豊饒

 忠実、それもすこぶる忠実な心で、神の愛に応えなさい。それから、忠実の報いとして受けた愛を他の人たちにもたらしなさい。彼らも神との出会いを楽しむことができるためである。

 わたしの主イエスよ、あなたの恩恵を感じとって協力し、心が空(から)になりますように。私の友・私の兄弟・私の王・私の神・私の愛であるあなたが心を満たしてくださるためです。

 使徒職への気遣(きづか)いを、祈りと犠牲によって絶えず示さないとすれば、それすなわち、あなたが幸せでないことを、またあなたが忠実の度合をもっと高めるべきことを示すしるしである。

 幸せを、すなわち善いものを持っている人なら、人々にもそれを与えるよう努力するべきである。

 本当にエゴ(我(が))を踏みつけて人々のために生きるなら、そのときこそ、あなたは神の手中にあって役に立つ道具となる。

 主は弟子たちをお呼びになり ― 今も呼んでおられるのだが ―、「出かけて行」きなさい、すべての人々を探しに行きなさい、と命じておられる。

 あなたにできることだから、世界を清い愛で燃え上がらせる決意を固めなさい。世界全体を本当に神に近づけて幸せにするためである。

「小さな事に忠実だった」。わが子よ、あなたの仕事は、人々を救うだけでなく、一見ありふれた一瞬一瞬に、日々永遠の響きを与えて人々を聖化することである。

 教理の種を信心の種から切り離すことはできない。

 教理の種蒔き人としての仕事は、あなたが信心深いときのみ、効果をなくす細菌を除去することができる。

 停電になると、たくさんの工場の大きな機械類が止まってしまうのと同じように、祈りと犠牲がないと、使徒職は実を結ばなくなってしまう。キリストのいとも聖なる御心を動かすことができないからである。

 あなたが恩恵の働きかけに忠実であれば、良い実を結ぶだろう。神の栄光をいつまでも歌い続ける永遠の実を結ぶのである。

 聖人になれば当然のこと、効果的な働きができる。たとえ実りを自分の手で触れたり目にしたりすることができなくても。

 正しい意向とは、〈すべてにおいて、ただただ〉神の栄光〈のみ〉を求めることである。

 霊的生活の確かな現れである使徒職とは、何をするにも神への愛を込め、日々の大小さまざまな事柄一つひとつを超自然化するよう、絶えず羽ばたいていることである。

その人は読書中の本に栞として一片の紙を挾んでいたが、それには〈聖霊の火で燃え上がらせてください〉と、大きな力強い字で書いてあった。言うより、〈聖霊の火で燃え上がらせてください〉と彫り付けてあった、と言うほうが正しいだろう。

 キリスト信者よ、その神的な火をあなたの霊魂に刻みつけ、口に燃え上がらせ、あなたの行いに移すことが私にできればよいのだが…。

 聖なるずうずうしさをもった子供になるよう努力しなさい。そのような子なら、父なる神は常に最上のものをお送りになることを〈知っている〉。

 だから、どうしても必要と思えるものが不足しても、慌てずに落ち着いて、「少なくとも私には聖霊がついていてくださる」と言えるのである。

 すべてのカトリック信者が忠実を保ち、聖人になるため戦う決意をしますように。この意向のため、忘れずに毎日祈ってほしい。

 当然だろう。信仰の強い絆で私たちと結ばれた人々のため、愛する人たちのために、これ以外に何を望めようか。

 すべてを神に捧げておきながら、聖性を目指して熱心に戦わない人がいると言うが、万一そのようなことが本当だとすれば、そういう人たちは生涯で最大の失敗をしたことになる。

「雲のように飛び、巣に戻る鳩のように飛ぶのはだれか」と、預言者は問いかけている。そして、ある著者は次のように説明している。「雲は海と川に源をもち、ある期間を経たのち再びもとの源に戻ってくる」。

 私は次のことを加えよう。あなたも世界中を豊かに潤し、世界中がキリストの生命を生きるようにする雲のようでなければならない。この神的な水は地球の中に浸みとおり、そして潤す。水そのものは汚れず、多くの不純物の間に浸透して清水を湧き上がらせ、やがて人類の渇きを潤すせせらぎとなり大河となる。あなたは、その後で、拠り所であり広大な海である神のもとへと退きなさい。知っての通り、あなたの使徒職という超自然の用水と、世の終わりまで絶える事のない豊かな神の水で、さらに多くの実が熟し続けるだろう。

 幼子よ、人々の悲しみと苦しみをも主に捧げなさい。

 苦痛? あれやこれやの困難? 父なる神がそれをお望みであることが分からないのか。神は良い御方であり、あなたを愛しておられる。世界中のすべての母親が一緒になって子供を愛することができる以上の愛をもって、あなたを、そう、あなた一人を愛しておられるのだ。

 あなたはどういうふうに師キリストに従っているのだろうか。誠実率直に糾明しなさい。心を込めず機械的で、信仰も周囲を動かす力もない献身の仕方になっていないだろうか。謙遜も犠牲も日々の働きもないのではないだろうか。あるのは上辺だけで、各瞬間の小さな事柄に身を入れていないのではないだろうか。一言でいえば、神への愛が不足しているのではないのだろうか。

 万一そうだとすれば、効果が上がらないのを知って驚く方がおかしい。聖母マリアに手を引いていただいて直ぐに何とかしなさい。

 何か必要なものが足りなかったり、大小は別にして困難が襲ってきたりしたときは、守護の天使の助けを求めなさい。イエスと共にそれを解決してもらうか、必要に応じて手助けをしてもらうためである。

 あなたの、私の、そして恩恵の状態にいるすべての人々の霊魂の中心に、神はこもっておいでになる。そして、そこにおいでになるのには目的がある。すなわち、私たちが塩となり、光を獲得し、その神の賜物をそれぞれの居る所で人々に分配するためである。

 どのようにすれば、その神の賜物を分配できるのだろうか。謙遜と信仰心をもって、また母なる教会にしっかり一致することによってである。

 ぶどうの樹と枝のことを覚えているだろうか。樹に結ばれた枝はなんと多くの実を結ぶことか。なんとたわわな房になることか。しかし、樹から離れた枝の無惨なこと、枯れて命を失ってしまう。

 イエスよ、あなたの大海のような愛で私の哀れな心を満たし、私を清め、すべての惨めさを追い出してください。純粋で燃え上がるような聖心の愛を、私の心に注いでください。あなたをお愛ししたいという強い望みが満たされ、神の愛に燃える火を消すことができず〈愛に焦(こ)がれて〉燃え上がり、あなたの愛が抵抗を許さない、豊富な生命を与える滝となって人々の心に降りかかり、それに触れた心が信仰と愛をもって周囲を揺り動かすことができますように。

 聖なるミサを〈生きなさい〉。

 神に心を奪われていたあの司祭の考えが役に立つだろう。「私の神よ、聖なるミサに与りながら、聖人にならないなんてことがあり得るでしょうか」。

 彼はさらに続けて言った。「以前の決心を果たすため、日々わが主の御脇の傷の中に入り込み、そこに留まろう」。

 あなたも元気を出してやってみなさい。

 あなたは大変良いことも大変悪いこともできる。謙遜になって喜びと犠牲の精神で自らを捧げるなら、良いことができる。あなたにとっても、兄弟である人々にとっても、教会つまりこの優しい母なる教会にとっても、役に立つ立派なことができるのだ。

 他方、自分の高慢心の赴くままに行動したとき、なんと大きな悪をなすことか。

 ブルジョアのようにならないように。万一、ブルジョア化するようなことになれば、あなたは邪魔をすることになる。使徒職にとって、とりわけキリストの聖心にとって、苦しみの動機となるからである。

 使徒職を止(や)めてはならない。できるだけ良い働きをするよう努力しなさい。あなたの信仰(信心)生活を疎(おろそ)かにしないように。

 残りは神が引き受けてくださる。

人々に対しては、時には暖炉の火のような扱いをしなければならない。すなわち、鉄火箸を突っ込んで掻きまぜ、燃え滓(かす)を取り出す。燃え滓というのはよく光るが、それはまた神の愛という火を消す原因となるからである。

 聖櫃のイエスに近づいて主を〈よく〉知り、主の教えを咀嚼(そしゃく)しよう。その食物を人々に与えるためである。

 主を拝領して甘美な愛を味わうとき、「必要なら、あらゆる面で生き方を変える努力をいたします」と約束しなさい。主を知らず理想も持たず、不幸にも動物のような歩みを続ける大勢の人々に主をもたらすためである。

「愛と慈しみのあるところ、そこに神がおられる」と典礼は歌う。そこで、あの人は次のようにメモをしたのだった。「この兄弟愛は素晴らしく偉大な宝である。それは、多くの場合に必要であるとは言え、慰めになるだけでなく神の近くにいるという確かさを人々に伝え、周囲にいる人たちの愛徳、そして周囲にいる人たちに対する私たちの愛徳となって現れる」。

人々の注目の的になるのを避けなさい。あなたの生き方は、神に見ていただくためである。聖性とは、効果は抜群だが、隠れているものなのだ。

 誰にも気づかれず、称賛を受けず、見られずに、助けの手を差し伸べなさい。塩のように隠れたままで、あなたが生活を営んでいる環境に味をつけ、キリスト教的な感覚によってすべてが自然で優しく快適になるよう貢献するためである。

 この私たちの世界が、唯一、歩み甲斐のある道、つまりキリスト教的な道を歩むには、神との忠実な友情を前提とし、基礎として、人々との忠実な友情に〈生き〉なければならない。

私が〈人々を信仰へと導く〉使徒職について話すのを、幾度も耳にしたことがあるだろう。私の意見は変わっていない。本当の信仰は知らないけれども高貴で寛大で朗らかな人々との使徒職が、世界中で私たちを待っている。なんと素晴らしいことだろう。

 大勢の人々の耳元で叫んでやりたくなることがよくある。事務所や商店、新聞や教壇、学校や仕事場、鉱山や畑で、内的生活と聖徒の交わりに守られ、使徒聖パウロの「自分の体で神の栄光を現しなさい」、あなたの生き方で神に栄光を帰し、いつも人々のもとに神をお連れしなさい、という教えに則して、あらゆるところで神の運び手となるべきだ、と。

 心にキリストの真理を持つ私たちは、この真理を人々の心と頭と生活に注ぎ込まなければならない。そうしないのは、安楽であり、偽(いつわ)りの戦略である。

 もう一度考えてみなさい。キリストはあなたの霊魂に入り込む前に許可を求められただろうか。主に従うか否かは、あなたの自由に任せられた。あなたを探されたのはキリストである。ご自分がそう望まれたからである。

 奉仕のわざで実際に人々に役立つことによって、エルサレム入城よりも大きな勝利を主のために用意することができる。ユダの登場やオリーブの園、あるいはあの闇夜の場面は二度と繰り返されることがないだろう。主が地上に持って来られた火で世界を燃え上がらせよう。すると、真理の光 ― 私たちのキリスト ― は、いつまでも人々の知性を照らし続けてくださるだろう。

 びっくりしないでほしい。あなたはキリスト者なのだから、人々が神と向き合って生きるよう、健全な危機感を人々の心の中に引き起こす権利と義務があるのだ。

 世界中のため、すべての民族とすべての言語、すべての信条(宗教)の人々のために祈りなさい。宗教についてぼんやりした考えしか持たない人と信仰を知らない人のために祈るのである。

 すると、人々の救いを望む私たちの熱意に動かされ、つまり私たちがイエスを愛していることをご覧になって、イエスが来てくださるだろう。

 遠い国々での霊魂に関わる仕事について話を聞いたとき、人々の目はなんと輝いていたことか。大海原をひと飛びで越える覚悟があるように思えた。神への愛が大きければ、世界と言っても小さなものだ。

 たった一人の人にも、つまり誰に対しても、無関心になってはならない。

 キリストの弟子なら、次のように考えることはあり得ないだろう。私は努めて良い人間になろうとしている。しかし他人は、そう望むと言うのなら、勝手に地獄に行けばよい。

 こんな態度は非人間的であり、神への愛にも、隣人に対して持つべき愛徳にも反する。

 キリスト者がカトリック(普遍性)とは何かを理解し、それを実行に移すなら、また救いの福音をすべての人々に大急ぎで告げるべきことに気づいているなら、聖パウロが教えるように、「すべての人に対してすべてのもの」になるべきことが分かるだろう。

 神を侮辱することにならない限り、欠点が欠点と思えなくなるまであなたの兄弟である人々を愛さなければならない。人々の良いところしか愛さないとすれば、すなわち、理解せず、弁解してあげず、赦さないとすれば、あなたは利己主義者である。

 怠慢や悪い模範であなたの兄弟である人々の霊魂を破滅させることは許されない。

 隣人のキリスト教的生活とすべての人の霊的な効果、つまり人々の聖性については、(あなたにも情念があるとは言え)、やはりあなたの責任である。

 実際には遠くにいても、すべての人のすぐ近くにいる、「すべての人のすぐ傍(そば)にいる」と、あなたは嬉しそうに繰り返していた。

 私が話した愛の交わりのおかげで、あなたは満足していたのだ。あなたは飽くことなく常に、その交わりをより生き生きとさせなければならない。

 あの友人を独りぼっちにしないようにするには何をすべきか、とあなたは尋ねた。

 いつも言っていることだが、こう答えよう。私たちは手元に何でも解決できる素晴らしい武器を持っている。つまり祈りである。まず祈ること。その後で、あなたが同じような状況に置かれたら望むだろうことを、友のためにしてあげなさい。

 辱めないよう注意しつつ、難しいことも容易になるよう手を貸してあげるのである。

 常に隣人の立場に立って物事を考えなさい。そうすれば、種々の問題を落ち着いて見つめ、不愉快にならずに理解し、弁解し、必要なときには適切な方法で正すことができる。こうして、世界を愛徳で満たすのである。

 信仰に関することにおいては譲歩できない。しかし、真理を述べるためとは言え、人を悪しく扱う必要のないことも忘れないでほしい。

 隣人のためになることなら、沈黙してはならない。ただし怒ったり不機嫌になったりせずに、優しく言ってあげなさい。

 出来事や人の意見について話せば、必ず人々の名前が出る。もちろん、他人を裁くためではない。「裁くのは主」である。

 そういうとき、心の歪んだ人が、悪意からか分別がないからか、あなたの言葉を中傷だと決めつけても心配するには及ばない。

 あなたが良いことをするのを見て不愉快に思う哀れな人がいる。自分たちでやり遂げるか管理するかしないと、良いことでなくなるとでも思っているらしい。

 こういう無理解を口実にして仕事の手を緩めてはならない。今こそ、よりいっそうの努力を傾けるときである。この世で称賛を得ることが少なければ少ないほど、それだけあなたの仕事は天において喜ばしい行いとなるのだから。

 時として活動の半分は、愛徳の不足と兄弟間の陰口や噂話が原因となった内輪の戦いで失われ、仕事の四分の一は使徒職に必要のない建設事業で失われる。決して陰口に同意してはならず、多くの建物を建てることに時間を浪費してはならない。この原則を守れば、人は百パーセントの使徒となるだろう。

今いる司祭と将来現れるはずの司祭が、心から、人の区別をせず、日増しに兄弟である人々を愛するよう、また司祭たちが人々に愛されるような生き方ができるよう、祈りなさい。

 世界中の司祭のことを考え、彼らに実り豊かな使徒職ができるよう祈る私を助けて欲しい。

 司祭職における私の兄弟にお願いしたい。常に神について話してほしい。あなたが主のものなら、主との会話が単調になることはないだろう。

 説教、それも〈十字架に掛けられた〉キリストの説教なら、それは神の言葉である。

 司祭は聖務を果たす前に、人々の救いを目指して、できるだけ良い準備をしなければならない。

 信徒は特別の敬いをもってそれに耳を傾けなければならない。

 あの司祭が「全霊を込めて、全身で説教している」と噂されているのを聞いて、嬉しく思った。

 使徒たる人よ、次のように祈りなさい。「主よ、私が人々を〈強く促し〉、すべての人を焚火のような愛で燃え上がらせることができますように。焚火のような愛が、私たちの活動の唯一の原動力になりますように」。

 カトリック信者なら、使徒としての生き方をしなければならない。すなわち、神の光と神の塩をもって人生の歩みを続けるのである。恐れることなく自然に生きるのだが、人々を照らし、腐敗と闇を避け、落ち着きの実りとキリストの教えの効果を人々に分け与えられるくらい、深い内的生活と主との一致を保っていなくてはならないのである。

 種蒔く人が種を蒔きに出て、この世のあらゆる道々に一気に種を蒔いた。私たちの仕事は幸いな仕事である。あらゆる状況の時代と場所で神の言葉が根を下ろして、芽を吹き、実を結ぶよう働くことを引き受けたのだから。

「主は必ず良いものをお与えになり、わたしたちの地は実りをもたらします」。そう、この祝福こそすべての実りのもとであり、私たちの世界で神の人・聖人を育てることができるために必要な風土である。

 「主は必ず良いものをお与えになり」、主は祝福を与えられる。しかし、気をつけなさい。続いて主は、私たち ― あなたと私 ― が実を結ぶのを期待していると仰せになる。私たちがすべてを捧げなかったがために結ぶ弱々しく痩せ細った実でなく、祝福で満たしてくださる神のおかげで豊かに結ぶ実を期待しておられるのである。

 あなたは自分の召し出しを、種子を包む袋(蒴果(さくか))のように考えた。成長すると、袋が裂け、種子が散らばり、やがて時が訪れて成長すると、同時にたくさんの根をしっかりと下ろすだろうと考えたのである。

 大勢の人々の中で ― 全員があなたの関心の的であるが ― あなたはパン種となる必要がある。神の恩恵とそれに対するあなたの対応によって、世界のあらゆる所で、質を与え、味を加え、膨らませるイーストとなり、やがてキリストのパンが他の人々を養うことができるように、である。

 中には友人だという連中もいるが、とにかくイエスの敵たちは、人間的な学問の鎧(よろい)をまとい、権力という剣をつかみ、ダビデを軽蔑してあざわらったペリシテ人のようにキリスト者をあざわらう。

 現在も、憎悪、虚偽、権力、世俗主義、無関心主義のゴリアトは地に落ちるだろう。そのとき私たちは、見かけは弱々しい祈りと償いと行いというキリスト教的な精神の武器で、傷つけられた数々の偽りの思想という大怪物から、誤謬の鎧(よろい)をはぎとる。そして兄弟である人々にキリスト教的な生き方と文化、つまり、本物の学問を身につけさせてあげることができるだろう。

 教会に反対する種々の運動は、時には善人と呼ばれる人たちと手を携えて多くの組織が陰謀を企(たくら)み、新聞やビラやポスター、中傷やロコミの宣伝で大衆を煽動(せんどう)する。続いて人々を思いのままに望むところへ、地獄へも連れて行く。人間には霊魂がないかのごとく個性なき大衆にしようというわけだ。かわいそうなことだ。

 ところで、人間には霊魂があるのだから、これら悪の組織の手中から救い出し、彼らを神に仕える人に変えなければならない。

 頻繁に秘跡に与(あずか)る人々のうち、かなりの割合の人が俗悪な出版物に目を通す。

 そのような害毒に満ちた反故(ほご)のような書物を読まないよう、心静かに、また神の愛に溢れて願い、また教えを伝えなければならない。彼らとて恥ずかしいから、自分で買ったにもかかわらず、家族の者が手に入れたかのように言うのである。

 神に関する真理であれば、愛徳と確たる態度で擁護(ようご)しなさい。聖なる恥知らずとなって、誤りを告発しなさい。これらの誤りは、時にはちょっとした悪巧(わるだく)み、時には嫌悪すべき考えや鉄面皮(てつめんぴ)な無知であり、たいていの場合は、神の言葉の豊かさに耐えることのできない人たちの無能さの現れである。

 世間一般が混乱(した)状態にある時、あなたの人々を、と主に叫んでも届いていないかのようであり、耳を貸してくださらないかのようでもある。そればかりか、あなたは自分の使徒職を無駄な働きと考えてしまうことさえある。

 心配するには及ばない。今まで同じ喜び、同じ活力、同じ熱意をもって働き続けなさい。もう一度言わせてもらおう。神のために働くなら、実を結ばない働きは一つとしてないのだ。

 子よ、世界中の海はすべて私たちのものである。そして漁の難しいところこそ、より熱心に漁をすべき海なのだ。

 キリスト者として教えを伝え、申し分ない生活を送り、仕事を立派にやり遂げることによって、親族や友人、同僚、隣人、生徒など、まわりにいる人々に、専門職の遂行と職務に伴う義務履行の模範を示さなければならない。雑な仕事をしてはならないのである。

 あなたはキリストと親しく交わっているのだから、実を結ぶ義務がある。

 仕事において、日常の社会生活・家庭環境において、あなたに近づく人々の飢えを満たすことのできる実を結ばなければならないのである。

 あなたが喜んで寛大に義務を果たすなら、そのおかげで主は他の人々にも豊かな恩恵を注がれるだろう。

 十字架の友となる人をもっと増やすために、世界中にキリストの精神を広げる努力をしなさい。

 主は、たくさんの効果的な恩恵をお与えになっただけでなく、あなたの才能が実を結ぶようにと、頭脳や手や知的能力をくださった。

 専門とする仕事を聖化し、その仕事を神に喜ばれ、人々に役立つ燔祭にするため努力するあなたを使って、死者を蘇らせ、聞こえない人に聴力を、盲人に視力を与え、足の不自由な人を歩けるようにするなど、神は絶えず奇跡をなさろうとお望みである。

人々を神に近づける努力をしなかった日、赤々と燃える熾(おき)火(び)であるべきあなたは、くだらない炭、あるいは一(ひと)吹(ふ)きの風で霧散する一握りの灰と化す。

 火を広めなければならない。火をつけ、燃え上がらせ、神の愛と忠実と使徒職の火になるべきなのだ。

 聖母マリアの御名をお呼びしなさい。〈母であることをお示しください〉。聖母があなたの母であることをいつも示してくださるよう、また御子の恩恵によって知性には良い教えの光を、そして心には愛と清さを得てくださるようお願いするのを止めてはならない。神のもとへ行き、大勢の人々のもとへ神をお連れするためである。

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