勝利

  聖なる処女マリアに倣いなさい。自らの無をはっきり認めなければ、創造主の御目に美しい存在とは見えないからである。

 若い使徒ヨハネが十字架のキリストの傍らに留まったのは、聖母が使徒をお引き寄せになったからだ、確信している。私たちの貴婦人の愛はこのようなことまでお出来になるのだ。

 〈本当に〉イエスの真似をしない限り、つまり主のように謙遜にならない限り、決して超自然的にも人間的にも本物の喜び・〈本当の〉朗らかさを得ることはできない。

 誠実に真心から人々のために自らを捧げると、その効果は抜群で、神は喜びに満ちた謙遜を報いとしてお与えになる。

 すべてにおいて完璧に、屈辱を甘受し、へりくだって自らを無にし、身を隠し、姿を消さなければならない。

 誠実な謙遜。侮辱されることを喜びとする人の心を乱すものは何もない。優しい扱いをされる値打ちのないことを知っているからである。

 私のイエスよ、私のものはあなたのものです。なぜならあなたのものは私のもので、私のものは何もかもあなたにお任せしてありますから。

 大切でなく、真理を曖昧にしない事柄で、神が要求される恥の数々を、我慢して堪え忍ぶことができるだろうか? できないって? それなら、謙遜の徳を実行しているとは言えない。

 高慢は愛徳を衰えさせる。あなたを含めすべての人のため、謙遜の徳を主に願いなさい。高慢というのは、間に合う内に矯正(きょうせい)しておかないと、歳と共にひどくなるからである。

 大人じみた子供ほど嫌なものはない。哀れな人間 ― 子供 ― が大きな態度をとり、高慢で膨れあがり、自己を過大評価して自分だけに頼るなら、神に好感を持っていただくのは無理だろう。

 確かにあなたが亡びる可能性はある。あなたはその可能性を確信しているが、それは心の中にあらゆる悪の種が見つかるからである。

 しかし、神のみ前で子供になれるなら、そういう状態であればこそ、かえって父なる神と聖母マリアに一致することだろう。そして聖ヨセフもあなたの守護の天使も、子供であるあなたを見て、見捨ててはおかないだろう。

 信じて、できるだけのことをしなさい。償いを捧げ、愛を示しなさい。足りないところは彼らが補ってくれる。

 謙遜を実行するのはなんと難しいことか。キリスト教の格言が教えるように、「高慢は人が死んでから二十四時間は生き続ける」からである。

 したがって、あなたの魂を導くため神の特別の恩恵を受けた人が言うことに逆らって、自分が正しいと考えることがあれば、実はそのとき間違っているのはあなたであると確信しなさい。

 子供に仕え、子供を養育する。愛情をもって病人の世話をする。

 単純素朴な人々に分かってもらうには、知性をへりくだらせ謙遜にならなければならない。かわいそうな病人を理解するには、心を謙遜にしなければならない。このように知性と体を跪(ひざまず)かせるなら、人間の惨めさ、自分の惨めさを通ってイエスのもとへ行くのが容易になる。自他(じた)の惨めさを見れば、自らを消滅させて無とし、その無の土台の上に神が建物をお建てになるのが容易になるからである。

 決心。どうしても必要でない限り、自分のことは決して話さないことにしよう。

 イエスがお与えになる確信に感謝しなさい。それは頑固さではなく、神の光である。本当に良い人であるにもかかわらず悲しむべき役柄を演じることになった人々は、信仰という土台を持たず、砂の中に沈んでいく。それに対し、あなたは、岩の上にいるようにしっかり立っていることができる。

 信仰の徳が要求する数々の事柄を、あなたとすべての人がそれぞれの生活において果たすことができるよう、主にお願いしなさい。

私が今の私とは異なる私であったなら、もっと性格を抑えることができれば、主よ、あなたにもっと忠実であれば、あなたは素晴らしい方法で私たちを助けてくださるに違いありません。

 父なる神はあなたの心に償いをしたいという強い望みを注いでくださった。その望みは、あなたの個人的な償いをイエスの無限の功徳に合わせることによって満たされるだろう。

   意向を正しなさい。キリストにおいて、キリストと共に、キリストによって、苦しみを愛しなさい。

 自分が進歩したかどうか、また、どれくらい進歩したか分からない。そんなことを考えて何の役に立つのだろう。

 大切なのは、あなたが堅忍し、心が火となって燃え上がり、もっと光を見、もっと視野を広げること、また、私たちの数々の意向のために精を出して働き、意向が分からなくても自分の意向として受け入れ、すべての意向のために祈ることである。

 イエスに申し上げなさい。「私の庭には、瑞々(みずみず)しい花は一輪もありません。どの花も汚れており、色も香りも褪(あ)せているようです。かわいそうな私。堆肥の積もった床に顔を埋めている。これが私のいるところなのです」。

 このように自らを低めるなら、あなたの中で主が打ち勝たれ、あなたは勝利を得るだろう。

 あなたの次の結論はよく理解できる。「はっきり言って、私はエルサレム入城のとき主の玉座となったあのロバになりきれない。極貧の屑屋でさえ拾わない汚れにまみれたボロ山の一部になるのが関の山」。

 しかし、私はこう答えた。「それにもかかわらず、主はあなたを選ばれた。ご自分の道具にしたいと望まれたのである。だから、現に自らの惨めさを目の当りにしているという事実こそ、召し出しをお与えになった神に感謝する理由になるはずだ」。

「マニフィカト」(マリアの賛歌)に現れるマリアの謙遜で喜びに溢れた賛歌を耳にして、子供のようになる人や、自らを低めて誠実に無であることを認める人に対する、主の限りない寛大さを思い出す。

 特別なことが生じた時はいつも、世間が好運だとか不運だとか言うのを意に介さず、感謝の心を表す「テ・デウム」を唱えて、神の優しさを認めること、これは神にとって真に喜ばしい行為である。すべては神の御手から来るのだから、たとえのみが打ち込まれて体に傷がつこうとも、それは角を削って完全な状態に近づけるためであり、やはり神が愛してくださっている証拠なのである。

 人間は仕事をするとき、適切な道具を使おうとするものである。

 何世紀も前に生きていたとすれば、鳥の羽根を使って字を書いただろうが、今は万年筆を使っている。

ところで、神が何らかの事業を完成させようと思われるときは、不釣り合いな道具をお選びになる。私が幾度となく言うのを聞いたと思うが、こうなさるのは、事業がご自分のものであることをお示しになるためである。

 だから、自らの惨めさをよく知っているあなたも私も、主に申し上げなければならない。「たとえ惨めであっても、私はあなたが手になさる神的な道具であることを認めないわけにはいきません」。

私たちはできる限りの努力をして、父なる神、子なる神、聖霊なる神を称えたいと思う。

 あの優秀な大学生 ― 二人の技師と二人の建築家 ― が、ある学生寮の家具の備え付けに喜んで従事していたのを思い出すと感激する。教室に黒板を置いて、その四人の芸術家が最初に書いた言葉は〈すべての栄光は神に〉であった。

 イエスよ、私はあなたが大喜びされたことを知っています。

 人の子が来られたのは、仕えられるためではなく仕えるためであったことを、どこに居ても決して忘れないで欲しい。そして、誰であろうとイエスに付き従いたければ、これ以外の行動の指針を考えるべきでないことを確信しなければならない。

 神はご自分の子である私たちに対して特別の権利を持っておられる。個人的に多くの失敗があっても神の愛に応えよ、要求なさる権利である。こう確信すると、避けることのできない責任を感じると共に、十分な安心を得ることができる。すなわち私たちは神が手になさる道具であり、神は日々この道具を頼りにしておられる。それゆえ私たちは、日々精一杯の努力を傾けて主に仕えるのである。

 できるだけのことをして道具が完全に準備されているのを、主はお望みである。ところであなたは、このような良い準備ができるよう努力しなければならない。

 〈アヴェ・マリアの祈り〉一つひとつ、聖母への挨拶の一つひとつが愛する心の新たな鼓動である、と私は理解している。

私たちの生活、つまりキリスト者の生活は、平凡なものでなければならない。すなわち、いつもの義務を毎日きちんと果たす努力をすること、神がお与えになった使命を、各瞬間毎の小さな務めを果たしつつ、この世界で実現させることである。

 果たすべく努力する、と言う方が良いだろう。なぜなら、時には果たせないことがあるから。そして夜が訪れ、良心の糾明をするとき、主に申し上げなければならないだろうから。「あなたに徳をお捧げすることはできません。今日お捧げできるのは失敗だけです。しかし、あなたが恩恵を下されば、私は勝利者になれるでしょう」。

私が心から望んでいること、それは罪を犯したにもかかわらず(もう決してイエスを侮辱しないようにしなさい)、あなたが〈常に神のみ旨を愛するという幸いな生き方〉のできるよう、神が慈しみを注いで助けてくださることである。

 神に仕えるため役に立たない仕事はない。すべてが大切なのだ。

 仕事の値打ちは、それをする人の霊的なレベルによって決まる。

 神は被造物である人間の些細な事柄にまで関心をお持ちである、という絶対確実な真理を知れば、喜びに満たされるのではないだろうか。

 本当にイエスのものになりたいという望みを再び表明しなさい。「イエスよ、私をお助けください。本当にあなたのものにしてください。誰も気づかない小さなことを果たす努力によって、私を燃え上がらせ、焼き尽くしてください」と。

 聖なるロザリオ。聖母の生涯の喜びと苦しみと栄えの神秘は、天使と天国の諸聖人、そしてこの世で御母を愛する人々が織り上げ、絶え間なく繰り返す賛美の冠である。

日々この聖なる信心を実行し、広めなさい。

私たちは洗礼によってラテン語の〈フィデーレス〉すなわち(忠実な人)となる。これは〈サンクティ〉すなわち(聖人)というもう一つの言葉と共に、キリストに従った初代の信者が互いの呼び名として使っていた言葉である。そして、この〈フィデーレス〉(忠実な人)という表現は、今も色々な国の言葉で教会の(信者)を表す言葉として用いられている。

 よく考えてみなさい。

 寛大さという点で神は決して引けを取られない。だから、神はご自分に従う人に忠実という賜物をお恵みになることを確信しておきなさい。

 自分に対して恐れずに厳しく要求しなさい。目立たない生活を営みながらそうしている人が大勢いる。主のみが際立つためである。

 神のものになりきろうと望んだあの人が、当時ご公現の八日間の間に祝っていた聖家族の祝日に考えたのと同じように、あなたも私も反応したいものである。

「小さな十字架はいつもある。昨日の十字架は苦しくて涙が出るほどだったが、今日になって考えると、私の父であり主(あるじ)である聖ヨセフと私の聖母マリアが〈ご自分の子〉にクリスマスのプレゼントをお忘れにならなかったことが分かった。このプレゼントは、恩恵に応えなかった私のイエスに対する恩知らずな態度と、私をご自分の道具にしようと望まれた神の至聖なるみ旨に卑怯な振る舞いで反抗した私の大きな過ちを思い知るための光であったのだ」。

 墓に到着した聖なる婦人たちは、石がわきへ転がしてあるのを見て喜んだ。

いつもこうなるのだ。すべきことを果たす決心さえすれば、困難は簡単に克服できるのである。

 従い方を学ばない限り、効果的な働きはできない。

 これを確信してほしい。

 寒くても暑くても、元気であろうが疲れていようが、若かろうがあまり若くなかろうが、受けた命令に従うことにかけては、誰にも引けを取ってはならない。

 〈命令に従うことのできない人〉は、決して命令の仕方を身につけることができないだろう。

 十二のことのできる人が四しかしていなくても満足するような(霊的)指導者は、名だたる愚鈍と言われても仕方ない。

 従うべきとき、あるいは命令すべきときは、いつも深い愛を込めなければならない。

 あなたの祈りで助けてほしいのだが、使徒聖パウロが要求するように、聖なる教会の中で私たち全員が一つの体の肢体であることを実感したいと思う。そして、無関心な態度を取らず、皆が、唯一の、聖なる、普遍の、使徒的教会、私たちの母なるローマ教会の喜びと苦しみと発展を本当に自分のものとして生きればと思う。

 互いに一つになり、全員がキリストと一つになりたいものだ。

 子よ、教会において分裂とは、すなわち死であることを確信しなさい。

 初代教会がそうであったように、私たちの母である聖なる教会において、皆が心を一つにするよう、神にお願いして欲しい。それは「信じた人々の群れは心も思いも一つにし」ていたという聖書の言葉が世の終わりまで実現し続けるためである。

 私は真剣に話している。この聖なる一致が、あなたが原因となって損なわれることがないよう、願う。祈りの中でよく考えなさい。

 ローマ教皇への忠実には、明白に定められた義務が含まれている。すなわち、まずカトリック信者が回勅その他の文書に表明された教皇の考えを知ること、そしてすべてのカトリック信者が、教皇の教え(教導)に注目し、各自の生活をその教えに合わせるよう自らできる限りの努力を傾けることである。

 主が私たちに言葉の賜物をお恵みになるよう、毎日、心からお願いしている。ここで言う言葉の賜物とは、たくさんの外国語を知ることではなく、聞き手の能力に合わせて話すための賜物のことである。

 〈大衆が分かるよう単純で愚かな話し方をすること〉ではない。誰もが理解できるよう、キリスト教的で知恵に満ちた話し方をすることである。

 このような賜物を私の子供たちにお与えくださるよう、主と聖母にお願いしている。

 少数の人たちの悪意と大勢の無知、これこそ神と教会の敵である。

 悪意の人たちをうろたえさせ、無知の人の知恵を照らそう。神の助けと私たちの努力で世界を救うのである。

 高潔で正真正銘のキリスト教的良心を備え、首尾一貫した生活を送り、科学という武器を人類と教会のために使う人が知的活動のあらゆる分野で活躍するよう、私たちはできる限り尽力しなければならない。

 イエスが地上に来られたときと同じように、キリストとキリストに従う人々を迫害するため、科学の知識を悪用するだけでなく、果ては捏造(ねつぞう)することさえ厭わないヘロデのような人間がこの世から消えることはないからである。

 前途に横たわる仕事のなんと大きいことか。

 あなたの仕事はすべて霊魂に関わるものであるべきだが、とにかく霊魂に関する仕事に携わるときは、信仰と希望と愛に満ちていなければならない。困難はすべて克服されるだろう。

 この真理を確信させるため、詩編作者は次のように書き記した。「主よ、あなたは彼らを笑い、国々をすべて嘲笑(あざわら)っておられます」、あなたは彼らを無に帰してしまわれます。

 これは、「これに対抗できない」、すなわち神の敵もこれに打ち勝つことはできない、教会と神の道具として教会に仕える人々に対しては誰も何もできないという言葉を確認してくれる。

私たちの母なる教会は、堂々と愛を広めつつ、ローマから周辺へと世界中に福音の種を蒔いている。

 あなたもこの仕事を世界中に広めるため協力するにあたり、全地がひとつの群れとなり、一人の牧者のもとで、一つの使徒職をするよう、〈周辺〉を教皇のもとに連れていきなさい。

 〈私たちはキリストが王になるのを望む〉、キリストの支配を望む。〈すべては神の栄光のため〉である。

 キリストの武器をもって戦い、そして勝利を得るというこの理想は、祈りと犠牲、信仰と愛によってしか実現させることができない。

 だから祈り、信じ、苦しみ、愛するのだ。

 教会の日々の仕事は、主に捧げる素晴らしい織物である。洗礼を受けた人、皆が教会であるから。私たちが忠実を保ちすべてを捧げて義務を果たすなら、美しく完全で見事な織物を織ることができるだろう。 しかし、あちこちの糸がほつれると、美しい織物は切(き)れ切(ぎ)れのボロになるだろう。

 なぜ兄弟的説諭をする決心をしないのか? 少なくとも最初のうちはへりくだるのが難しいから、説諭を受けた人は苦しむ。ところで、説諭をする方は、いつになっても辛いものだ。これは誰もが知っている。

人を助けるため、祈りと良い模範に次いで役に立つ方法は、兄弟的説諭の実行である。

 教会に導くにあたって、神があなたに寄せられた信頼を思えば、大勢の人が歳をとるにつれて身につける慎重と落ち着き、剛毅、自然的・超自然的賢慮の徳を今から備えていなければならないことが分かるだろう。

 カトリック要理で学んだように、キリスト者とはイエス・キリストを信じる人間であることを忘れてはならない。

 強くなりたいのか? 第一に、自分の弱さを知りなさい。次いで、キリストを信頼しなさい。彼は父であり兄弟、先生であって、勝利を得るための手段、すなわち秘跡を与え、私たちを強めてくださった。秘跡を活用しなさい。

 聖なるミサの典礼に浸りきりたい、と心を打ち明けたときのあなたの気持ちが、私にはよく理解できた。

 聖なる典礼への信心にはなんと大きな値打ちがあることか。

 数日前にある人が、最近死去した一人の模範的な司祭について、本当に聖人だったと言うのを聞いたが、私は驚かなかった。

 「その方のことはよくご存じだったのですか」と尋ねると、その人は次のように答えたからである。

「いいえ。けれども、その司祭がごミサをたてておられるのを一度拝見したことがあるのです」。

 キリスト者と称するあなたは、教会の聖なる典礼を〈生き〉なければならない。そして司祭たち、特に新司祭のために祈るべく定められた日々と叙階の知らせを聞いたとき、心を込めて祈り、犠牲を捧げなければならない。

 祈りと償いと行いを「皆が一つとなるように」という目的のために捧げなさい。すべてのキリスト者が一つの意志、一つの心、一つの精神を持つため、また、〈皆がペトロと共にマリアを通ってイエスヘ〉、すなわち、私たち皆が教皇と一致し、マリアを通ってイエスのもとへ行くためである。

 わが子よ、あなたは、「満足していただくにはどうすればよいのでしょうか」と尋ねる。

 主があなたに満足しておいでになるなら、私も満足なのだ。そして主が満足しておいでになるかどうかは、あなたの心が平和と喜びに満たされているかどうかによって分かるだろう。

 神の人であることの明らかな証拠は心の平和である。神の人なら、自ら〈平和〉を保っており、接する人たちに〈平和〉を与える。

 哀れにも〈憎しみをもつ人〉が石を投げつけるのなら、あなたも投げ返しなさい。ただし、〈アヴェ・マリアの祈り〉という石を。

 万一あなたの使徒職が実を結ばないように思えても、心配するには及ばない。聖性に関する種蒔きなら、無駄にはならない。ほかの人が実りを採りいれるだろう。

 祈りにおいてあまり光を得ることができず、祈りが煩わしく無味乾燥であっても、常に新しく確かな洞察力をもって、信仰生活(信心生活)の細かなことすべてにおいて堅忍する必要を考えなければならない。

 あなたは使徒職の困難を前にして次のように祈り、勇気づいた。「主よ、あなたはいつものあなたです。恩恵に応え、あなたの名において偉大な奇跡、本物の不思議を行った人たちの信仰を私にお与えください」。そして、「そうしてくださると信じています。しかし同時に、あなたは人々が願うのを待っておられること、私たちがあなたを探し求め、聖心の扉を強く叩くようお望みであることを知っています」と祈りを結んだ。

 最後にあなたは謙遜で信頼しきった祈りを堅忍して続ける決心を新たにしたのだった。

 苦しみの最中にも、勝利のときにも、繰り返しなさい。「主よ、私の手を放さないでください。放っておかないでください。未熟な子供を助けるように私をお助けください。いつも手を取ってお導きください」。

「大水も愛を消すことはできない」、逆巻くがごとき洪水も愛徳の火を消し止めることはできない。聖書のこの箇所の解釈を二つ提供しよう。一つ、あなたの無数の罪も、深い痛悔の念があるので、決してあなたを私たちの神の愛から離すことはない。二つ、ひょっとすれば苦しみのもとになっている無理解や困難の大水も、あなたの使徒職を中断させるはずはない。

 完成させよう、最後までやり通そう。子よ、「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」のだ。

 神の子らには手段がある。あなたにも。私たちは必ず乗り切ることができる。私たちを強めてくださる御方において、すべてが可能なのだから。

 神と共にすれば、できないことはない。常に克服できるのである。

 近い将来が不安材料だらけに見えることが時々あるが、そのようなときは超自然的な見方を失っているのである。

 だから子よ、そのときこそ信仰が、そして今以上の行いが必要なのだ。そうすればきっと、父なる神がいつも問題を解決してくださる。

 通常の摂理も絶え間ない奇跡であるが、どうしても必要なときには、神が特別の手段も講じてくださる。

 キリスト者の楽観とは、甘ったるいものでも、何もかも上手くいくだろうという人間的な確信でもない。

 それは自らが自由であるという自覚と、恩恵の確実さとを根拠にした楽観である。すなわち自らに厳しく要求し、各瞬間の神の呼びかけに応える努力をするよう導く楽観のことである。

 主の勝利、すなわち復活の日は決定的な日になった。官権が派遣した兵士はどこにいるのだろうか。墓を閉じた石の封印はどこへ行ったのか。師に刑を宣告した連中はどこにいるのか。イエスを十字架の磔に処した人々はどこにいるのだろうか。哀れで惨めな人たちは、主の凱旋を見て、逃げ去った。

 大きな希望を持ちなさい。イエス・キリストは常に勝利を得られるのだから。

 マリアを探し求めるなら、〈必ず〉イエスに出会い、神の聖心の中にあることを常によりいっそう深く学ぶことができるだろう。

 使徒職をしようとするときには、神を探し求めていたあの人の言葉を自分に当てはめなさい。「今日、私は司祭のための黙想会の説教を始める。私たちが豊かな実りを得ることができればと思う。しかし、まず私自身が…」。

 後になってから、彼は言った。「黙想会が始まって数日が経った。参加者は百二十人。主が私たちの霊魂内で効果的な働きをしてくださると期待している」。

 子よ、あなたは謙遜、従順、忠実になり、神の精神で満たされる値打ちがある。今あなたが居るところ、仕事場から、この世界に住むすべての人々に神の精神をもたらすためである。

 戦争中は、弾薬や食料や薬品を兵士たちに供給する人たちが必要である。彼らは見たところ戦いに参加していないように見えるが、彼らがいないと、敵と対決する兵隊の勇気も大して役に立たないことだろう。

大勢の人の祈りと犠牲がなければ、本物の使徒職活動はあり得ない。

 奇跡を起こす力。あなたの中でキリストがお働きになるのを認めれば、大勢の死人やすでに腐っている人たちさえ蘇らせることができるだろう。

 福音書によれば、その頃、病に苦しむ人々が、お通りになる主を呼び求めた。キリストは今も、キリスト者としてのあなたの生活を使って人々の間を通っておられる。あなたがキリストに手をお貸しすれば、大勢の人々が主を知り、主に呼びかけ、助けを乞うことだろう。そして、彼らの目は開かれ、素晴らしい恩恵の光を見ることだろう。

 あなたは勝手なことばかりしている。だから働いても実を結ばないのである。

 従いなさい。素直になりなさい。機械の歯車はそれぞれ自分の場に納まっていなければならない。(そうでないと、機械が止まったり部品が変形したりして何も作れないか、ほんのわずかしか作れないことだろう)。それと同じように、男性も女性も自分の活動の場から離れてしまえば、使徒職の道具となるどころか、かえって邪魔になってしまう。

 使徒の目的はただ一つである。主の働きの邪魔をしないこと、いつでも使っていただけるよう自分を準備しておくこと。

最初の十二人の使徒たちも、福音を宣(の)べ伝えに行った所では外国人であり、キリストの教えに真っ向から対立する考えを基礎に世界を打ち立てようとする人々とぶつかった。

 考えてもみなさい。彼らはこのような逆境をものともせず、贖いに関する神のメッセージの管理者であることを自覚していたのだ。そして使徒パウロは、「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」と叫んでいる。

私たちの生活が贖いの効果、永遠の効果を上げるかどうかは、謙遜に自らを隠し、人々が主を見出すことのできるようにするかどうかにかかっている。

 使徒職をする神の子らは、光源を見せないが世界を明るく照らす強力な発電所となるべきである。

 イエスは「あなたがたに耳を傾ける者は、わたしに耳を傾け」ると仰せになる。

 それでもあなたは自分の言葉で人を説得できるなどと、未だに信じているのだろうか。さらに、聖霊はご計画のため、まったく役立たずの道具をお使いになることもあるという点も忘れないでほしい。

 聖アンブロジオの言葉は、見事に神の子らに当てはまる。彼は、イエスの凱旋のときに仕えたロバ、母ロバに繋がれた子ロバについて説明している。「主の命令がなければ、ロバを解き放つことができなかった。そして使徒たちの手がそれを解き放った。同じようなことのため、ある種の生き方、特別の恩恵が必要となる。あなたも、囚われの身にある人々を自由にするため使徒になりなさい」。

 同じ箇所をもう一度説明させてほしい。私たちはキリストの命令により何度も人々を束縛から解き放たなければならないことだろう。主はご自分の凱旋のため彼らを必要としておられるからである。私たちの手、私たちの行い、私たちの生活が、使徒のそれでありますように。そうなれば、繋がれた人々の鎖を断ち切るため、神は私たちに使徒となる恩恵をお与えになるだろう。

私たちの間をお通りになるイエスの力を自分のものと考えることはできない。主はお通りになる。そして私たち皆が主の傍らに集い、心を一つにし、一つの考えを持ち、よいキリスト者になりたいという唯一の望みを持つなら、主が人々をお変えになる。あなたでも私でもなく、主がそうなさる。キリストがお通りになるのである。

 それだけでなく、キリストはあなたの心、私の心、私たちの心の中に、そして聖櫃に残ってくださる。

 お通りになるのはイエス、お残りになるのもイエスである。あなたの内に、私の内に、私たち一人ひとりの内に留まってくださるのである。

 主は私たちを贖いの協力者にしようとお望みである。

 だから、私たちにこの素晴らしい事実を理解させるため、福音史家に働きかけてたくさんの素晴らしい奇跡を語らせたのである。主はお望みにさえなれば、どこからでもパンを取り出すことがおできになったが、そうなさらず、人間の協力を求められた。一人の子供、少年、わずかのパンと数匹の魚をわざと必要とされた。

 あなたと私を必要となさる御方は、ほかならぬ神である。そうと分かれば、是非とも物借しみしない心で神の恩恵に応えなければならない。

 あなたが使徒たちのようにささやかな手助けをするだけで、主は奇跡を行い、パンを増やし、人々の意志を変え、およそ暗い知性に光を与え、かつて高潔な心など持ったことのない人に特別の恩恵を注いで高潔な人間に変えてくださる。

 あなたが持っているもので主のお手伝いをすれば、これらすべて、そしてそれ以上のことを実現させてくださるのである。

 イエスは死去された。死者となられた。あの聖なる婦人たちは何も期待していなかった。主がひどい扱いを受け、十字架の磔に処されるのを目の当たりにした後だった。あの苦しい受難の荒々しさは脳裏を去らなかった。

 兵士たちが墓の見張りに立っていることは知っていた。墓には完全に封がなされていることも承知していた。非常に大きな石だったので、誰が入口の石を取り除いてくれるだろうかと思案していた。それにもかかわらず、婦人たちは主のお伴(とも)をするため墓を目指す。

ご覧。大小数々の困難はすぐに目につく。しかし愛があれば、障害を前にしてもたじろぐことなく、確たる決意で大胆に勇敢に立ち向かうことができるのだ。この婦人たちの気力、勇気、大胆さを見ていると、我ながら恥ずかしいと白状せざるを得ないのではないだろうか。

 母マリアは、あなたをイエスの愛へと導いてくださるだろう。そこであなたは〈喜びと平和〉に満たされるだろう。ただし、信じ、愛し、苦しむため、常に〈導かれて〉歩みを進めなければならない。一人で歩むなら、倒れて泥にまみれるからである。

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