試練

 主よ、感情を使ってあなたに仕えることができますから、それを取り去ってくださいとは申しません。しかし、感情を清めてください。

 神のすべての素晴らしさと私たち人間の弱さを見て、「あなたは私のすべてです。お望みのように私をお使いください」と申し上げなければならない。そうすれば、あなたも私たちも孤独を感じることはないだろう。

 聖性に達するための最高の秘訣は、唯一の模範である優しいイエス・キリストにどんどん似ていくことである。

 祈り始めたのに、何も見えず、心が落ち着かず、熱意も湧いてこない。それが道なのだ。自分のことを考えず、贖い主イエス・キリストのご受難に目を戻しなさい。

あなたは確信しなければならない。最も近しい三人の弟子にオリーブの(ゲッセマニ)で仰せになったように、イエスは私たち一人ひとりにも、「目を覚まして祈っていなさい」と仰せになっているのだ。

 聖なる福音書を開くとき、そこに語られていること、すなわちキリストの言葉と行いは、知るためだけでなく、〈生きる〉ためであることを考えなさい。細かなことを含め、そこに書かれている一つひとつの事柄はすべて、あなたが実生活の個々の状況に具体的に当てはめて実行するために集められたものである。

 カトリック信者は、主のすぐ後ろについて行くよう招かれている。そして聖書の中に、イエスの生涯を見出すだけでなく、あなた自身の生き方を見出さなければならない。

 使徒聖パウロのように、あなたも愛に満ちて尋ねることができるようになるだろう。「主よ、どうしたらよいでしょうか」。すると、あなたは心の中に、神のみ旨を果たせ、という断固とした命令を聞くだろう。

 というわけで、日々福音書を手に取り、それを読み、具体的な指針として実行しなさい。聖人たちは、このようにしたのである。

 心に確かな反応が欲しいとあなたが本当に望むのなら、主の御傷の一つに入り込みなさい、と私は勧める。こうしてあなたは主と親しく付き合い、主に寄り添い、聖心の鼓動を感じることができる。そして主が何を要求なさっても、すべてにおいて主に従うことだろう。

 確かに、祈りはイエスを愛する人たちの〈慰め〉である。

 十字架はキリストの使徒の生活の象徴である。その力と真理は、時として辛く重荷と感じられるとは言え、霊魂と体に喜びを与える。

 愛するがゆえにキリストと共に苦しみたいというあなたの気持ちは分かる。主を鞭で打つ刑吏とキリストとの間に入ってあなたの背中をさらし、茨の冠を受けるためキリストのではなくあなたの頭を差し出し、あなたの手と足を釘づけにしたい。あるいは少なくとも、カルワリオの聖マリアに付き添い、あなたの罪で神を死に至らしめたことを認め、苦しみ、そして愛したい。

 慰め主ともっと頻繁に付き合って光を求めるつもりです、とあなたは言った。

 よろしい。しかし、子よ、聖霊は十字架の実りであることを忘れないように。

 明るく喜ばしい愛は人を幸せにするが、そのような愛は苦しみを通らなければ生まれない。何も放棄しないなら、愛の生まれる余地はないのである。

 キリストは十字架につけられた。それにもかかわらずあなたは、自分の好みや楽しみだけに浸っているのか。言い直そう、自分の好みや楽しみで釘づけにされているのか。

 甘ったれたキリスト者にはなりたくない。第一、そんなことは認められない。この世で苦しみと十字架を避けることはできないのである。

 この世に生きる限り、十字架を覚悟しておかなければならない。十字架を覚悟しない人はキリスト者と呼べない。そしてそんな人も〈自分の十字架〉との出合いを避けることはできないので絶望することだろう。

 十字架が重々しくのしかかってくる今こそ、イエスが問題を解決してくださり、心は平和で満たされる。荷が軽くなるよう、御自らがキレネ人となって担ってくださるのである。

 そこで、信頼を込めて申し上げなさい。主よ、これはなんという十字架でしょうか。十字架のない十字架です。あなたの助けを得てあなたに委託する方法を知った今、私の十字架はすべてこのような十字架になるでしょう。

「主よ、見世物ではなく、苦しみを望みます」というあの友の昔の決心を心の中で再確認しなさい。

 十字架を背負うとは、喜びをもつということである。主よ、それは、あなたを所有することです。

 人間を、そして社会全体をも本当の不幸に陥れるのは、焦慮(しょうりょ)に駆(か)られ利己的に豊かな生活を求めること、すなわち快適や心地よさに反することすべてを避けようとする態度である。

 愛の道は、犠牲と呼ばれる。

 十字架、聖なる十字架は重い。

 一方に、私の罪がある。他方に、私の母なる教会の苦しみという悲しい現実、すなわち、大勢の中途半端な信者の無気力、様々な理由による愛する人たちとの別離、自分や他人の病や苦しみなどがある。

 十字架、聖なる十字架は重い。「神のいと正しく、いと愛すべきみ旨は、万事に越えて行われ、全うされ、賛美され、永遠に称えられますように。アーメン、アーメン」。

 キリストのお通りになる道を通り、諦めるのではなく自発的に十字架に一致し ― 十字架に順応して ―、神のみ旨を愛するなら、十字架を心から望むなら、その時こそ主が十字架を運んでくださる。

 苦しみを、内的・外的な十字架を、物惜しみしない心から出る〈なれかし〉で神のみ旨に一致させなさい。そうすれば、喜びと平安に満たされるだろう。

 本物のキリストの十字架であることを示す確かなしるしを並べてみよう。落ち着きと深い平和、どのような犠牲でも受け入れる愛、イエスの御脇から流れ出る素晴らしい〈効果〉、そして常に明らかな喜び、言い換えれば心から献身する人が、十字架のもと、すなわち主の傍らにいることを知っているから持つことのできる喜び。

 王であるキリストの寵愛を理解し感謝することを忘れてはならない。王はあなたの生涯の間、あなたの肉体と精神を聖十字架の真の印でしっかり封印してくださるからである。

 あの友が書いていた。「よく手にされ、たくさんの接吻を受けたので擦り減ってしまったが、小さなキリストの十字架像を持ち歩いています。それをずっと使っていた祖母が亡くなったとき、父が受け継いだものです」。

 「使い古した安物の十字架なので差し上げるわけにはいきませんが、こうして、これを見るたびに十字架への愛を増してくれることでしょう」。

 ある司祭が苦しいとき次のように祈っていた。「イエスよ、あなたがお望みの十字架をお送りください。今から喜んでそれを受け入れ、私の司祭としての豊かな祝福を与えます」。

大きな打撃、つまり十字架を受けても、慌てる必要はない。それどころか反対に喜んで主に感謝しなさい。

 咋日、死去されたイエスを描いた絵を見ていて心を奪われた。一人の天使が言うにいわれぬ信心深さで主の左手に接吻している。もう一人の天使は主の足元に立ち、十字架から引き抜かれた釘を手に持っている。絵の手前には、背をこちらに向けた太っちょの天使がキリストを見つめて立っている。

 その絵が手に入りますように、と主にお願いした。美しい絵で信心の雰囲気を漂わせていたからである。それを買わないかと見せられた人が、「死体じゃないか」と断ったことを知って、私は悲しくなった。主よ、私にとってあなたは常に生命です。

 何度も繰り返し申し上げます。主よ、あなたのお伴がしたいのです。ご受難と十字架の辱めと残酷さをあなたと共に苦しみたいと思っております。

 十字架に出会うとは、キリストに出会うことである。

 イエスよ、各瞬間に十字架の寛大さを〈生きる〉ことができるよう、神であるあなたの血を私の血管に注ぎ込んでください。

 十字架で死去されたイエスの前で祈りなさい。キリストの生命と死が、あなたの生活と神のみ旨に対する応え方の模範となり刺激となるためである。

 苦しみや償いのときには、十字架は贖い主キリストの印であることを思い出しなさい。十字架は、悪の象徴ではなく、勝利の象徴になったのである。

 料理には、材料の中で〈最高のもの〉、すなわち犠牲を加えなさい。

何日間かは大きな犠牲を実行するが、他の日には止(や)めてしまうような態度を、犠牲の精神と呼ぶことはできない。

 犠牲の精神とは毎日、自分に打ち勝ち、愛の心で目立たず地味に、大小さまざまな犠牲を捧げることである。

 小さなこと ― 些細な困難と大きな困難 ― は、犠牲すなわち唯一の犠牲である主の大きな苦しみに合わせると、値打ちを増して宝物となる。そうなると私たちは、喜びに満たされて勇敢にキリストの十字架を担うことだろう。

 その結果、すぐに克服できない苦しみはなくなり、何者(なにもの)も何事も私たちから平安と喜びを奪うことができなくなるだろう。

 聖パウロが教えるように、使徒になるには、十字架につけられたキリストを身に帯びなければならない。

 正にその通り。聖なる十字架は、私たちの生活がキリストのものであることを疑う余地なく確認してくれる。

 十字架は苦しみでも不快でも悲しみでもない。それは、キリストが勝利を得られた聖なる木であり、主がお送りになることを喜びと物惜しみしない心で受け入れれば、私たちが勝利を得るところである。

 聖なる犠牲(ミサ)の後で、あなたに分かったことがある。兄弟たちの堅忍だけでなく、彼らの地上での生活までが大部分、あなたの信仰と愛 ― 償いと祈りと活動 ― 次第である。

 主キリストとあなたと私は、なんと幸いな十字架を担っていることか。

 イエスよ、熱狂的な愛の篝(かがり)火(び)になりたいのです。私がいるだけで、周囲何キロメートルにもわたる世界を消えない火で燃え上がらせることができればと思っています。私があなたのものであることを知りたいのです。その後でなら、「十字架よ、来たれ」と言えるでしょう。

 苦しみ、愛し、信じる ― 素晴らしい道である。

 病に伏すときの苦しみを愛の心で捧げなさい。苦しみは、神を称えて立ち昇る香となり、あなたを聖化することだろう。

 神の子であり、主の恩恵を得ているあなたは、強い人間、つまり望みと行いの人でなければならない。

 私たちは温室育ちの植物ではない。世の直中に住み、東西南北の風、暑さや寒さ、雨や嵐に晒(さら)されていなければならないのである。ただし、神とその教会への忠実を保ちつつ。

 軽蔑を愛そうと思っているが、いざ受けてみると、なんと辛いことか。

 驚かずに、その軽蔑を神に捧げなさい。

その軽蔑にあなたはずいぶん傷つけられた。あなたがいとも簡単に自分が何者(なにもの)であるかを忘れている証拠である。

 不当だと考える非難を受けたなら、そのときは神のみ前で自らの行いを〈喜びと平安の心で〉、つまり明るく冷静に糾明しよう。そしてたとえあなたの行いが無害であっても、愛徳の面から見て必要なら、行いを正すことにしよう。

 聖人になるよう、日々いっそうの努力を傾けて戦おう。そしてその後は、あの至福八端の言葉を当てはめることのできる限り、〈好きなことを言わせておくことにしよう〉。「わたしのためにののしられ、迫 害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである」。

 誰がどこで言ったか憶えていないが、讒言(ざんげん)は抜きん出た人に対して強暴性を発揮すると言われる。台風が背の高い木を強く打つのと同じである。

 陰謀、本人の卑しい心に見合った邪(よこしま)な解釈、臆病者の陰口。悲しいことだが、色々なところで繰り返される場面である。そういうことをする人たちは、自ら働かないだけでなく、他人を働かせない。

 あの詩編の言葉をゆっくり黙想し、その後で仕事を続けなさい。「兄弟はわたしを失われた者とし、同じ母の子らはわたしを異邦人とします。あなたの神殿に対する熱情がわたしを食い尽くしているので、あなたを嘲(あざけ)る者の嘲りがわたしの上にふりかかっています」。

 人みな善人とは言え、善いことをしようとすれば、必ず噂や陰口という聖なる十字架を担わなければならない。

「お前たちは、立ち帰って静かにしているならば救われる。安らかに信頼していることにこそ力がある」。主はご自分の者たちにこう保証なさった。沈黙と信頼こそ、逆境に置かれて何ら人間的な手段がないときの二つの根本的な武器である。

 ご受難とご死去のときのイエスを眺めなさい。不平を言わずに苦しみを忍ぶことも、愛の尺度である。

 余すところなく神のものとなり、神ゆえに人々のものになりたいと強く望む人が祈っていた。「主よ、あなたがこの罪人のなかでお働きくださるよう、そして私の意向を正し、清め、純粋なものにしてくださるよう、お願い致します」。

 譲歩する態度と譲歩しない態度とを両立させた、あの博学で聖なる人の寛容には、本当に感動した。その人は、「神を侮辱しない限り、どんなことにも妥協しよう」と言ったのである。

 あなたの生涯を通して、あなたを困らせ、また困らせようとした人たちが、どれほどあなたに良いことをしてくれたことになるかを考えなさい。

 他の人なら、そのような人々を敵と呼ぶだろう。あなたは敵がいるとか、いたとか言うほどの大物ではないのだから、この点についても聖人たちを真似て、その人たちのことを〈恩人〉と呼びなさい。神に祈れば、彼らに好感を抱くようにもなるだろう。

 子よ、よく聞きなさい。手酷(てひど)く扱われ、名誉を傷つけられたとき、「世の屑」であるあなたが大勢の人に騒ぎ立てられ、あたかも流行であるかのように唾を吐きかけられるとき、あなたは幸せだと思わなければならない。

 辛い、とても辛い。忍びがたいことだ。しかしそれも、遂には聖櫃に近づいて、自分が世の屑、蛆虫と思われていることを認め、「主よ、あなたが私の名誉をお望みでないのなら、どうして私がそれを望めましょうか」と心から申し上げるまでのことである。

 そのときまで、すなわち犠牲と悲しみをもとにして徹底的に裸になり、愛ゆえに余すところなく捧げるまで、神の子が幸せとは何であるかを知ったとは言えないのである。

 善人が反対する? それは悪魔の仕業である。

 心の平安を失っていらいらするということは、あなたの理性から〈理〉を取り除いたようなものだ。

 そういうときは、平安と落ち着きを失って湖に沈むペトロに師キリストの仰せになった言葉が再び聞こえてくる。「なぜ疑ったのか」。

 秩序はあなたの生活に調和をもたらし、堅忍する力を与える。秩序はあなたの心を平和に、行いを沈着にする。

 あなたの心に安らぎを与えるだろうから、次の言葉を書き写しておこう。「これ以上はひどくなり得ないほど経済的に困った状態にいるが、心の平和を失うことはない。父なる神が一度に何もかも解決してくださると堅く信じている」。

 「主よ、私の心遣いをことごとく御手に委ねます。こんな時、私たちの母 ―あなたの御母 ― は、カナの婚宴のときのように、『ぶどう酒がなくなりました』と伝えてくださったはずです。イエスよ、あなたを信じ、あなたに希望し、あなたをお愛しいたします。私のためには何も望みません。すべて人々のためなのです」。

 あなたのみ旨を愛します。偉大な先生である聖なる清貧を愛します。

 あなたの、いとも正しく、いとも父親らしく、いとも愛すべきみ旨から、たとえわずかでも離れる原因となるものすべてを、常にいつまでも憎むことにいたします。

 清貧の精神、現世の財から離脱した心は、使徒職に多大の効果をもたらす。

 ナザレは信仰と離脱の道であり、創造主が天の御父に対するように、被造物(人間)に従われたところである。

 イエスは常に愛を込めて優しくお話しになる。私たちを正すときや逆境に置かれるとき、やはりそうなさる。

 神のみ旨を完全に自分のものとしなさい。そうすれば、困難も困難でなくなる。

 神は、あなたが自分自身を愛する愛をはるかに超える愛で、あなたを愛してくださる。だから、主の要求をすべて受け入れなければならない。

 恐れずに神のみ旨を受け入れなさい。信仰が教え要求するところに従って、あなたの生活全体を築きあげる決心を躊躇せずに固めなさい。

 そうすれば、悲しみや中傷に襲われているときにも、きっと幸せを感じることだろう。人々を愛し、人々を超自然の喜びにあずからせる努力をせよと駆り立てる幸せである。

 困難に襲われる。それすなわち、父なる神があなたを愛しておられる証拠である。

 愛することを知る人々の生涯はすべて苦しみの溶鉱炉と言えようが、たとえ辛くても恐れずにキリストの跡を辿る人は喜びに出合うだろう。主はこうお教えになる。

 あなたの精神を償いによって強くしなさい。困難が襲ってきても、決してがっかりしないためである。

 あなたは一体いつになったら、生命であるキリストと一致する決意を断固として固めるつもりなのだろうか。

 イエスの歩みに堅忍して従うには、常に自由に、常に望みつつ、絶えずあなた自身の自由を行使しなければならない。

 改善可能な事柄一つひとつの中にたくさんの異なる目標のあることが分かり、あなたは驚いている。

 それらは、〈道〉の中の、また数多い道であり、そのおかげで惰性に陥るのを避け、もっと主に近づくことができる。

 努力を惜しまず、もっと高いところを狙いなさい。

 謙遜に、すなわち、まず決して不足するはずのない神の祝福を頼りにして働きなさい。次いで、良い望みと仕事の計画、それにあなたが出合うもろもろの困難をもとにして働きなさい。ただし、困難の一つはあなたの聖性の不足であることを忘れてはならない。

 日毎に良くなるために戦いを続けるなら、効果的な道具になれるだろう。

 あなたは祈りの中で主に申し上げたことを私に打ち明けてくれた。「考えてみると、あなたの恩恵を受けているにもかかわらず、確かに私の応え方が足りないために、惨めさが増していくようです。私にはあなたが要求なさる事業のための準備がまったくできていないことはよく知っております。そして、名声と才能とお金を持った大勢の人たちがあなたの御国(みくに)を守ろうと話し、書き、組織作りに精を出す様子を新聞で読んで、自分自身に目を移すと、無知で貧しく、つまらない人間に過ぎない自分が見えます。あなたがこのような私をお望みであることを万一知らなかったとすれば、私は恥ずかしくてどうしたらよいのか分からなくなったことでしょう。しかし、イエスよ、本当に喜んで私の野心を、信仰と愛を、あなたの足元に差し出したこと、また私が愛し、信じ、苦しむ覚悟のあることをあなたはご存じです。この点では確かに裕福で知恵ある者になりたいと望んでいます。しかし、限りない慈しみによってお定めになった以上に裕福で知恵ある者になることは望みません。あなたのいとも正しく、いとも聖なるみ旨を忠実に果たすため、私の名声と名誉のすべてを捧げるべきだからです」。

 私はその良い望みを単なる望みで終わらせないように、と勧めておいた。

 十字架は、引きずらないでしっかり担いなさい。

 人類全体の重さを肩で感じなさい。そしてそれぞれの身分と仕事に固有な状況のなかで、御父のみ旨の明白で愛すべきご計画を果たしなさい。神の愛はこう招いている。

 後にも先にもこれ以上の馬鹿はあるまいとも言うべき前代未聞の馬鹿は〈彼〉である。誰のために身を捧げたかを考えてみれば、〈彼〉の狂気のような献身にまさる献身があり得るとは考えられない。

 なぜこう言うのか。いたいけない幼子になってくださったこと自体が狂気の沙汰だからである。しかしそれだけなら、大勢の悪人も敢えて手荒く扱わずに心を和らげたことだろう。まだ足りないと考えられた御方はさらに遜(へりくだ)って自らを捧げ、食物となられた。パンになってくださったのである。

 神的な狂気としか言いようがない。「人々はあなたをどのように扱っているのでしょうか」。「私自身はどうでしょうか」。

 イエスよ、あなたの狂気のごとき愛には心を奪われてしまいます。あなたを食する人が大きくなれるように、あなたは無防備の小さなものとなってくださいました。

 あなたの生活を、根本から徹底的にご聖体中心にしなければならない。

 私は好んで聖櫃を〈愛の牢獄〉と呼ぶ。二十世紀の昔から主はそこにおられる。私のため、すべての人のために、自ら進んでこもってくださったのである。

 一生に一度しか聖体を拝領できないとすれば、主をお迎えするためにどんなに心を込めて準備をするか、考えたことがあるだろうか。

 いとも簡単に主に近づくことができることに感謝しよう。ただし、その感謝は、主を拝領するためによい準備をすることによって示さなければならない。

 主に申し上げなさい。「今後は、一生の最後の出来事のつもりで、篤い信仰と焼き尽くすほどの愛をもって、聖なるミサをたて、あるいはミサに与り、ご聖体を配り、あるいは拝領いたします」と。

 そして、あなたの過去の怠りを思い出して痛悔しなさい。

 あなたが聖なるユーカリスチア(聖体)を毎日拝領したい気持ちはよく分かる。神の子であることを自覚している人なら、何がなんでもキリストを必要とするからである。

 聖なるミサに与るときは、神的な犠牲に参加していること、すなわちキリストが祭壇上で再び自らをあなたのためにお捧げになることを考えなさい。事実その通りなのだから。

 主を礼拝するとき、申し上げなさい。「あなたに希望します。あなたを礼拝します。あなたをお愛しいたします。私の信仰を増してください。人間の数々の弱さを救うために無抵抗なご聖体となられたあなたが、どうぞ私の弱さの支えとなってくださいますように」。

 イエスのあの言葉をよく噛み締めて自分のものとしなさい。「あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」。聖なる犠牲に対して最高の関心と愛を示す最もよい方法は、教会がその知恵をしぼって定めた典礼を細部に至るまで丹念に心を込めて守ることである。

 愛を示すだけでなく、内的にも外的にもイエス・キリストに似る〈必要〉を強く感じなければならない。広い空間を備えたキリスト教の祭壇を、キリストの花嫁の願い、つまりキリスト自身のみ旨に従って、落ち着いて優雅に動くのである。

 ご聖体の主を拝領するとき、この世の重要人物を迎えるように、いや、それ以上に飾り立て、明かりを灯し、晴れ着を着て、お迎えしなければならない。

 どのような清さ、どのような飾り、どのような明かりで、と尋ねるなら、「あなたの感覚一つひとつを清め、能力一つひとつを飾り、心全体を明かりで灯して」と答えよう。

 聖体を中心にして生きる人になりなさい。子よ、あなたの思いと希望の中心が聖櫃にあれば、聖性と使徒職はなんと豊かな実を結ぶことだろう。

 神を礼拝するために使われるものは、芸術的でなければならないだろう。ただし、礼拝が芸術のためにあるのではなく、芸術こそが礼拝のためにあることを忘れてはならない。

 実際に足を運んで、あるいは心の中で、辛抱強く聖櫃に近づきなさい。安心を得るため、落ち着きを感じるためである。また、愛されていると感じるため、そして愛するためでもある。

 ある司祭が自分の使徒的事業に加わった人たちに述べた言葉を写してみよう。「祭壇上の聖体顕示台に安置された聖なるホスチアを眺めるとき、キリストの深い愛と優しさを考えなさい。あなたたちに対して抱く自分の愛を考えると、私にはキリストの聖心がよく分かる。遠くで働きながら、あなたたち一人ひとりの傍らにいることができるのなら、大喜びでそうすることだろう」。

 「ところで、キリストはそれがおできになる。そして、世界中のすべての心が抱くことのできる愛を遥(はる)かに超える深い愛で、私たちを愛する神が残ってくださったのである。私たちがいつもキリストの聖なる人性に一致していることができるよう、また忠実になれるよう助け、慰め、力づけるためである」。

 人に仕えつつ生きることが簡単だと思ってはならない。使徒聖パウロが教えるように、「神の国は言葉ではなく力にある」のだから、その立派な望みを実行に移さなければならないのである。また、犠牲を払わずに絶えず他人に助けの手を差し伸べることはできないのである。

 常にすべてにおいて教会と同じ心を持ちなさい。それができるよう、必要な霊的・教理的形成を受けなさい。そうすれば、現世の事柄を正しく判断する規準を備えた人、間違いに気づいたらすぐに正す謙遜な人になるだろう。

 自らの過ちを潔く正すことは、個人の自由を行使するための真に人間的かつ超自然的な方法である。

 キリストの教えという光を大急ぎで広めなければならない。

 形成という宝を積み、明確な考えと十全なキリストの使信(メッセージ)をしっかりと身につけなさい。後でそれを人々に伝えるためである。

 神が特別の照らしを下さるなどと期待してはならない。勉強や仕事という私たちにできる具体的な手段があるのに、そんなものをお与えになるはずがないのである。

 誤謬(ごびゅう)は知性を暗くするだけでなく、人々の意志を分裂させる。

 逆に、「真理はあなたたちを自由にする」、すなわち真理は、愛徳を枯渇させる党派的な分裂からあなたを守ってくれるだろう。

 挨拶さえしないあの同僚と頻繁に接しなければならず、あなたは辛いと感じている。

 辛抱しなさい。裁いてはならない。あなたと同じように、その人には〈その人なりの理由〉があるのだろう。あなたは自分の理由を大切にして、毎日その人のために祈ってあげなさい。

四つ足で這いつくばったような生活をしているあなたが、他人が天使でないのを知って驚くのはなぜだろう。

 聖なる純潔を保つよう愛を込めて警戒していなさい。火事を消すより、火花を消すほうが簡単なのだから。

 しかし必須の武器である犠牲と苦行帯と断食でどれほど努力しても、わが神よ、あなたの助けがなければ、ほとんど役に立ちません。

 常に記憶しておいて欲しいことがある。あなたは自分のまわりに居る人たちとすべての人々の霊的・人間的形成に協力しているということ。聖徒の交わりはここまで届くのである。しかも、いつでも、すなわち働いているときも休んでいるときも、喜んでいるときも心配しているときも、仕事場あるいは町中で神の子の祈りをしていて心の平和が表に現れているときも、苦しんでいる― 涙を流している ―ときも、微笑んでいるときにも。

 聖なる強制と、盲目的な暴力あるいは復讐との間には、何の関係もない。

 師キリストはすでに仰せになっていた。少なくとも闇の子らが自分たちの行動に注ぐのと同じだけの努力と執拗さを、光の子らが良い行いをするために注いでくれればいいのだが、と。

 不平を言ってはならない。不平を鳴らすかわりに、豊富な善で悪を溺れさせるために働きなさい。

 使徒職の超自然的な効果の妨げとなるような愛徳は、偽りの愛徳である。

 神は、堅く信じるしっかりした男女、つまり頼りにできる人々を必要としておられる。

 この世や私たちの名誉のためではなく、神の誉れと神の栄光のため、神に仕えるために生きる。これこそ、私たちの行いの動機でなければならない。

 主イエス・キリストが教会を創設されて以来、母なる教会は絶え間なく迫害を受けてきた。おそらく昔は公然たる迫害であったが、今は往々にして陰険な方法で組織的に迫害が加えられていると言えるだろう。いずれにせよ、昨日と同じく今日も、教会への攻撃は続いている。

 責任を自覚したカトリック信者として毎日を生きる、重大な義務のあることが分かるだろう。

 次の処方箋に従って生きなさい。「私は自分が存在することすら思い出さない。自分のことは考えない。そんなことをする時間がないから」。

 働き、そして仕えるのだ。

私たちの母・聖マリアの飛び抜けた素晴らしさの根拠となっているのは、真心を込めて最後の最後まで徹底的に神のみ旨を果たす愛、そして神のお望みのところで喜んで過ごし、私心をすべて捨てること、これである。

 だから、聖母の仕草のうちで最も些細なものでさえ、取るに足りないとは言えないのである。倣いなさい。

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