再び戦いを

「あなたがたが眠りから覚めるべき時」という聖パウロの勧めに従いなさい。今は働く時だと彼は言っているのだ。内で働いて魂の建物を築き上げ、外側では、あなたの今いるところで、神の国建設のために働くのである。

 痛悔の念をもつあなたは言った。「なんと惨めな私だろう。かくも愚かで、あまりにも多くの情欲を引きずり歩いているので、神に近づくため何もしなかったようにさえ思える。もう一度始めよう。再出発だ。主よ、私はいつまで経っても始めの方にいます。とは言え、毎日、全力をあげて前進します」と。

 主がその努力を祝福してくださるよう、祈ろう。

「神父様、私はたくさんの違いや失敗を犯しました」と、あなたは私に言った。

 そこで私は答えた。「分かっている。しかし、同じくそれをご存じでそれを考慮なさる主なる神は、たった一つのことをあなたに要求しておられる。すなわち、あなたが謙遜にそれを認め、行いを改めるため、また神に日々もっとよく仕えるため、いっそう深い内的生活と絶え間ない祈り、信仰心、それに仕事を聖化するのに必要な手段を使って戦うことである」。

 ロバが備えている徳を身につけて欲しい。また、それらを備えたいと望んで欲しい。ロバは謙遜でよく働き、辛抱強く、一徹で忠実、しっかり歩みを続け、しかも強い。さらに、良い主人を得ると感謝を忘れず、よく従う。

 ロバの特徴について考え続けなさい。ロバが役に立とうとすれば、自分を導く主人の意志にすべてを委ねなければならない。独りでなら馬鹿なことしかできないだろう。ひっくり返ったり、小屋に駆け込んだり、鳴いたりする以外に何もできないだろう。

 あなたも主に申し上げなさい。「イエスよ、『私はみ前でロバのようなものです』。あなたのロバにしてくださいました。私を見捨てないでください。『私はいつもあなたと共にいます』。恩恵で私をしっかり繋いでおいてください。『あなたがわたしの右の手を取ってくださる』。端綱を引いて、『あなたの御計らいに従ってわたしを導』かれる。主よ、私がみ旨を果たせますように。こうして、私は代々に至るまであなたをお愛しいたします。そしてあなたは、『後には栄光のうちにわたしを取られるで』しょう」。

 取るに足りない犠牲なのに、あなたには英雄的な行為と思える。時としてイエスは、あなたの〈変わったところ〉やつまらないところを利用して犠牲を捧げさせ、あなたが必要に迫られてしたことを徳に変えてくださるのである。

 私のイエスよ、あなたの愛にお応えしたいのですが、私は弱い人間です。

 あなたの恩恵を得ることができれば、お応えすることができるでしょう。

 わざと何度も繰り返すが、霊的生活とは、絶えず始めること、繰り返しやり直すことである。やり直すって? そうだ。痛悔する度に ― 実は、毎日、幾度となく痛悔すべきなのだが ― その度にあなたはやり直したことになる。痛悔するごとに、再び神を愛し始めるからである。

 神に仕える私たちが、今実行していることで満足するわけにはいかない。芸術家が自分の手で生みだした絵画や彫刻に満足しないのと同じである。皆が、素晴らしい出来栄えだと言うが、当人は考えている。「違う、こうじゃない。もっと上を狙っていたのだ」。私たちもこういう反応をしなければならない。

 そればかりか、主は多くのことをお恵みになるから、もっと十分に応えよと要求する権利を持っておられる。私たちは神の歩みに合わせて歩みを進めなければならないのである。

 あなたには信仰も愛も不足している。そうでなければ、すぐに、そしてもっと頻繁にイエスのもとへ行き、あれやこれやお願いするはずである。

 ぐずぐずしないで直ぐにイエスに懇願しなさい。主を道端で疲れを知らず呼び続けたあの盲人にお応えになったように、「何をして欲しいのか」と応えるイエスの声を聞くことだろう。

 あの私たちの友が書いていた。「私の大きな罪の数々を赦してくださるよう、繰り返し主にお願いしました。お愛ししております、申し上げて十字架像に接吻し、ここ数日の間にお示しになった御父の摂理の数々に感謝しました。後で気づいたのですが、〈主の業は完璧〉であると昔のように言っている自分を見て驚きました。それと同時に、一片の疑いも持たずに、これこそ罪人ではあるが主を愛する人間に対する神のお答えであると、完全に確信できたのです。神にすべてを期待しています。主は賛美されますように」。

 私は急いで返事をしておいた、「主は常に優しい父親として接してくださる。そして絶えずご自分の愛のしるしをお恵みになる。すべてを神に希望し、そして戦いを続けなさい」。

 イエスよ、哀れな私の過去の振る舞いにもかかわらず、あなたが何もかもすべてをなさいました。もっとしっかりお応えしていたなら、どれほど多くのことをやり遂げてくださったことでしょう」。

 それが分かったあなたは、惜しみない努力を絶えず続けることだろう。

 悲しみと愛をもって泣き、心の痛みを感じなさい。主・キリストとその幸いな御母とは、当然あなたが今までとは異なる態度で接すべき御方であるから。

 時にやる気がなくなり、口先だけになったとしても、信仰と希望と愛の行為(信徳唱、望徳唱、愛徳唱)を繰り返しなさい。眠ってはいけない。眠り込むと、上手くいっていることの中に悪いことが入り込んで、あなたを引きずって行くからである。

 次のような祈りをしなさい。私が何か役に立つことをすべきなら、イエスよ、あなたが代わりにしてくださらなければなりません。み旨が実現しますように。たとえ、今の状態がいつまでも続き、愚かな私が倒れては起き上がらせていただくのがみ旨であったとしても、やはり私はみ旨を愛します。

私の神よ、私を打ち叩いてでも聖人にしてください。み旨の邪魔はしたくありません。応じたいのです。惜しみなく応えたいのです。しかし、私は本当にそう望んでいるのでしょうか。

 愛しきっていない自分を見てあなたは大変心配している。あなたはすべてが不愉快だ。そこで、敵は全力をあげてあなたの機嫌の悪さが目立つよう頑張っている。

 あなたが大変恥ずかしい思いをしているのは理解できる。だからこそ、直ちに効果的に反応しなければならないのだ。

「一人の聖人を堪(た)え忍ぶには、二人の聖人が必要である」。こう考えざるを得ないような聖性は本物ではない。そんなのは、良く見積もっても、聖人の戯画に過ぎない。

 悪魔はあなたを神から離そうと試みる。万一あなたが悪魔に支配されると、正直で誠実な人たちがあなたから〈離れて〉しまう。人々は悪魔たちの仲間や悪魔憑きから〈離れる〉ものなのだ。

 主とお話しするとき、また口先だけのおしゃべりしかしていないと思えるときには、いっそう徹底して献身し、もっと決然としてキリスト教的完全性(完徳)の道を歩めるよう、言い換えればもっとあなたを燃え上がらせてくださるようお願いしなさい。

 〈常に神を意識しつつ〉、すなわち、いつどのような状態にあっても、常にキリスト者としての生活を営むという固い決意を新たにしなさい。

 恩恵の邪魔をしてはならない。パン種の働きをしようと思えば、聖人になり、主とひとつになるために戦わなければならないと確信しなさい。

 誠実な心で、ゆっくり〈今、始める〉と言いなさい。

 残念なことに、あなたに何ら変化なく、主の右手の効果も見られないとしても、がっかりしてはならない。その低迷状態から叫ぶことができるのだ。「私のイエスよ、お助けください。私はみ旨を、あなたの愛すべきみ旨を果たしたいのです」と。

 あなたが〈彼らのこと〉を気遣わなければならないということについて、異存はない。しかし、第一に自分自身、あなた自身の内的生活を気遣わなくてはならない。そうでないと、彼らの役に立てないからである。

 聖霊がお勧めになるその犠牲のなんと辛いことか。ゆっくりと十字架像を眺めなさい。そうすれば、その償いを愛せるようになるだろう。

 自らを十字架に掛けること。この望みが新たな光となって、あの人の知性と心、唇に幾度となく上(のぼ)ってきた。

 自らを十字架に掛けるって、なんと辛いことだろう。彼はそう独り言を言った。〈自らに逆らう〉、つまり自己を否定するのが自分の道であることを知った上の言葉だった。だから彼は「主よ、お助けください」と願っていたのである。

 イエスが死去されたカルワリオに身を置き、私たちの自罪(個人的な罪)を思うと、当然のこと心の痛みを感じ、二度と神に背くまいという以前にもまして強くて堅い決意を固めるはずである。

 石や木を彫るのと同じく、毎日少しずつ、こぼこやざらざらを削っていかなければならない。各自の生活に付きまとう欠点を、償いの精神と小さな犠牲で取り除いていくのである。そしてその犠牲には二種類ある。一つは、一日小さな花を摘み取るように積極的に探す犠牲。もう一つは外からやってくるもので、なかなか受け入れ難い受身的な犠牲。あなたがすべてを実行した後でなら、イエスが不足分を補ってくださる。

 すべてにおいて、惜しみなく喜んで応えれば、言葉に表せないくらい素晴らしい十字架像になれるのだ。

 両腕を広げた主は、絶えざる愛の施しをあなたに懇願しておられる。

 あなたのために死去されたイエスに近づきなさい。ゴルゴタの丘の頂上にくっきり浮かび上がる十字架に近寄りなさい。

ただし、誠実な心と、キリスト者として成熟したことのしるしである内的潜心をもって、そうしなければならない。ご受難という神的・人間的な出来事があなたの魂に染(し)み透(とお)るためである。

 イエス・キリストが聖なるご受難のときに持たれたのと同じ気持ちで、犠牲を受け入れなければならない。

 犠牲こそ、すべての使徒職を一つひとつ完全に果たすために欠かすことのできない前提である。

 償いの精神とは、何にもまして、行い、放棄、犠牲、奉仕など、日々道を歩みつつ見つけるたくさんの小さなことを活用することである。それらを愛や痛悔や犠牲の行為に変えて、一日の終わりに小さな花束を作る。神に捧げる素晴らしい花束を作るのである。

最高の犠牲の精神とは、やる気があろうがなかろうが、始めた仕事を最後まで堅忍してやり遂げることである。

 あなたの犠牲の計画は、霊的指導者に検討してもらいなさい。加減してもらうためである。

 加減するとは、必ずしも減らすことではなく、必要とあれば増やすことである。いずれにしろ指導者の勧めを受け入れなさい。

 聖アウグスティヌスの言葉を借りると、悪い情念は服を掴んで下の方へ引っ張っている、と言って良いだろう。しかし同時に、心の中には立派で高貴な数々の清い望みがあるのも確かである。戦っているわけだ。

 神の恩恵を得て内的な戦いの手段を講じるなら、すなわち神の現存を求め、犠牲を捧げ、(怖がらないで)償いを果たすなら、あなたは前進し、平和を得て勝利をものにするだろう。

 心の守り。あの司祭は次のように祈った。「イエスよ、私の哀れな心が閉じられた庭園でありますように。私の哀れな心があなたのお住みになる天国となりますように。守護の天使が私の心を守り、すべての愛情が心の中に入る前に火の剣で清めてくれますように。イエスよ、あなたの十字架の神的な封印で私の哀れな心を封印してください」。

 それぞれが自分の置かれた身分において勇敢に清い生活を送るには、神の深い愛にかけて、「ノー」と言えなければならない。

 聖女と聖人の間には、石灰と石、つまり頑丈な壁がなければならないという、まことに明快な諺(ことわざ)がある。

 絶えず罪の機会を避けて、心と感覚を見張らなければならない。たとえ聖なるものと思えても、情念を避ける必要があるのだ。

 わが神よ、何を見ても魅力に溢れており美しく見えます。しかし、あなたへの愛ゆえに四六時中、目の用心をいたします。

 キリスト者であり、キリスト者であるゆえ神の子であるあなたは、主がお示しになった数々の慈しみに対し、警戒を怠らず愛に溢れてしっかり応じる重大な責任がある。神があなたの心に刻まれた神の愛の持ち味を、何者にも何事にもぼかされないためである。

 間近におられる神、あなたの霊魂の中におられる神とあなたは本当に親しくなった。ところでその親しさがもっと増し、もっと深まるよう努力しているだろうか。つまらない事柄が間に割り込んで来て、親しさを弱めていないだろうか。

 勇敢になりなさい。あなたをこんなに愛してくださる御方を、たとえわずかなりとも悲しませるようなことは、すべて捨てなければならない。

私たちが主に対して忠実であれば、イエス・キリストの一生が、何らかのかたちで私たち一人ひとりのうちに繰り返される。すなわち、内的な面では聖化というかたちに、そして外的な面では振る舞いというかたちに現れるのである。

 主の優しさに感謝しなさい。

 たとえ自分の惨めさばかりが目についても、聖人になりたいという熱烈で大きな望みを頻繁に主に表明することは良いことだと思う。

 惨めなところがたくさんあるからこそ、そうしなさい。

 あなたは自分が神の子であることをはっきり見たのだから、― そんなことはないと思うが ― たとえ二度と見ることができないとしても、忠実な心で、決して後ろを振り返ることなく、常に前進しなければならない。

 決心。普段の生活でも、特別なことのある日にも、予定の時間を忠実に ―言い訳をせず、英雄的な忠実をもって ― 守ること。

「イエスが愛された」若い使徒ヨハネのことを時々考えて、聖なる妬みに駆られたことがあるだろう。

 あなたも、「神のみ旨を愛する人」と呼ばれたら嬉しいのではないだろうか。そうなれるよう、毎日手段を講じなさい。

 確信しなさい。神の子に相応しい振る舞いをしたいと望み、それを行いに表せば、いつまでも続く若さと落ち着き、喜びと平和を得るのだ。

 神の御手に再びあなた自身を委ねるなら、聖霊が、知性に光を、そして意志に力をお与えになるだろう。

 聖ヨハネが福音書で書いている喩えをイエスの口から聞こう。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」。

 あなたの想像力と知性は、喩え全体を把握している。ぶどうの木の幹から離れた枝は役に立たず、実を結ばず、乾いた棒切れとなって人間や動物に踏まれるか、火にくべられる以外に道はない、と分かっている。

 あなたはぶどうの枝なのだから、この喩えの結論をすべて自分に当てはめてみなさい。

今日再び、私は信頼して祈り、お願いした。「主よ、すでに許された過去の惨めさや将来しでかすかも知れない惨めさに、私たちが心を煩わされませんように。あなたの慈しみ深い手に私たち自身を委ねることができますように。見たところ冷たい灰の下で熾(おき)火(び)のように隠れている聖性と使徒職の望みをあなたにお捧げできますように」。

 「主よ、聞き届けてくださると信じております」。あなたも同じことをお願いしなさい。

 あなたの心を開くとき、誠実でありなさい。時に幼稚としか言いようのない態度で、丸薬を金色に塗るようなことをせずに、つまり胡麻化さずに話すのである。

 その後、素直な心で前進するのだ。もっと聖なる人、もっと幸せな人になるだろう。

 神以外に慰めを求めないようにしなさい。あの司祭の書いた言葉を考えてみなさい。「必要がない限り、神以外の友には決して心を打ち明けないようにしよう」。

 聖性とは、霊魂内に住みに来られる聖霊の助けと秘跡を通して与えられる恩恵と、絶え間ない修徳の戦いによって手に入れるものである。

 わが子よ、妄想を抱かないようにしよう。幾度でも繰り返すが、あなたと私は一生を終えるまで常に戦いを続けなければならない。そうして始めて、平和を愛し、人々に平和を与え、永遠の褒美を手に入れることだろう。

 慰め主(聖霊)には、話しかけるだけでなく耳を傾けて聴きなさい。自分が神の子であることの深い意味を発見し、幼子の生活によって、御父に対する子としての愛に満たされたことを、祈りの中で考えなさい。それより前にはマリアを通って、友・兄弟・熱烈に愛する者としてイエスのもと行っていたことを考えてみなさい。

 この勧めを受けてから、これまでは聖霊があなたの心にお住まいになり、聖化してくださることは知っていたが、聖霊の現存という真理を〈理解〉していなかったことに気づいた。真に的確な勧めだった。今は、あなたのうちに居を定められた愛なる御方を感じとることができる。聖霊と付き合い、聖霊の友・信頼のおける親友となり、不用なものを抜き取り、あなたを磨き、燃え上がらせる聖霊の働きを容易にしたいと望んでいる。

 あなたは「どうして良いか分からない」と思っていた。重ねて言う。注意を傾けて聖霊に聴きなさい。きっと望んでいると思うが、あなたが望みさえすれば、聖霊は力をくださるだろう。聖霊がすべてをやり遂げてくださるだろう。

 聖霊に祈りなさい。神なる客人、先生、光、導き手、愛なる御方よ、あなたを歓迎し、その教えを聴き、心を燃え上がらせ、あなたに従い、あなたを愛することができますように。

 神に近づき、神のもと飛んで行くには、祈りと償いという強くてたくましい立派な翼が必要である。

 口祷を唱えるとき惰性に陥らないように、恋する人が初めて話すように愛を込めて、あるいはこれが主にお話しする最後の機会であるかのような気持ちで唱えなさい。

 あなたが聖マリアの子であることを誇りに思っているのなら、自分に問いかけてみなさい。朝から晩まで一日の間に、どれほどの信心を聖母に示しているだろうか?

 毎土曜日と聖母の祝日の前夜、無原罪の御母に償いを捧げるべき理由が少なくても二つある、とあの友人が言っていた。

 第二の理由。日曜日や聖母の祝日は(たいていは村々の祝日になっているが)、人々が祈りに精を出すどころか、見れば分かるように、公の罪や主イエスに対する破廉恥な罪を犯すことに専念しているから。 第一の理由。聖母の良い子になりたいと思っている私たちが、おそらくは悪魔にそそのかされ、主とその御母に捧げられた日々を、十分に心を込めて過ごしていないから。

 残念ながら、これらの理由は今も当てはまるだろう。だから私たちも償いをしなければならないのである。

 キリスト者の祈りはイエスとの愛情のこもった会話であると常に理解してきた。この祈りは、聖櫃から遠い所にいても決して中断すべきではない。私たちの生活全体は、神のために歌う人間の愛の歌で織りなされているからである。しかも、愛せないときなどあり得ない。

 神は人間をこの上なく愛しておいでになるから、聖体祭儀(ミサ)のとき、私たちは時計が止まってしまうほどの応じ方をしなければならないはずである。

 ぶどうの樹の幹に繋がった枝なら、成長して実を結ぶ。あなたと私は何をすべきなのだろうか。私たちの幹であるイエス・キリストにパンと言葉によって繋がっていること。そして一日中、愛情のこもった言葉を捧げるのである。恋人たちはこうするのだから。

 懸命になって主を愛しなさい。心の中で、主を愛すべきだという緊急感を保ち、それを助長しなさい。主を手にする大勢の人々が、主を愛さず、悪しく扱い、疎かにしている今、特に主を愛しなさい。

 ごミサのとき、そして一日中、本当に心を込めて主に接して欲しい。

 祈りはキリスト者が有する最強の武器である。祈りによって、私たちは効果的な働きができるようになる。祈りによって、幸せになる。祈りによって、神の命令を果たすために必要な力をすべて得ることができる。

 そう、あなたの生活全体を祈りにすることができるし、また実際にそうしなければならないのである。

私たち一人ひとりの聖性は、実現できない夢ではなく、具体的、神的、人間的な現実である。それは日々具体化され、絶えず愛の行為となって現れるものである。

人々の間で過ごされたイエスの生涯全体に活気を与えていたのは祈りである。私たちはその祈りの精神から、大小さまざまの行いはすべて、まず祈りに始まり、祈りと共になされ、祈りに繋がっていくべきであるということを学ぶのである。

 主と共に、キリストのご受難を黙想し、体験しなさい。毎日、キリストが鞭で打たれるとき、あなたの背中を向け、茨の冠のときには、あなたの頭を差し出しなさい。

 私の故郷では、〈愛には愛で応えるべきだ〉と言う。

 愛する人はどんな小さなことも見逃さない。私は大勢の人のうちにこの点を見てきた。些細なことも、実は偉大な行いである。つまり愛そのものなのである。

 神を愛さない人たちのことを考え、それを補うつもりで神を愛しなさい。この償いの精神をしっかり身につけなさい。

 万一、内的な戦いが難しくなることがあれば、その時こそ、私たちの愛が本物であることを示すための絶好のチャンスである。

 次のことをはっきり理解させてくださったのはほかならぬ神であった、とあなたは確信している。内的生活で以前に実行していた実に子供っぽい小さな事柄に戻り、心が冷淡であっても愛ゆえに果たす決意をし、(良いことに対する感受性が鈍感になっていても気にせずに)それら些細なことだが英雄的な事柄に何年も何ヵ月も堅忍すべきである。

 心が無味乾燥であっても、自発的に、そして愛を込めて、信心生活に堅忍しなさい。信心の業や仕事をしながら、あと何分、あと何日と数えている自分に気づいても驚く必要はない。怠け者の学生が学期の終わりを夢見て、ぼんやりした喜びを感じたり、十五日間の拘留を科せられた男が拘置所の扉が開かれて元の仕事に戻ることを楽しみにしたりするのと同じである。

 重ねて言う、堅忍しなさい。効果的で現行的な意志をもって、一瞬たりとも怠けずにこれら信心の業を活用するのである。

 イエス・キリストに密着し、喜びに溢れて信仰に生きなさい。真心から、本当に、本気になって、主を愛しなさい。そうすれば、日々ますます愛が深まるわけだから、愛の大冒険の主人公になれるだろう。

 師キリストにゆっくり申し上げなさい。「主よ、あなただけに仕えたいと思っております。とにかく義務を果たし、恋人のような心であなたをお愛ししたいのです。私の傍をお通りになるあなたを感じとることができますように。どうか、私の唯一の支えとなってください」。

 ゆっくり心の底から、こう申し上げなさい。

 あなたには内的生活と教理教育とが必要である。もっと自分に厳しくなりなさい。キリスト者であるあなたは、地の塩・世の光でなければならない。あなたは聖なる恥知らずとなって、模範を示す義務があるのだから。

 キリストの愛を考えれば、一刻の猶予も認められない。主に従うと言って以来、もう一人のキリストである自分を感じ、それが理解できたのだから、あなたの親類縁者や友人、仕事仲間などから離れて生活することはできないのである。塩が自分で味をつけた食物から離れないのと同じである。

 あなたの内的生活と教理的形成には、神の子の持つべき信心とその規準が含まれている。自分の存在と活動によってすべてに味をつけるためである。

 あなたがいつも人々の生活に良い味を与えることのできるよう、主に助けを願いなさい。

私たちキリスト者は、永遠に新しい福音の宝を若々しい精神で集めにやって来た。その宝を地球の隅々にまで届けるためである。

 あなたはイエス・キリストに倣い、自らの振る舞いで主を人々に知らせなければならない。キリストが人性をとられたのは、私たち全員を神的な生活に導き入れ、主とひとつになった私たちに、個人的にも社会的にも天の掟を実行させるためであったことを忘れてはならない。

 キリスト者であるあなたは、兄弟である人々の心配事や必要事のどの一つにも背を向けて生きることはできない。

 使徒聖ヨハネは「互いに愛し合いなさい」という新しい掟をどれほど強調して教えたことか。芝居がかったことをするつもりはないが、私は自分の心の叫びに応じ、跪(ひざまず)いてあなたたちに頼みたい。神への愛にかけて互いに愛し合いなさい。互いに助け合い、互いに手を貸し合い、互いに赦し合いなさい。

 そのため、高慢な心を退け、情け深い心を持ち、愛徳を実行し、互いに祈りと誠実な友情で助け合わなければならないのである。

 他人(ひと)の長所と徳を認めることのできる人は良い人間だと言える。

 だから、何らかの点で正してあげる必要のあるときは、愛徳を忘れず、良い機会を探し、相手を辱めることなくそうしなさい。しかも、正してあげたことからあなた自身が学び、その点で自己を改善するつもりでなければならない。

 人と人の区別をせず、限りなく愛徳を愛し、実行しなさい。愛徳こそ、師キリストの弟子の特徴なのだから。

 とは言うものの、愛徳を口実にして信仰を弱めてはならない。そんなことをすれば、愛も徳とは呼べなくなるからである。すなわち、ある人たちが目指しているように愛徳を言い訳にして、信仰を明確にする角(かど)を取り去り、信仰を弱め、果ては神的な強さと力を欠いた訳(わけ)の分からないものにすることは許されないからである。

 あなたは人々と仲よく生活し、人々を理解し、兄弟である人々の本当の兄弟となるべきである。カスティーリャ出身の神秘家の言うように、愛を引き出すには、愛のないところに愛を注がなければならないのである。

 批判する必要のあるときは、一緒に努力するつもりになって、前向きで建設的な批判をしなければならない。決して当事者の背後で批判してはならない。

 そうしないと、批判は裏切りや陰口、中傷となり、時には讒言(ざんげん)とさえなる。いずれにせよ、常に高貴さに欠ける行為であることにかわりはない。

 神の栄光と教会の善のために話す必要のあるときは、決して沈黙してはならない。

 よく考えなさい。永遠を直視すれば、神の前で勇気の出ない人はいないだろう。失うものは何もないのに対して、得るものは無数にあるからである。それなら、なぜ思い切らないのか。

 兄弟である人々の良い兄弟になりたければ、たとえ周囲の人たちが私たちの行いを悪く解釈し、嫌な反応をしても、正しい振る舞いを守らなければならない。

私たちはすべての人が完全にキリスト教的になってほしいと熱烈に望んでいる。とは言え、聖なる教会に対するあなたの愛と奉仕が、教会を構成する人々の聖性の程度に左右されてはならない。

 今、そして常に、キリストの花嫁であり、あなたの母である清く汚れのない教会を、愛さなければならないのである。

私たち一人ひとりが聖性に達するために努力するか否か、これが大勢の人々の聖性と神の教会の聖性に影響を与える。

 確信しなさい。神はあなたの言うことに耳を傾け、あなたを愛し、あなたに栄光を約束しておいでになる。だから、天の御父の全能の手に守られているあなたが望みさえすれば、主の愛すべき真の教えを世界中で身をもって示す覚悟のある剛毅の人になることができるのである。

 主の畑は肥沃で、その種は良質の種である。したがって、私たちのこの世界に毒麦が姿を現したとすれば、疑いなく次のことが言える。そうなったのは人間が、特にキリスト者が〈神の恩恵に〉応じないで眠り込み、畑を敵に明け渡したからである、と。

 嘆き悲しんでも役に立たない。そんなことより、あなたの行いを糾明しなさい。

私の深い悲しみのもとになった次の言葉を聞けば、あなたも考え込むことだろう。「非道な法に対する抵抗力がないこと、また、あっても非力であることの理由は明らかである。上にも下にも真ん中にも、大勢の、というより大変な数の烏合の衆がいるのだから」。

 神と教会の敵は、悪魔の尽きることのない憎悪に踊らされて休みなく活動し、組織作りに精を出す。

 〈模範的な〉着実さでもって中核グループを形成し、学校を経営し、指導者と煽動者を育てる。また、密(ひそ)やかに、しかし真に効果的に、自分たちの考えを宣伝し、家庭や仕事場から宗教思想を根こそぎにする破壊的な種を撒き散らすのである。

 キリスト者である私たちは、当然のこと、常に真理をもって神に仕えるべきではないのか。

 決定あるいは検討を遅らせることや怠けたり投げ出したりすることが、落ち着きであるかのような思い違いをしてはならない。

 落ち着きは、常に懸案事項を遅滞なく検討し、解決するために必要な勤勉の徳によって補われ、完成される。

 子よ、人々があなたの中に探し求めているキリストはどこにおいでになるのか? あなたの高慢の中だろうか? 他人を威圧したいという望みの中だろうか? 自分で克服しようとしないあなたの性格の欠点の中なのだろうか? あなたの頑固さの中なのだろうか? そんなところにキリストがおいでになるだろうか? 絶対にあり得ないことだ。

 個性を持たなければならない。それは賛成だ。しかし、あなたの個性がキリストの個性と同じになるよう努力しなければならない。

 兄弟愛や奉仕の精神を実行するのに大いに役立つ行動の指針を提案したい。自分の経験を寛大に伝えることによって自分が不可欠な存在になることを避け、あなたが居なくても、今あなたがしている仕事を誰かがちゃんと進めることのできるようにしておくことである。

人々の聖性やキリスト教的生活について、あるいは効果的な働きができるかどうかについては、情念を引きずっているあなたにも責任がある。

 あなたは孤立した存在ではない。万一あなたが立ち止まれば、なんと大勢の人々の歩みを止め、害を与えることだろう。

 母なる教会を思いやりなさい。そしてその肢体の一つが弱くなれば、体全体にどのような影響を及ぼすかをよく考えなさい。

 体は肢体の一つひとつを必要とするが、各々の肢体も体全体を必要としている。私の手が手の役目を果たさなかったり、心臓が鼓動を止めたりすれば、一体どうなることか。

 大勢の人々が神を知らないでいるのに、神はあなたに目を留めてくださったことが、明らかに理解できた。神は、あなたが教会の生命を支える基礎・土台石になるようお望みなのである。

 この点について黙想しなさい。そうすれば、あなたの日常の振る舞いに役立つたくさんの具体的な結論を引き出すことができるだろう。基礎や土台は、輝くことも表に現れることもないが、脆(もろ)さのない堅固なものでなければならない。建物を支える土台としての役目を果たさなければならないのである。それができなければ、役に立たなくなる。

 あなたは償いの協力者になるため神に選ばれたと自覚しているのだから ― 自分が惨めさそのものであることを忘れず、すべての人の足の下に居る、つまり、すべての人に仕えるほどに謙遜でなければならない。建物の土台とはこういうものだ。

 ところで、土台は強くなければならない。強さ、つまり剛毅は、人々を支え、人々の後押しをするためにどうしても必要な徳である。

 力を込めて申し上げなさい。イエスよ、私が偽(にせ)の謙遜に負けることなく、枢要徳である剛毅の徳を常に実行できますように。神よ、屑(くず)と金とを見分けることができますように。

私たちの母、私たちの希望よ、あなたから離れない限り、たとえすべてが揺らいでも、心の底から安心していることができます。

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