満ちた肯定としての聖なる純潔の香りである。すなわち、妥協を認めない頑固さと繊細な細やかさを兼ね備えた態度、神に喜ばれないような不適切なことは口にさえしない態度のことである。

 守護の天使には、助けを受ける前から感謝する習慣をつけなさい。もっと助けてくれるよう強いるのである。

 キリスト教の初代に使われていた〈神の運び手〉という呼び名が、すべてのキリスト者の呼び名になるべきである。

 この素晴らしい言葉が〈掛け値なしに〉当てはまるように振る舞わなければならない。

 万一、私たちキリスト者がキリスト者らしい生き方をしたくなくなったとすれば、どうなるか? これを考えて、行いを正しなさい。

一つひとつの出来事、一つひとつの状況の後ろにおられる主を眺めなさい。そうすればあらゆる出来事から、神へのもっと大きな愛と、応えようというもっと大きな望みを引き出すことができるだろう。なぜなら神はたえず私たちを待っておいでになり、〈あなたにお仕えします〉という決心を常に果たすことのできるよう、助けてくださっているからである。

 自らを無にし、自らを否定し、自らを忘れ去り、〈考え方を改め〉、つまり新たな生き方をし、私のこの惨めさを、神の隠れてはいるが永遠の偉大さに変えたい。これを実行に移す望みを日々新たにしなさい。

 主よ、たとえ真に聖なりと言える愛情であっても、あなたの傷ついた聖心を通ることなく私の心に入り込むことのないほどに、私をあなたのものとしてください。

 濃やかな心を持った礼儀正しい人でありなさい。粗野な人間であってはいけない。

 常に濃やかな心を保ちなさい、と言っても、気取れというのではない。

愛があればすべてが可能であるが、愛がないと何もできない。

愛、これこそあなたの生き方の秘訣である。愛しなさい。喜んで苦しみなさい。心を強くしなさい。意志を雄々しくしなさい。あなたの献身を確実に神のお望みに合わせなさい。そうすれば、効果的な働きができるだろう。

 子供のように単純で信心深い人、統率者のように逞しく強い人になりなさい。

 喜びを伴う平和、それは世界の与え得ないものである。

 人間はいつも和平を結び、いつも戦争でいがみ合っている。神が勝利を得られるよう内的な戦いを続け、神の助けをお願いしなさいという勧めが忘れられたからである。この勧めを実行すれば、心の平和、家庭の平和、社会の平和、世界の平和を得ることができるというのに。

 このようにすれば、あなたも私も喜びを持つことができる。喜びとは勝利を得た人のものだから。そして謙遜であれば、決して負戦(まけいくさ)をなさらない神の恩恵を得て、勝利者になるのである。

 あなたの生活や労働が否定的であってはならない、決して〈反対の態度〉であってはならないのである。あなたの生活や労働は、肯定、楽観、若さ、喜び、平和である。また、そうでなければならない。

 国民の生活において二つの重要なことがある。すなわち、結婚に関する法律と教育に関する法律。これらの点について、神の子らはすべての人々を愛する心から、しっかり足を踏ん張って、高潔で巧妙(こうみょう)な戦いをしなければならない。

 喜びはキリスト教の善であり、戦えば手に入る。喜びとは平和の結果であるからだ。平和とは、戦いで勝利を得た結果であり、地上における人間の一生は、聖書によると、戦いである。

私たちの神的な戦いは、素晴らしい平和の種蒔きである。

 戦いをやめる人は、教会に、超自然の事業(使徒職)に、兄弟たちと人々に、害を与えることになる。

 糾明してみなさい。あなたの霊的な戦いに、もっと生き生きとした神への愛を込めることはできないだろうか。私はあなたのため、そしてすべての人のため、祈っている。あなたもそうしなさい。

 イエスよ、万一私にあなたを不愉快にさせることがあればおっしゃってください。捨て去ってしまいますから。

 内的生活にとって、小さくて馬鹿だが、すこぶる効果的な働きをする敵が、残念なことにいる。それは、良心の糾明にあまり努力しないこと。

 キリスト教の修徳にとって良心の糾明とは、愛の要請・細やかな感受性に応えることである。

 万一、神の精神に合っていないことがあれば、直ちに捨てなさい。

 使徒たちのことを考えてみよう。自分では何もできなかったが、主の御名(みな)において奇跡を行う。たぶん奇跡も起こしただろうにユダだけが、自分の意志でキリストを離れ、道から逸れた。神の精神と一致しないことを、少々手荒な手段を使ってでも、勇気を出して捨てなかったからである。

 神よ、私は、いつになったら改心するのでしょう。

 歳をとってから聖人になろうなどと考えてはいけない。そのような考えは大変な間違いである。

 今すぐに始めなさい。真剣に、楽しく、喜んで、あなたの義務や仕事や日常生活を通して…。

 歳をとってから聖人になろうなんて考えてはいけない。重ねて言う。そのような考えが大変な間違いであるのは勿論だが、それよりもあなたが長寿を全うするかどうか、分からないではないか。

 小罪がどれほどの悪であるかを知るため、必要な感受性を主に願いなさい。小罪を霊魂にとっての根本的な敵・不倶(ふぐ)載天(たいてん)の敵と見做(みな)し、神の恩恵を得てそれを避けるためである。

 小心に陥ることなく、落ち着いて、生き方を振り返らなければならない。赦しを乞い、また、あれやこれや、つまり小さなことだがなかなか上手くいかない点や、どうすべきか分かっているのだがいつも上手くできない点を改善するため、具体的でしっかり特定された固い決心を立てるためである。

 良い望みをたくさん持ちなさい。そうするのは立派なことだし、神も褒めてくださる。しかし、望みだけでは何の役にも立たない。地に足をつけた実際的な人間でなければならない。良い望みを実行に移すには、分かり易くて具体的な決心を立てる必要があるのだ。

 そして、わが子よ、その後で、神の助けを受けてそれらを実行に移すため戦うのである。

 どうすれば主を愛し続け、またその愛を増すことができるだろうか、とあなたは燃える心で尋ねた。

 子よ、古い人を脱ぎ捨てるのだ。同時に、それ自体は良いことでも、自我を捨てる邪魔になるものを、物惜しみせずに捧げるのだ。それは、「私はここにおります。あなたのお望みを果たすために」と、絶えず主に申し上げることであり、それを実行することである。

 聖人。仮にそのようなことができるとすれば、の話だが、神の子なら度を過ごしたと言えるほど、徳を実行しなければならない。なぜかと言うと、人々は鏡を見るのと同じように神の子の中に自分を見るからであり、高いところを狙っておいて始めて、彼らは中ぐらいのところに到達することができるからである。

 心の中に〈罪の火口〉、つまり悪への傾きを見つけても恥ずかしがる必要はない。それは生きている間ずっと付いて来るものであり、その重荷を免除されている人はいないのである。

 恥ずかしがらなくてもよい。全能にして慈しみ深い主は、このような傾きに打ち勝つために必要な手段をすべて与えてくださったのだから。すなわち秘跡、信心生活、聖化された仕事である。

 辛抱強く、またがっかりしないで何度もやり直す覚悟を決めて、それらの手段を使いなさい。

 主よ、私を私自身から解放してくださいますように。

 常にきちんと決めたとおりに祈りをしない使徒なら、必ず生温くなる。使徒でなくなるのである。

 主よ、私が今から別の私になりますように。〈今の私〉ではなく、〈あなたがお望みの私〉になれますように。

 あなたが要求なさることは何一つ拒むことがありませんように。祈り、苦しむことを知る人間でありますように。あなたに栄光を帰すること以外は何事にも心配しませんように。あなたの現存を絶えず感じることのできますように。

 父なる神をお愛しできますように。私のイエスよ、絶え間のない一致(交わり)のうちにあなたを望むことができますように。聖霊が私を燃え上がらせてくださいますように。

「あなたはわたしのもの」と、主は仰せになる。美そのもの、英知そのもの、偉大さそのもの、善そのものの神が、あなたをご自分のものだと仰せになる。それなのに、主にお応えしないなんて。

 生きている間あなたが、聖パウロの言うあの重荷を背負っているからといって、驚いてはならない。「わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦」う。

 そんな時には自分がキリストのものであることを思い出し、あなたの母でもある神の御母のもとへ行きなさい。聖母があなたをお見捨てになることはないだろう。

 霊的指導において受ける勧めを、イエス・キリストご自身からの勧めとして受け入れなさい。

 日々の戦いに勝つための勧めが欲しいと頼んだので、私は次のように答えた。「心を開いて話すとき、一番知られたくないことを、最初に言いなさい。そうすれば、常に悪魔を打ち負かすことができる」。

心の隅々にまで神愛の光が入り込むよう、率直に、心をいっぱいに開きなさい。

 福音書の述べる唖にする悪魔が心の中に入り込むと、すべてが駄目になる。しかし、すぐに追い出すなら、何もかも上手くいく。幸せな気持ちで歩みを進め、すべてが上手くいくのである。

そこで確(かく)たる決心をひとつ。霊的指導を受けるときは、濃やかさと礼を失しない限り、〈野蛮なほど誠実〉になろう。しかもこの誠実さは、直ちに実行しなければならない。

 あなたの霊魂の導き手の助けを愛し、また求めなさい。霊的指導を受けるときは、心を隈(くま)なくさらけ出しなさい。腐っていたら腐ったまま何もかもを、誠実に、治りたいという望みを込めて。そうしないと、その腐ったところは、いつになっても治らないだろう。

 傷の上辺(うわべ)しか癒すことのできない人に助けを求めるのは、臆病者である。結局は自分が苦しむことになるのに、本当の姿を隠しているからである。

 恐れずに真実を語りなさい。ただし、隣人への愛徳を考え、時には沈黙したほうが良いときのあることも忘れないように。いずれにしても、怠惰や安楽や臆病心に負けて沈黙することのないようにしてほしい。

 真理は二千年も前に人間のもとに来たのに、世界は嘘で動いている。

真実を語ること。神の子なら、これを目指さなければならない。人々が真理をはっきりと語り、また真理を聞くことに慣れてくれば、この世界はもっと理解し合うことだろう。

 信仰に関する事柄で譲歩するのは、偽りの愛徳、悪魔的で嘘に満ちた愛徳である。「信仰を固めよ」と聖ペトロが要求するように、確たる信仰、強い信仰を保たなければならない。

 それは狂信ではなく、単純に信仰を生きることであって、人々に冷淡な態度を示すことではないからである。どうでもよいことなら譲歩するが、信仰に関することで譲歩する余地はない。自分のランプの油を他人に譲ることはできないのである。そんなことをすれば、後で花婿なるキリストがおいでになったとき、ランプの火が消えていることになる。

 謙遜と従順こそ、正しい教えを受け入れるために欠くことのできない条件である。

 教皇の言葉は、心から受け入れてそれを実行に移す態度で、すなわち恭順と謙遜をもって受け入れなさい。そしてそれを人々に伝えなさい。

 日毎にいっそう深い愛を込めて、ローマ教皇を愛し、敬い、教皇のために犠牲を捧げなさい。教皇は教会の礎石(そせき)であって、幾世紀にもわたって世の終わりまで人々の間で、イエスがペトロに任せられた聖化と統治の仕事を続けているのである。

 あなたはもっと大きな愛、もっと深い敬い、さらなる敬愛、徹底的な従順、今以上に深い愛を、この世におけるキリストの代理者、すなわち教皇にも示さなければならない。

 私たちカトリック信者は、愛と権威の段階において、神と私たちの母なる処女マリアに次ぐ位置を占めるのが教皇であることを忘れてはならない。

 教皇と司教が日々担う重荷のことを考えれば、彼らを敬い、心から愛し、祈りで助けるべきことが痛切に理解できるだろう。

 聖母に対する愛をもっと生き生きとさせ、もっと超自然的な愛にしなさい。

 お願いする目的だけで聖母マリアに近づくことのないようにしよう。何かを差し上げるためにも近づこうではないか。愛情を示し、神なる御子のため愛を捧げ、人々もマリアの子であるから、彼らに接するとき奉仕の行いで聖母への愛を示すため、聖母のもとへ行こう。

 イエスは模範である。イエスを真似よう。聖なる教会とすべての人々に仕えるというかたちで、イエスを真似よう。

 託身(受肉)の場面を眺めて、心の中で、言動において謙遜になる決意を固めよう。神は自らを低くして、哀れな人間性を取られたのである。

 だから毎日、主がお送りになる屈辱を、神の恩恵の助けを得て直ちに、喜んで受け入れるようにしなさい。

 キリスト教的な生活を自然に営みなさい。繰り返し言うが、まともな鏡が姿を歪めたり変形したりせずに正常な像を映すように、あなたの行いでキリストを人々に知らせなさい。あなたがまともなら、まともな鏡のようにキリストの生き方を映し出し、それを人々に見せることができるだろう。

 万一、あなたが自惚れ屋なら、あるいは自分ひとりのことだけしか心配しないようなら、自分を人々や世界の中心に考えるのなら、自らをキリスト者と呼んだり、キリストの弟子と見なしたりする権利はない。キリストは「命」そのもの、その全生涯を一人ひとりに与えるに際して、どこまで私たちに要求するおつもりか、その限度をお定めになったからである。

 〈知性の謙遜〉こそ、あなたの生き方の原則であるよう努力しなさい。

 ゆっくりと考えなさい。そうすれば〈知性の高慢〉などあり得ないことがよく分かるだろう。あの聖なる教会博士はこの点を見事に説明してくれている。「幼子となられた神を見ながら、人間が地上で偉大な存在である振(ふ)りをし続けるなど、まことに唾棄(だき)すべき不秩序である」と。

 誰かが傍らに居るときは、それが誰であっても、変わったことをせず、神の子であることの、また神の子として生きることの喜びをその人に伝える方法を探しなさい。

 神なる師がお任せになった使命、仕えるという使命は偉大で美しい。だからこそ、この良い精神 ― 堂々とした態度 ― は、キリスト者の働きに染み込んでいるはずの自由を愛する心と、完全に両立するのである。

 誰と接するにしても、慈しみの心を欠いてはならない。万一、ある人が慈しみに値しないと思えたときは、あなたも何ら値打ちのない存在であることを思い出しなさい。

造ってもらう値打ちはなかったし、キリスト者にも神の子にもなる値打ちはなく、現在のあなたの家族の一員になる値打ちもないのである。

 超自然的な愛徳の明らかなしるし、すなわち、兄弟的説諭の実行を疎(おろそ)かにしてはならない。なかなか実行し難いことで、遠慮するほうが楽(らく)でいい。確かにその方がずっと楽ではあるが、超自然的な態度ではない。

 そして説諭を怠ったのなら、そのことについては、神に申し開きをしなければならないだろう。

 必要なときは、内容ややり方について優しく心細やかな ― 愛のこもった ― 兄弟的説諭をしなければならない。その時あなたは神の道具なのだから。

人々を愛し、すべての人の間に愛を ― 礼儀正しく濃やかなキリストの愛を広めるなら、互いに支え合うことになる。そして倒れかけていた人も、神への忠実を保てと勧める兄弟の力に支えられて ― 励まされて ― いると感じることだろう。

 愛徳にかかわる小さな事柄を実行して、犠牲の精神を育てなさい。この世における聖性への道を愛すべきものにするという熱意をもってそうしなさい。時として、一度の微笑(ほほえ)みが最高の償いの行為であり得るのだから。

人々に仕え、人々の生活を快くするため、毎日惜しみない心をもって、嫌なことを喜んで、人に気取られずに受け入れなさい。

 こういうやり方こそ、本当にイエス・キリストの愛である。

 内的生活の実りであるその〈朗らかさ〉、その喜びをどこに居ても保つよう懸命に努力しなさい。

 たいへん魅力のある犠牲だから、是非ともあなたに実行してほしい。あなたが話すとき、自分を話題の中心にしないという犠牲である。

 良心の糾明を良くする方法。

 今日、神がお送りになった困難を償いとして受け入れただろうか。仲間の人たちとの性格の不一致から生じる困難や自分自身の惨めさを、どのように受けとめただろうか。

 これほど頻繁に神を侮辱したことに対して感じる悲しみを、償いとして主に捧げただろうか。徳の道にこんなにわずかしか進歩しない自分を思って、心の中で赤面するような恥ずかしさと屈辱を主にお捧げしただろうか。

 習憤として実行している〈いつもの〉犠牲は大切であるが、それしか考えない偏執狂(へんしゅうきょう)になってはいけない。

 必ずしも同じことだけを犠牲にする必要はない。惰性に陥らず、絶えず休みなく続けること、良い意味の習慣になったこと、それが犠牲の精神であるから。

 キリストの足跡を歩みたい、主を〈着たい〉、主を身につけたい、キリストとひとつになりたい、とあなたは考えている。それなら、行いに現れる信仰、犠牲に裏打ちされた信仰、役に立つ行いを生む信仰、邪魔になるものを捨て去ることのできる信仰を持っていなければならない。

 聖性は、しなやかな筋肉のように柔軟でなければならない。聖人になりたいと考えている人なら、どういうふうにすればよいかを知っているものである。つまり、犠牲として何かを捧げるとき、神を侮辱することにならない限り、同じように犠牲を要する他のことを敢えてしない。そして、そのおかげで楽になったことを神に感謝するのである。キリスト者が他のやり方をすると、ボロで作った人形のように固くて命のない人間になる危険がある。

 聖性とは、厚紙のように固いものではなく、微笑み、譲歩し、待つことを知っている。聖性とは生命、つまり超自然の生命なのである。

 お母様、私を見放さないでください。御子を求め、御子に出会い、私の全存在をあげて愛することができるよう、お助けください。どうか私のことを思い出してください。聖母よ、私のことを忘れないでください。

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