精選

 すべてを賭けて〈献身すること〉、本当に気に入った言葉だ。神の子らは神への献身の生活を ― 自由に ― 自らの義務として負う。そして、神が私たちの生活を統治者として完全に支配なさるよう努力するのである。

 〈本物の〉聖性なら、器から溢れ出る。そしてその溢れ出た聖性で、他の人々、他の霊魂を満たす。

 神の子らは、人々を聖化しつつ、自らを聖化するのである。あなたは自分の周囲にキリストの生き方を広めているだろうか。毎日、この点について考えなさい。

 イエス・キリストの王国。これこそ、私たちのものである。だから、子よ、なぜ主があなたを支配なさるのか、数ある理由の一つだけでも知りたいという望みを惜しまず捨てなさい。

 イエスを眺めさえすれば、どれほどあなたを愛しておられるかが分かり、その愛に応えたいと強く望むようになり、「今もお愛ししています」と大声で叫ぶだろう。そしてあなたが主から離れない限り、主はあなたをお見捨てにならないだろう。

 キリストヘと向かう様々な道に人々を近づけるための第一歩は、あなたが喜びに満ちて、幸せそうに着実に神の方へ歩む様子を見せることである。

 カトリック信者なら、どのような環境にいても、誰をも拒(こば)まずにイエス・キリストを真似るべきである。この重要な点を決して忘れてはならない。

 主イエスがお望みだから、すぐ近くをついて行かなければならない。他に道はない。

 これは、一人ひとりの ― あなたの ― 霊魂内での聖霊の働きである。神の邪魔をしないよう、素直になりなさい。

人々を神のもとに導くため、我(われ)を忘れて常に他人(ひと)のことだけを考える。―このような、言わば〈健全な心理的偏見〉を持つことは、あなたが確かに聖性を求めていることの証拠である。

 神はあなたを必要とされない。この点をしっかり心に刻み込んでおきなさい。神の呼びかけ(召し出し)とは、聖心の愛に満ちた慈しみの現れである。

 過ちを犯した人には、愛情 ― キリストの愛徳 - をもって接しなさい。ただし、私たちの聖なる信仰に反する事柄においては妥協しないで。

 神の御母であり私たちの母である甘美な婦人マリアのもとに駆けつけて、すべての人々の霊魂と体の清さを保ってくださるよう願いなさい。

 聖母に申し上げなさい。「御名(みな)をお呼びしたい。(人々も常にそうしてほしい)。そして神の子としての身分に逆らう敵との戦いが上手くいかないときも、上手く、しかも非常に上手くいっているときも、常に打ち勝ちたいのです」。

 神がこの世に来られたのは、〈すべての人が救われるのを望まれた〉から、つまり、全世界の人を贖うためであった。

 大勢の人と肩を並べて仕事に精を出すとき、キリストが関心を持たれない人は一人としていないことを決して忘れてはならない。

「いつも感謝の心を持つようにしています。誰に対しても常にありがとうと言える人間でありたいのです」と、あなたは主にはっきりと申し上げた。

 それなら考えてみなさい。あなたは石でもコルクでもラバでもない。地上で目的を達する被造物ではない。神は、あなたを男性あるいは女性、すなわちご自分の子にしたいと望まれ、「とこしえの愛をもって」愛してくださっているのである。

 感謝の心を持つ人でありたいのか? 主に対してはそうしないのか? あなたの感謝が日々、心からほとばしり出るよう努力しなさい。

 理解することこそ、本物の愛である。本当にこの愛を身につけたなら、誰に対してもわけへだてなく広い心を示すことだろう。そしてあなたを悪しく扱った人に対しても、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」というイエスの勧めを、実行することだろう。

 神のことを知らない人たちに愛情をもって接しなさい。ところで、神のことを知っている人たちに対してもそのようにするべきであることは言うまでもない。これができなければ、最初に言ったことが実行できるはずがない。

 本当に心のすべてを尽くして神を愛するなら、ときに難しくなる隣人愛の実行も、あなたの神への大きな愛の当然の結果として容易になる。そして誰をも敵と思わないだけでなく、人のわけへだてもしなくなるだろう。

人々に神の愛を知ってほしいと切に望むという神的な熱意を感じているだろうか。それなら、日々の生活の中で犠牲を捧げ、祈り、義務を果たし、たくさんの小さな事柄において自分自身に打ち勝ちなさい。

 ゆっくり申し上げなさい。「優しいイエス、私が使徒、それも使徒のなかの使徒となるべきなら、私を非常に謙遜にしてくださらなければなりません」。

「自分自身を知ることができますように。自らを知り、そしてあなたを知ることができますように」。

「これができれば、無に等しい自分の状態を決して忘れないでしょう」。

 〈私たちの主イエス・キリストによって〉。このように、つまりすべてをイエス・キリストにおいて行わなければならない。

 人間的な心を持っているのは良いことだが、(他の人ならしないのに)この人だからという理由で行動するなら、それは良くない。その兄弟のため、その友のために何かをしてあげるにしても、イエス・キリストのためにしなさい。

 すべての大陸と現在と未来のあらゆる時代の教会と人々が、あなたに大きな期待をかけている。しかし、頭と心にしっかり刻みつけて欲しいのだが、聖人にならなければ ― 訂正しよう、聖人になるよう戦わなければ、あなたの行いが実を結ぶことはないだろう。

 恩恵の強い働きや優しい働きかけに任せて、あなた自身の形を整えてもらいなさい。邪魔物ではなく道具になるよう努力しなさい。そして望むなら、あなたは聖母の御助けを受けて、神的な水の流れを変える岩でなく、流れを導く運河となるだろう。

 主よ、わたしを「粘土が陶工の手の中にあるように」忠実で素直な人間にしてください。そうしてくだされば、生きるのは私ではなく、私のうちに生き、そして働くのは、愛であるあなたになるでしょう。

 イエスのおかげで、あなたは接する人すべてに深い愛を抱くだろうが、それがイエスヘの愛を小さくすることにはならないだろう。それどころか、イエスを愛すれば愛するほど、もっと大勢の人をあなたの心に受け入れることができるだろう。

 神に近づけば近づくほど、人間はよりいっそう普遍的になる。宇宙全体をイエスの足元に置くという唯一の大望のもと、心が大きく広がってすべての人と事物を受け入れることができるのである。

 十字架上で死去されたとき、イエスは三十三歳であった。若いからと、若さを口実にすることはできない。

 また、神と一緒であれば永遠の若さを保つとは言え、一日過ぎる毎に若さを失う。

 相互理解と共存を難しくするようなナショナリズム(国家主義)を拒否しなさい。それは、歴史上、多くの時代に最もひどい害を及ぼした。

 それを教会という(神秘体)に持ち込もうという試みは、なおさら有害であるから、断固として拒否しなければならない。教会こそ、イエス・キリストヘの愛において、すべての人とすべてのものの一致が最も光彩を放つべきところだから。

 神の子であるあなたは、周囲の人々を助けるため、今日まで何をしてきたのだろうか。

 そのような消極的な態度や無気力に負けてはならない。神はあなたの模範と言葉、友情と奉仕を使って、人々のもとに行きたいと考えておられるのである。

一つひとつの宝石を扱うのと同じように、犠牲を厭わず献身して、一人ひとりに働きかけなさい。

 実は、宝石を磨く以上の丹精を込めて接しなければならない。比類のない値打ちものを対象にしているからである。霊的に世話をするとは神に仕えるための良い道具を整えることである。一人ひとりの人はキリストの御血すべてを代償として得られたのである。

 洗礼を受けたすべての人がキリストの司祭職に与(あずか)ることを思い出すなら、キリスト者、とりわけ司祭とは、絶えず十字架の上にいる人のことであることが分かる。

 あなたが首尾一貫した態度をとる人なら、光を見た今、(前は)大きな罪人 であったように大きな聖人になりたいと望み、そしてその望みを実現させるために戦うはずである。

 神の聖なるみ旨を果たすために必要なら、権威をもって止(や)めさせるべきことを止めさせるのは、高慢でなく剛毅である。

 時として、人の手を縛って束縛しなければならない。ただし侮辱や無礼を避け、敬いと慎重さをもって、復讐ではなく矯正、罰ではなく薬として、そうすべきである。

 あなたは真剣な顔をして私を見つめていたが、「神の子らがキリストのように振る舞い、キリストのことのみを話すことができるよう、キリストの生活を黙想することによって彼らのうちに主の生活を再現したい」という私の説明を聞いて、やっと理解できたのだった。

 イエスは愛ゆえに、あなたのため、ご聖体のうちに残ってくださった。

 人々が主をどういうふうに受けるか、そしてあなたがどのような受け入れ方をするかを知りつつも、主はお残りになったのである。

 残ってくださったのは、あなたが食し、訪問し、あなたのことをお話しできるため、また聖櫃の傍らでの祈りのうちに、あるいは聖体拝領において主と付き合い、日毎よりいっそう深く主を愛し、他の大勢の人たちに同じ道を歩ませるためである。

 あなたは聖なる貧しさを実行し、自分が使っているものから離脱したいと言う。自分自身に問いかけてみなさい。「私は貧しさと富に関してイエス・キリストと同じ愛と感情を持っているだろうか」と。

 さらに私は勧めた。「子として本当にすべてをお任せして父なる神に憩いを求めるだけでなく、イエスと同じように愛することができるよう、特にこの徳に注目しなさい」。そうすれば、この徳を十字架と見なすことなく、愛の印として受け入れるだろう。

 愛徳の掟を最高に価値あるものと考えず、愛徳の掟には最高の価値がないかのように振る舞うキリスト者が時々いる。弟子たちに囲まれたイエスは、あの最後となった素晴らしい説教の中で、遺言として次のように仰せになった。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい」。

 そしてさらに強調された。「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」。

 是非とも、イエスのように生きる決心をしたいものだ。

 孝愛とは、私たちをしっかり神に結びつけ、また人々のうちにキリストを見ることを可能にするので、主なる神を通して私たちを人々に結びつける絆でもある。孝愛の徳を実行しないと、不一致は避け難く、キリストの精神もすべて水泡に帰す。

 あなたを創造するに当たり、素晴らしくもあり恐ろしくもある能力、つまり知性と意志をお与えになった主に、心の底から感謝しなさい。素晴らしいと言うのは、それらがあなたを神に似たものとするから、また、恐ろしいと言うのは、その能力で創造主に対決する人がいるからである。

 私は、神の子としての感謝を要約して今もいつも私たちの御父に対して、「私は仕えます」と申し上げよう。

 内的生活がなく、形成を受けていないならば、本物の使徒職も、実り多い仕事もできない。 はかない使徒職、ひいては偽りの使徒職しかできないだろう。

 というわけで、神の子らが負っている責任のなんと重いことか。私たちは主とその教えに対する飢えと渇きを感じなければならない。

人々はあの良き友を卑(いや)しめるために、「あなたの霊魂は二流か三流だ」と言った。

 自らが無であることを確信しているその人は、腹を立てずにこう考えた。一人の人間には一つの霊魂しかない。私にも霊魂があるが一つだけだから、それぞれの人にとって自分の霊魂は一流だろう。決して目標を低いところに定めたくないと思っているので、私は〈超一流の〉霊魂を持っていることになる。神の助けを得てそれを清め、磨き、燃え上がらせて、愛する御方に満足していただきたいと思う。

 たとえ惨めさだらけであるとは言え、あなたの場合も〈目標を低いところに定める〉ことはできないことを忘れないように。

 独りぼっちだ、まわりは攻撃的だ、不平を鳴らすあなただが、イエス・キリストのことを考えてみなさい。良き種蒔き人キリストは、麦を手に握るのと同じように、子である私たちの一人ひとりを傷ついた手で握りしめ、御血で浸し、清め、汚れを落とし、酔わせられる。そしてその後で、寛大に一人ひとりを世界中に蒔かれる。袋ごとではなく一粒一粒、蒔かれるのである。

 重ねて言う。子である私たちに〈言葉の賜物〉、すなわち、すべての人に理解してもらうための賜物をお恵みくださるよう主に願いなさい。

 あなたは、私がこの〈言葉の賜物〉を望むわけを福音書の頁から導き出すことができるだろう。福音書には教えを具体化し、霊的な事柄を分かり易く示す喩え話や例がたくさんある。しかもそれらは神の言葉の品位を落とすことも値打ちを下げることもない。

 博学かそれほど博学でないかにかかわらず、誰の場合でも、人間的な喩えを使って説明するほうが神の教えについて考え易く、また理解しやすいものなのだ。

 いつもそうだが、主が今のように色々異なるところへ種を蒔き、神的な種蒔きを実現させたいとお望みのとき、その範囲の広がりが質の低下に繋がらないよう望んでおられる。

 この中味の質が落ちないよう貢献することこそ、明らかにあなたの超自然の使命である。

 そう、あなたの言う通りだ。あなたの惨めさのなんと根の深いことか。自分の力だけに頼っていたら、一体どうなっていたことだろう。どこまで落ちてしまっていたことだろう。

 あなたは、「慈しみに満ちた愛なる御方でなければ、私を愛し続けることはできない」と認めた。

 安心しなさい。自分から探し求めるなら、神が愛と慈しみを拒否なさることはない。

 心を尽くして神を愛する人が世界中に大勢いるよう頑張らなければならない。

 数え直してみるときだ。あなたの助けで何人くらいの人がこの愛を見つけたのだろうか。

 神の子がこの世に存在して生活の証(あかし)を示すのは、人々を引き付けるためであって、人々に引きずられるためではない。自分の雰囲気、つまりキリストの雰囲気を広げるためであって、周囲の雰囲気に支配されるためではないのである。

 あなたの義務はこれである。すなわち周囲の人々に近づき、人々の眠りを覚まし、ブルジョア化した利己主義的な生き方しか知らない人々の視野を広げて新しい世界を見せ、聖なる仕方で彼らの生活を複雑にし、自分のことを忘れて世界の人々の諸問題を理解するよう、手助けすること。

 そうしないなら、この〈喜びと平和〉を必要としながらも、おそらくそれを知らないか忘れてしまった人々、つまりあなたの兄弟たちの良き友であるとは言えない。

 他の機会に書いたように、聖なる教会の子なら誰一人として、羊や豚や牛の群れのような個性なき匿名の群衆を前にして、気にも止めずに、のうのうと生活するわけにはいかない。上辺(うわべ)では無関心であっても、いかに多くの人々が高貴な情熱や可能性を内に秘めていることだろう。

 すべての人に仕えなければならない。イエスがなさったように「一人一人に手を置いて」、命を取り戻させ、知性を照らし、意志を強めて、役に立つ人間に変えるのである。

 神が私を捕えに来られるなんて思いもしなかった。もう一度繰り返すが、主は〈私たちの生活を複雑にするために〉許可を求めたりなさらない。勝手に入り込んで来られる。それだけなのだ。

 主よ、あなただけを信頼しております。私があなたへの忠実を保てるようお助けください。忠実にお仕えすることができれば、私の気遣いと気苦労をことごとく御手に委ね、すべてをあなたに希望することができますから。

 神の素晴らしい呼びかけ(召し出し)に対して、心を込めて、頻繁に感謝しなさい。謙遜に裏打ちされた深くて真摯な感謝を表しなさい。

 神の子の一人に数えられるという最高の幸せは、身に余る特権である。

 収穫は多いが働き人は少ない、と嘆く神の御子の常に今日的(こんにちてき)な叫びを聞くと、心の張り裂ける思いがする。

 キリストがそう叫ばれたのは、あなたにも聞かせるためであった。今までどのように応えて来たのだろうか。少なくとも日に一度、その意向のために析っているだろうか。

 主に付き従うには、何も保留せず、きっぱりと大胆に自らを捧げる必要がある。後戻りする可能性がなくなるよう断固として船を焼く、つまり背水の陣を敷くのである。

 イエスが今以上の要求をあなたに突きつけられても、また場合によってはあなたの血縁の者たちの幸せを犠牲として捧げるよう要求されても、驚いてはならない。超自然的に考えれば、主はご自分の栄光のために、あなたの家族を無視する権利を持っておられることを納得しなさい。

 あなたがキリストの使徒になりたいと言うのを聞くと私は嬉しくなる。あなたを堅忍させてくださるよう、主にお願いしよう。ところで次のことを忘れないで欲しい。すなわち、私たちの口や思いや心からは、神に関することや人々の救いへの強い望み、何らかのかたちで神に近づく動機となる事柄、あるいは少なくともあなたを神から離さないことだけが出て来なければならない。

 いつになっても教会には司祭が必要である。聖母マリアを通して三位一体の神に司祭をお送りくださるよう毎日お願いしなさい。

 彼らが喜びに満ち、よく働き、効果を上げるよう、また、しっかり形成を受けて準備し、犠牲者意識を持たずに兄弟たちのため喜んで自らを犠牲にできる司祭になるよう、主に願いなさい。

 神の御母にして人類の母である処女マリアに絶えず助けを願いなさい。聖母は、あなたと接する人々が日常の仕事や専門職の中で、イエス・キリストの証人となる決心をするよう、神の愛を母親特有の優しさで人々にもたらせてくださるだろう。

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