眩惑(げんわく)

 神の子らは人々のこの世における様々な道を照らす唯一の炎・唯一の光の運び手である。その光の中では、暗闇(くらやみ)も薄闇(うすやみ)も影もない。

 この光で周囲を照らすために、主は私たちを松明(たいまつ)としてお使いになる。大勢の人が暗闇に留まることなく永遠の生命に通ずる道を歩むか否(いな)か、ひとえに私たち次第なのである。

 神は私の父である。この点をよく黙想するなら、慰めに満ちたこの考えから離れることはないだろう。

 イエスは私の親しい友である(もう一つの地中海、つまり再発見)。そして聖心(みこころ)の神的な狂気を込めて愛してくださる。

 慰め主なる聖霊は、私のすべての歩みを導いてくださる。

 あなたは神のものであり、神はあなたのものであることを、とくと考えなさい。

 御父には信頼の心で接しなさい。天におられる私の父よ、慈しみ深い愛の心で私を見つめ、私があなたに応えることのできるようにしてください。

 堅くて頑固な私の心を溶かし、燃え立たせ、だらしない肉体を焼き清め、私の知性を超自然の光で満たし、私の舌を神の愛とキリストの栄光を告げ知らせるものとしてください。

 永遠の大祭司として両腕をいっぱいに広げて十字架にあげられたキリストは、〈すべての〉人に贖いの実りをもたらすため、〈無に等しい私たちを頼りにしておられる。

 主よ、私たちはあなたの傷ついた御手の中で喜びに満たされています。この世の惨めさをすべて捨て去り、自らを清め、燃え上がり、御血に浸されていることを感じとれるよう、御手で強く握りしめ、すべてを絞りだしてください。

 そしてその後で、あなたに対する愛ゆえに収穫を切望する私たちが、日毎により豊かな刈り入れができるよう、私たちを遠く蒔き散らしてください。

 恐れたり、驚いたり、怯(おび)えたり、誤った分別に引きずられたりしてはならない。

 神のみ旨を果たせという呼びかけは、召し出しと同じく突然にやって来る。使徒たちの場合もそうであった。彼らはキリストに出会い、その呼びかけに従ったのである。

 誰一人として疑わなかった。キリストを知ることと、キリストに従うこととは、まったく一つだったのだ。

私たちの救いの日・永遠の日がやって来た。再び、神なる牧者の口笛・優しい言葉が聞こえてくる。「わたしはあなたの名を呼ぶ」と。

 神は母のように名指しで招いてくださる。しかも、親しい愛称で呼んでくださるのだ。そう、心の奥でお呼びになるのだから、応じなければならない。「お呼びになったので参りました」、水の跡も残らない転(てん)石(せき)のように、無駄な時間を過ごさない覚悟が今度こそできております。

 キリストと共に生きなさい。福音書の中に入り込んで、ペトロやヨハネ、アンデレと一緒にいる、もう一人の人物にならなければならない。キリストは今も生きておいでになるからである。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」。

 主よ、あなたの子どもたちが、遠くから見えても炎は立てず真っ赤に燃える熾(おき)火(び)、近づく心の一つひとつに最初の火を点(とも)す熾火となりますように。

 あなたはその火花を大火にしてくださるでしょう。主の天使たちは人々の心の埋(うも)れ火に息を吹きかけることにかけては達人(たつじん)です。私にはよく分かっています。見たのです。そして灰を吹き払った心こそ、あなたのものです。

 聖霊の仰せになることをよく考えなさい。驚きと感謝で心が一杯になるだろう。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」。

 聖人になるのは楽なことではないが、難しいというのでもない。聖人になるとは良い信者になること、キリストに似ることである。キリストに似れば似るほど、より良いキリスト信者であり、よりいっそうキリストのものであり、より聖人だということになる。

 ところで、どんな手段があるのだろうか。キリストを見ることのできた初代の信者、あるいは使徒たちや福音史家の話を通して主を垣間見た人たちの手段と同じである。

 あなたは父なる神になんと多くの負債を負っていることか。神はあなたに存在と知性と意志、その他をお与えになった。恩恵、すなわち聖霊、ホスチアにおけるイエス、神との父子関係、神の御母であり私たちの母である聖なる処女(おとめ)マリアをお与えくださった。また、聖なるミサに与(あずか)ることができるようにし、幾度となく繰り返しあなたの罪を赦し、無数の賜物のみならず時には特別の賜物をお恵みくださった。

 子よ、答えてごらん。一体、今までどれほど応じて来たのだろうか。今どの程度まで応えているのだろうか。

 あなたがどう思うかは知らないが、預言者イザヤの言葉を読んだ後の私の思いをあなたに打ち明けたい。「あなたはわたしのもの。わたしはあなたの名を呼ぶ」。私はお前を呼んだ、私の教会に導き入れた、お前は私のものだ。私は神のものだ、神ご自身が言ってくださったなんて。神の愛に気も触れんばかりになって当然ではないのか?

 よく考えなさい。世界中に大勢の男女がいるけれど、師キリストがその中のたった一人さえ、呼ばずに放っておかれることはない。

 キリストは、キリスト教的な生活、聖性の生活、選ばれた者の生活、永遠の生活に、彼らをお呼びなのだ。

 キリストはあなたのため、あなたの代わりに苦しんでくださったが、それは罪と不完全への隷属状態からあなたを救い出すためである。

 今のように、暴力や獣のような野蛮な性の氾濫する時は、反抗することこそ、私たちの義務である。あなたも私も、流れに引き込まれて獣のようになりたくないから、反抗するのである。

 私たちは神の子として振る舞いたい。天においでになると同時に私たち一人ひとりの近く私たちの中 ― にいることを望まれる御父、その父なる神に親しく接する人間らしく振る舞いたいのである。

 しばしば黙想しなさい。私はカトリック信者、キリストの教会の子である。キリストは、何の功徳もない私が〈ご自分の〉家族の中で生まれるようにしてくださった。

 わが神よ、私はあなたに対して本当にたくさんの借りがあります。

 すべての人に、中でもキリスト者を自称する大勢の父親や母親たちに思い起こさせなさい。召し出し、つまり神の呼びかけは、主の恩恵・寛大な神の選び・聖なる誇りであり、イエス・キリストを愛するがゆえに喜んですべての人に仕えることである、と。

人々に告げなさい。神が子供たちを要求なさるのは親にとって犠牲ではない。また、主の召し出しに従うのはその呼びかけを受けた人にとっても犠牲ではない。

 それどころか、召し出しとは、計り知れない誉れ、大きくて聖なる誇り、寵愛のしるし、特別の愛情であって、永遠の昔から神のお考えのなかにあったことを、具体的な瞬間に神が明らかになさったことである。

 命を与え、神の子になることができるようにしてくれたことに対して、あなたは両親に感謝しなければならない。さらに信仰や宗教心、キリスト者としての歩み、あるいは召し出しの、最初の種を蒔いたのが親であるなら、おさらのこと、もっと深い感謝の心を彼らに示さなければならない。

 周囲に大勢の人がいるが、彼らの霊的な善や永遠の幸せの邪魔をする権利は、あなたにはない。

 あなたは聖人になる義務がある。選んでくださった神を欺(あざむ)かないため、またあなたのキリスト者としての生き方に大きな期待を寄せる人々を裏切らないためである。

 父母を愛せよ、という戒めは、自然法と神的実定法の定めであるが、私は従来からそれを〈いとも甘美な掟〉と呼んできた。

 日毎に親をより深く愛し、彼らのために犠牲を捧げ、彼らのために祈り、彼らのおかげで得たすべての善に対して感謝する義務を、疎(おろそ)かにしてはならない。

 師なるキリストのお望みに従って、あなたは今生きるこの世界と人間の全活動の中に入り込み、そこで塩となり、光とならなければならない。知性と心を照らす光、風味を与え腐敗を防ぐ塩となるべきなのだ。

 だから、万一、使徒職への熱意が欠けるようなことになると、あなたは味のない無用の長物と化し、人々を欺き、自分でも馬鹿げた生活を送ることになる。

 不潔で腐った ― 赤や緑の ― 波が、やっきになってこの世を被い始め、贖い主の十字架に汚い唾を吐きかけている。

 主のお望みは、私たちの心からキリストの右手のように清くて強いもう一つの波が流れ出て、すべての物質主義をその清さで溺れさせ、世界中に氾濫した腐敗を追放することである。このため、そしてこれ以上のことのために、神の子らが来たのである。

 自己を正当化するためなのだが、大勢の人は「なぜ私が他人の生活に介入しなければならないのか」と自問する。

 人々に仕えるため人々の生活に入り込むのは、キリスト者の義務だからである。

 キリストがあなたや私の生活に入り込まれたからである。

 あなたがもう一人のキリストであるなら、神の子らしく振る舞うなら、どこに居ても背水の陣を敷いて頑張るはずだ。キリストはすべてを焼き尽くし、誰の心を無関心のままに放って置かれない。

 二千年を経(へ)た今も、世界中でキリスト者と呼ばれる人がこんなに少ないのを見ると、心が痛む。

 キリスト者と称される人々の中に、イエス・キリストの真の教えを実行する人がこれほど少ないのを見ると、また心が痛む。

 全生涯を賭ける値打ちがある。神のご計画を推し進め、贖いの協力者となるため、神の愛ゆえに働き、そして苦しむのである。

 私のイエスよ、あなたの十字架を見、あなたの恩恵を喜んでいます。カルワリオの褒美として聖霊が恵まれたからです。また、あなたは日々、聖なるホスチアのかたちで愛に狂ったご自身をお与えになります。私を神の子にしてくださったし、御母も与えてくださいました。

 感謝するだけでは満足できない。思いは飛んで「主よ、主よ、大勢の人があなたから遠く離れています」と、主に申し上げる。

 人々が主を知り、主を愛し、そして主に愛されていると感じることのできるよう、使徒職に精を出そうと強く望みなさい。

 あなたがしばしば話してくれたことだが、往々にして人々は、愛を自己満足のための衝動、自己の人格を完成させるための単なる手段に過ぎないと考えている。

 私が常に主張していることだが、愛とはそんなものではない。真の愛は自分の殻を抜け出してすべてを捧げるよう要求するのである。本物の愛には喜びが伴うが、その喜びの根は十字架の形をしているのだ。

 わが神よ、十字架像を見て、痛みと愛の心から叫び出さずにいることができるでしょうか。

 神の寛大さに驚嘆しなさい。私たちを贖うため、そして無に等しいあなたと私が ― これを認めて当然だと思うが ― 、信頼をもって接することのできるよう、神は人となってくださったのである。

 イエスよ、私たちの心を強くし、道を整えてください。特に、神の愛に酔(よ)わせてください。そうして、あなたが持って来られた神的な火でこの世を燃え上がらせるため、私たちを赤々とした篝(かがり)火(び)にしてください。

 神にもう少し近づくとは、新たな改心や新たな改善を実行し、心に生まれた聖なる望み、すなわち霊感に注意深く耳を傾け、それを実行する心構えができているということである。

 あなたは何を思い上がっているのだろうか。あなたを励まし、促すのはすべて神である。この事実に即(そく)した振る舞いをしなさい。

 神はご自分に属するものとして一人ひとりを愛されるのであるから、私たちはたった一人の人間に対しても、どれほどの敬意と尊敬と愛を示さなければならないことだろう。

 渇望 ― 主がお与えになる日々を、主をお喜ばせするためだけに使いたい。

 あなたがペトロやヨハネのように振る舞ってくれるよう希望する。友人や仕事仲間の必要事を、イエスと話し合うため、祈りの話題とし、その後あなたの模範で、「わたしたちを見なさい」、私を見なさい、と言えるようになって欲しいのだ。

 心から人を愛するなら、その人に関係のあることすべてを知りたくなるものである。

 次の点を黙想してみなさい。あなたはキリストが知りたくてたまらなくなっているだろうか。知りたいと思うのに比例して愛が深まるはずだから。

 司祭が孤独だと言う人は、間違っているか、嘘をついているかである。私たち司祭は他の誰にもまして同伴者に恵まれている。主が常に付き添ってくださっているからである。私たちはその主と絶えず接していなければならない。

 私たち司祭は、愛なる御方・愛なる創造主に惚れ込んでいるのだ。

 私は自分を惨めな小鳥だと思っている。木から木へ飛び渡ることだけに慣れており、三階のバルコニーに届くのが関の山。ある日、勇気を出して、とある慎ましい家の屋根まで飛んだが、それはもちろん高層ビルではなかった。

 ある時、自分の雛と思い込んだ(わし)が小鳥を捕え、強力な鈎爪に挾んだまま、ぐんぐんと高みに昇って行った。山々を越え、雪の峰をまたぎ、白や青やバラ色の雲を抜けて、太陽を直視するところまで。そこで鷲は小鳥を放し、さあ、飛べと言う。

 主よ、私が再び地上すれすれを飛ぶようなことがありませんように。いつもご聖体におけるキリストという神的な太陽の光に照らされていることのできますように。あなたの聖心のうちに憩うまで休みなく飛び続けますように。

私は神のみ旨を愛します。それゆえ、すべてを委ねます。お望みのおりに、お望みのところへお連れください」。私たちのあの友は、この言葉で祈りを締め括った。

 あなたが自分自身を知ることができ、また悲しいことにたくさんの汚れ物があなたを通っただけでなく、後に多くの沈殿物を残したことを思って泣くことができるよう、御父と御子と聖霊、そして御母に、助けをお願いしなさい。同時に、このような考えを止めようと望むことなく、主に申し上げなさい。「イエスよ、清めの火のごとき愛をください。私の肉、哀れな心、哀れな霊魂、哀れな体を焼き尽くし、現世的なすべての惨めさから清めてくれる愛を。そしてひとたび自らを空にした後は、あなたに満たされ、この地上の何ものにも執着せず、常にあなたの愛に支えられますように」。

 良きにつけ悪しきにつけ、自分自身のためには、何も望まないようにしなさい。神のお望みだけをあなたの望みとしなければならない。

 何であろうとも、神のお送りになるもの、その御手から来たものであれば、たとえ人間の目には悪いことのように見えても、神の御助けを受けたあなたには良きもの、すこぶる良きものと映ることだろう。そして日々確信を深めつつ言うだろう。「あなたは悩みの時に憩いを与え、…わたしの杯(さかずき)を溢れさせてくださる。何と素晴らしい杯!」、わたしは悩みのとき喜んだ、あなたの杯のなんと素晴らしいことか、わたしの全存在を酔わす杯よ、と。

 主には、アベルの犠牲を捧げなければならない。若くて美しい肉、群れのなかの最良の羊、健康で聖なる肉、ただ一つだけの愛 ― すなわち、わが神よ、あなただけを愛する心 ― 、深い研鑚によって形成され、あなたの知恵を前にして頭を下げる知性、あなたをお喜ばせすることしか考えない子供のごとき心を捧げなければなりません。

 主よ、今から、かぐわしい香りのこの犠牲をお受けください。

 闇の中を歩んでいる人々を明るく照らすために燭台の上に置いた明かりのように、神のみ前で燃えること、献身することを知らなければならない。祭壇の傍(かたわ)らで燃え続け、あたりを照らしつつ燃え尽きるあの聖体ランプのように。

 愛の先生である主は、妬み深い御方で、私たちのすべて、私たちの愛のすべてを要求なさる。持っているものすべてを捧げ、各々が主のお示しになった道を歩むのを、主は期待しておいでになるのだ。

 わが神よ、真似るべき模範としてのあなたを認めない限り、あなたを救い主として受け入れたことにならないことが分かりました。

 あなたは貧しくなることをお望みになりましたから、どうか聖なる清貧を愛する心をお与えください。あなたのお助けを得て立てる私の決心、それは、仮に莫大なお金を持ち合わせていたとしても、貧しく生き、貧しく死ぬことです。

 主のためであれば、すべてを投げ打っても足りないと思う。こう打ち明けると、あなたは考え込んだ。

 〈神のみ旨を愛する〉ことこそ、この人の生き方の特徴だ、人々から言われるようになれば、素晴らしいのだが…。

 たとえまったく目立たず、まったくもって取るに足りない仕事であっても、神に捧げることによって神の命の力を持つようになる。

 あなたの使命に対する責任を自覚しなさい。天全体があなたを眺めているのだから。

 神はあなたに期待しておられる。だからあなたの居るところで、愛と喜びと夢をもって主に倣い、主に一致するため、自らを縛っても努力しなければならない。たとえ意に反するような状況に一時的、あるいは永続的に置かれたとしても、そうしなければならない。

神はあなたに期待しておられる、忠実なあなたを必要としておられるのだ。

 あなたは書き記していた。「私の王よ、『わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか』というあなたの叫びが、未だに生き生きと私の耳に響いています」。

 続いて、「主よ、私はすべての感覚と能力をもって、つまり、私のすべてを賭けてあなたにお応えいたします。『お呼びになったので参りました』」と、書き加えた。

 そのような応え方が日々実現すればと思う。

 大勢の人は年を経て高齢になってから手に入れるが、あなたは今から節度と剛毅、責任感を身につけなければならない。神の子であるという超自然的な感覚を失わないでいてくれる限り、若くしてこれらすべてをものにするだろう。神は、使徒的事業のために必要なこの条件を、齢を重ねた者に与える以上に、あなたにお与えになるからである。

 あなたは内的な喜びと平和を満喫している。そして何ものにも替えがたいと思っている。神はここにおいでになるのだから、悩みが悩みでなくなるよう、悩みを神にお話しすることほど良いことはない。

 キリストが二十世紀もの長きにわたって地上で働いておいでになるのに、世界が未だにこのような状態にあるなんてことが信じられるだろうか。あなたはこう尋ね、また、未だにキリストを知らない人がいるなんてことがあり得るのだろうか、繰り返していた。

 私は確信を持って答えた。私たちのせいなのだ。贖いの協力者になるよう召されたのに、時として、そしておそらくは頻繁に、この神のみ旨に応えていないからだ、と。

 イエスの謙遜。それとは対照的になんと恥ずかしい私。ごみ捨て場のごみに過ぎない私は、何度も、尊厳や正義の口実のもとに自らの高慢を隠している。こうして、それらを超自然化しないがために、幾度(いくたび)、師キリストに従う機会を失ったり、活用しなかったりしたことか。

 甘美な聖母よ、私たちのキリストを人々が夢中になって愛するようにしたいのです。私をそのような狂気にまで導いてください。

 甘美な婦人マリアよ、私たちの愛が、腐敗した肢体の、時として発する鬼火のような偽物の火でなく、本当に猛烈な火となり、触れるものすべてを焼き尽くすことができますように。

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